From
Chuhei
演劇 カウラの班長会議のパンフレットです。
|
|
カウラの場所とそこにある日本人戦争墓地です。 | |
カウラの班長会議
第2次大戦下のオーストラリアのカウラ捕虜収容所で1944年8月5日大脱走事件 が起こり、日本人捕虜234名が死亡した。この本当にあった事件を取り上げた「演劇」 が、「カウラの班長会議」である。
この演劇が7月23日、神戸の新開地にあるアートビレッジセンターKAVCホール で公演されると聞いて私はすぐに出かけた。
舞台にはハットと呼ばれる収容所内の小屋の一室が作られていた。休憩なしの2時間 半の間、舞台の背景は変わらない。この室には捕虜となった日本軍兵士16名がひとつ の班を作っている。選ばれた班長がいて、時々開かれる班長会議に出ている。そして、 班長は40人以上いて、収容所Bブロックの意思決定はこの班長会議でなされているら しい。彼らはオーストラリア兵の軍服を赤く染め上げ背中にP・O・Wと書かれた服を 着ている。そして、舞台で交わす彼らの会話から、次のことが分かってくる。
ここは地球南半球のカウラ、かなり寒い日もある。しかし毛布などは充分に支給され ている。食事も日本人向けに魚なども出されて、決して悪くない。
彼らは農作業などをしているが、それほど厳しいものでもなさそうである。野球や将棋、 麻雀などを楽しんでいる様子で、熱帯のジャングルで、食もなくさまよった末捕虜になっ た兵士にとっては、ここは天国ではないかという声もある。
この収容所の別のブロックにはアフリカ戦線から送られてきたイタリア兵の捕虜もいる。 彼らとは直接の交流は出来ないが、監視兵などを通じて、多少の情報が入ってくる。それ によると、捕虜になるということに対する考え方が日本兵と全く違う。彼らの中には捕虜 であっても戦功を上げたとして、勲章をもらったものがいるらしいという話が語られる。
日本兵は戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えから頭から離れられない。 捕虜になった時に自分はすでに戦死したと考え、本当の名前を名乗っていない人も多い。 階級や所属も自己申告制なので、どこまで本当かわからない。本名や所属が日本側に伝 わると、日本本土にいる家族は「非国民の家族だ」と非難されるからである。イタリア兵 は本国にいる家族と手紙のやりとりを活発にしているが、日本兵で手紙を出すものは誰も いない。
さらに、日本兵の会話で分かったことは、捕虜になった時期、場所、陸軍か、海軍かに よって、思いや考え方が違っているということである。この収容所で一番の古顔は開戦間 もない1942年2月、オーストラリアのダーウィンを爆撃した時に乗った零戦が撃墜さ れ、この国での捕虜第1号となった南忠男と名乗る海軍航空兵だった。最初の頃は海軍の 航空兵が多かったが、彼らは日本軍が優勢だった時期しか知らない戦意の高い志願兵だっ た。これに対し日本軍が劣勢になってからは、ガダルカナルやニユーギニヤや南太平洋の 島々で、圧倒的な攻撃を受け、ジャングルの奥深く追い詰められ、食も武器もなく戦意を 喪失した陸軍兵が多く入ってきた。最後には戦友の人肉まで食った話をしている者もいる。 彼らは召集兵で幾人かは妻子を日本に残している。
日本兵たちが食事のために全員出て行ったあとに、舞台ではオーストラリアの監視兵が 2人入ってきて、なにやら英語でしゃべりだす。舞台の奥の壁に日本語の字幕は出るのだ が、画面が薄くて私の眼からはあまり良く読めない。どうやら、この収容所の状況と日本 兵の様子を話し合っているようである。
そして私が驚いたことは、ここにオーストラリア人女性3人と日本人女性一人が現れて 英語でしゃべり始めたことだ。彼女らは現代の映画学校の関係者と、映画製作を学んでい る若い学生である。このカウラの悲劇を題材として映画作りをしようとしているのだ。
70年前を想定したハットの舞台に、現代の女性たちを出演させるのは、この演劇の劇 団「燐光群」を率いている劇作家で演出家の坂手洋二の独特の作風である。彼女らの映画 作りを通じ、時空を超えてこの事件を検証しようとしているのである。
女性たちは、日本人捕虜の「狂信的」と思える脱走事件がなぜ起こったのか話し合って いる様子である。その中でオーストラリア人女性の一人が突然日本語で戦時中よく歌われ ていた軍隊小歌を歌いだした。当時の日本兵の心情を探ろうとしていたのかもしれない。
腰の軍刀に すがりつき 連れてゆきゃんせ どこまでも 連れてゆくのは やすけれど 女は乗せない 戦闘機
女乗せない 戦闘機 みどりの黒髪 裁ち切って 男姿に 身をやつし ついて行きます どこまでも
