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Chuhei
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8月5日の夜から6日にかけて、61年前西宮市街の大半が空襲で焦土となりました。また6日には原爆が広島に投下されています。私は7月23日、西宮空襲の語り部をしました。 下の記事は、そのことを載せた神戸新聞7月24日の朝刊です。
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西宮空襲の語り部
市民平和創造祭の事務局長という人から私に、西宮空襲の体験を出前話として語ってほしいという連絡があった。
今年の七月二十二日と二十三日に、西宮市役所周辺でイベントとして、国際こども絵画展、戦争の出前話、アジアの歌や踊りの元気まつり、そして映画の上映会などをするという。そのうち戦争の出前話というのは、西宮空襲の体験者、原爆の被爆体験者、その他の戦争関係の体験者、がそれぞれ六つのテーブルに分かれて座り、参加者と膝を交えて、体験を語り自由に話し合い、テーブルに配置された進行担当者が、最後にその報告とまとめを行うというものだった。場所は市役所東館の八階であった。
私が出しているブログのエッセー『西宮大空襲』を見ての依頼であって、市民の平和団体共同のイベントで、西宮市と西宮市教育委員会が後援している。ということで、二十三日、午後、雨が降っている中私は出かけた。
会場で最初に出会ったのは、私のほか、もう一人の西宮空襲の語り部である宮本範子さんだった。会が始まるまでの間私は宮本さんから話を聞くことが出来た。
宮本さんは甲子園口にお住まいで、現在八十六歳である。昭和二十年の空襲の当時は西宮市立高等女学校で家政科の教諭をされていた。《二十歳台の若くて美しい先生だったろうな》と、私は思った。
あの八月五日から六日にかけての空襲では、甲子園口の周辺は米機の爆弾攻撃を受けた。そして爆弾の破片が、宮本さんの片腕を抜け通り、皮一枚になった腕がぶら下がっていたという。病院も焼き果てて薬もなく、片腕をもぎとられた痛みに耐えつつ、うごめき苦しんだ。しかし、勝利の日が来ると信じて残念とは思はなかった。十日後敗戦宮本さんは、はじめて悔しさと、悲嘆の涙を味わった。 そして「死ぬよりほかない」と思いつめる苦悩の日が続いたという。そして、なげやりな気持ちになっていた宮本さんを叱り励ましたのは親だった。こうして家族や周りの人に支えられて、やがて片手でも生きてゆく決意をするようになったが、それには長い時間がかったという。宮本さんはその後、義肢を付けて、教壇に復帰した。定年で退職するまで、生徒たちに片腕を失った経験を話し、戦争の理不尽さを伝えてきた。
宮本さんは、今でも傷口がうずく時がある。「絶対に戦争をしてはいけない」と大声で叫びたい毎日だと私に語られた。
時間が来て、宮本さんとそれぞれのテーブルに別れた。私のテーブルには、六十歳位の男子二人、四十歳から五十歳位の女子三名、そしてアメリカ人のフランク・チェイスさんが集まった。チェイスさんについて早速本人に聞いてみると、元米軍の空軍将校で、今は関西の大学等で講師をしながら平和活動をしている。 大阪人間科学大学の教授をしている日本人の奥さんも今日は来ていて、宮本さんのテーブルについているという。
私は語り始めた。昭和二十年八月五日夜半、当時中学二年生、勤労動員で疲れて寝ていた私は「敵機は西宮を攻撃中!」と繰り返すラジオに飛び起きたこと。南の方から火の手が迫り、途中家族とも離れ、夜空に火の雨のように炎をあげて落下する焼夷弾の中を走って北へ逃げたこと。阪神久寿川の踏切から国道二号線付近まできて振り返れば、町はすべて火炎の渦の中にあったこと。
ナパームの入った油脂焼夷弾の攻撃のあと、小型爆弾も各所に落ち、避難していた人々が死んだこと。このときの爆撃は地域からみて、軍事施設や工場を対象としたものではなく、西宮の市民の住宅を、無差別に焼き尽くし、市民を殺傷することだけが、来襲したB―二九、一三〇機の目的であったこと。空襲予告のビラは米機により一部の市民に撒かれていたこと。空襲の後、真っ黒な煤を含む雨が降ったこと。
八月六日夜が明けると、甲子園から夙川の辺りまで煙を上げる一面の焼け野原が広がり真っ黒な炭になった遺体があちこちに転がっていたこと。
家は焼け、孤児になったかと思ったが、焼け残った小学校で無事だった家族と会って千里山の親類の家に身をよせたこと。
そして、勤労動員先から派遣された甲子園球場のグランドは大量の焼夷弾が突き刺さり針ネズミのようになっていたこと。
私は夏の高校野球が始まり、大会の賛歌を聞くたびに、戦争で荒れ果てた球場の風景を思い浮かべるのである。あの廃墟のような状況では大会などもう開けないと思っていた。
雲は湧き 光あふれて
平和だから、戦争がないから、こうして野球の大会が出来るのだ。このことを絶対に忘れてはならない。私は力をこめて語った。
参加者からも、色々な話が出た。あの空襲の夜、広田神社付近からは見ると、花火のように火が降って、南の空が大きく炎に包まれていた。という話があった。艦載機の機銃掃射を受けたという話もあった。私も空襲の夜とは別の日だが、阪神の農場で突然の攻撃にあって、田の畦に伏せたことを思い出した。 そして、当時の新聞に学校の運動場に機銃掃射があり、死傷者が出たことが報道されていたことを話した。
アメリカ人チェイスさんは、空襲の日々の下で、当時の日本人はどんな気持ちだったのか? と聞いてきた。「軍人や若い人は、本土決戦を予想し、徹底抗戦を覚悟していた。しかし、隣組の非公式の座談の席などで、戦争はいつ終わるのか、早く終わってほしいという陰の声を、聞いたことがある」と私は答えた。
一時間二十分の私の語りと交流の話の後、各テーブルからの報告があった。長崎の被爆体験や広島の被爆直後の様子などを語ったグループや創氏改名を強いられた状況を語ったグループもあった。
今回は約五十人が集まったが、戦時中のことについて、ある程度の予備知識を持っている人が多かったように思う。それでも私は一夜の爆撃で一面の焼け野原となってしまっていた西宮の街の姿を、一人でも多くの人に知ってほしいと思っている。 そして西宮と同じような多くの平和な地方都市が戦火に巻き込まれ、市民の安らかな生活が奪われてしまった事実を絶対に忘れてはならないのである。
「今度はこども達を対象に、語って頂く会を考えていますので,その時はよろしく」と言う事務局長に了解の手を上げて私は会場を去った。
翌朝の、七月二十四日の神戸新聞朝刊阪神版には、この西宮の平和創造祭で「語り部らが、空襲など戦時の悲惨さまざまざと、体験を伝える」と言う記事が載っていた。
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