私もよく歌った歌だが、現代の外国人女性が上手に歌うのを聴いて、その旋律になんと も悲しい気持ちになった。 彼女たちはまた、こんな悲劇が起こる前に止められなかった のか? というようなことも話しているようだ。そして、監視兵と女性たちで、パネルを 持ち出し、この収容所の説明をする。
捕虜収容所はカウラ中心街から南西へ3・2キロの地点にあった、そして、直径750 メートルのほぼ円形の土地の上にあり、周囲は三重の鉄条網に囲われていた。南北に幅5 0mの道路が走り、ブロード・ウエイと呼ばれて、夜間は明るい照明に照らされてい た。東西はやや幅狭い空地で区分されていて「ノー・マンズ・ランド」と呼ばれていた。
収容所は、東西南北に四等分され、北西部はA地区、北東部はB地区、南東部はC地区、 南西部はD地区と呼ばれていた。それぞれの地区には、人数に合わせて小さな小屋がいく 棟か建てられていて、A地区とC地区には約2000人のイタリア人捕虜が、B地区には 日本人捕虜(下士官と兵)1104人、そしてD地区には少数の日本人捕虜(将校)と朝 鮮人、台湾人捕虜が収容されていた。
説明が終わると、舞台は再び日本兵たちに変わった。彼らは班長会議での議題の話をし ている。
収容所側から通達があり、「日本兵は下士官と兵を分離して、兵を別の収容所に移動さ せる」と決まった。日本側は「下士官と兵は家族のようなもので一体である」といって反 対しているが、日本兵の収容所の定員が満杯状況であるとして、明日にも移動が行われる。
班長会議のリーダーたちからは、この機を捉えて、前から考えられていた脱走計画を実 行するべきだという主張がなされ、各班長たちは、それぞれの班の意見をまとめて持ち帰 ることになった。
舞台ではトイレットペーパーをちぎって一人ずつ○か×を書いて。投票してゆく。この 班の結果は、一人を除いて集団脱走賛成となった。実際のこの時の全体の結果も80%が 脱走賛成となったそうである。
さて、いよいよ脱走実行日、舞台には兵隊たちと同時に現代の映画作りの女性たちも出 てくる。そして、むやみに脱走せず生きる道はないのか? 再度それぞれが問い直す。兵 隊たちも、生き抜く方向に傾きかける。しかし、女性たちの携帯電話の音に、われに返っ た兵隊たちは「やはり起こったことは元に戻せない、あんたたちは自分のことを頑張って やれ!」と女性たちに告げて、集団脱走に参加のため出て行って幕となる。
「演劇」はここまでであったが、実際の大脱走は、早朝に突然、突撃ラッパが響き渡っ て始まった。ラッパを吹いたのは南忠男だともいわれている。それをきっかけに日本兵が 四方に飛び出した。機関銃座にいたオーストラリア兵は日本兵に射撃を開始、多くの日本 兵が倒れたが、機関銃座にたどり着いた日本兵は、野球のバットや食事用のナイフやフォ ークで、オーストラリア兵を殴ったり刺したりして殺した。そして、数百名が鉄条網を超 えて外に脱出した。
しかし、近くに駐在していたオーストラリア軍の部隊が出動し、日本兵は次第に制圧さ れていった。銃火に倒れた者の他、自ら死んだ者も多かった。それでも遠くまで逃げた者 たち全員を収容するには、9日間もかかったとされている。
逃亡中、日本兵は「地元の民間人には危害を与えてはならない」という自らの方針を守 った。近在の農家にたどりつき、その家の奥さんから、温かい紅茶とパンをご馳走になっ た2人の日本兵もいた。
さて、この演劇「カウラの班長会議」はカウラ脱走事件70周年記念式典のハイライト として今年8月1日・2日、カウラのシビックセンターで公演され、現地での観客も多く 集まり、大盛況だったそうである。その後、キャンベラとシドニーでも公演した。
この演劇は、死に向かって飛び出した無謀と言える日本兵の集団脱走事件を扱っている が、特段の主張はしていない。出演者たちに語らせて、観客に「これはどういうことなの か?」を考えさせようとしている。私が神戸新開地で観劇したとき、予想していたより若 い層の客が多かった。女子高校生の一団も席を埋めていた。中にはなにかメモをとってい る人もいた。
私はこれらの人たちが、脱走事件を知って「なにか?」を考えてくれれば、それで充分 この演劇の役割は果たしていると思っている。
しかし、私がこの事件に関して言いたいことは、「攻撃を受けて守りきれなくなった時、 玉砕することが賛美されて、一旦捕虜になったとしても、敵の機銃に当って死ねば名誉の戦 死として靖国神社に祀られる。が、捕らわれて生きていれば非国民となり、その家族までも 国民から弾劾される。捕虜は生きていてはいけない! 死なねばならない。そんな風潮の 国に、今後は絶対戻ってはいけない」ということである。
(平成26年8月15日)
****** 宙 平 ****** |