From Chuhei
   
   
1950年花園ラクビー場での野外大会(未だ関西学連は結成していなかった)
   
  1951年福島国体での昭和天皇・皇后ご観戦。
  
 1952年東西選抜フェンシング対抗戦 Foil 12対6 Epee 8対8  Sabre 8対10 で引き分けた。
 

映画「こころに剣士を」を見て

              

 

 

 私が属している関西学院大フェンシング部のOB会から今年の初めにメールが来て、「今、

全国ロードショー中の映画『心に剣士を』をお知らせします。ナチス・ドイツとスターリンに

翻弄されたエストニアを舞台に、伝説のフェンシング選手と子供たちの絆を描く実話から生ま

れた感動作です」とあった。

 

 日本のフェンシング協会も後援している作品らしい。今までフェンシング映画といえば、エ

ロール・フリンが出演する「海賊ブラット」「ロビンフットの冒険」や「三銃士」などの西洋

剣戟が、私の認識であったが、今回の映画は違って、近代のスポーツフェンシングがその映画

の背景になっているらしい。

 

 早速上映している映画館を調べてみると大阪でも神戸でも正月の7日までの上映で終わる。

私は5日から血管センターの検査入院予定があったので、メールを受け取った翌日の4日にシ

ネリープル神戸に早速出かけた。

 

 この映画の舞台となっているのは、1950年代初頭のエストニアである。バルト三国の中

の一番北、フィンランド湾に面した国で、第2次大戦中1940年ソビエト連邦が占領、とこ

ろが翌1941年、独ソ戦ではナチス・ドイツ軍が占領した。が、1944年ソビエト連邦が

再占領し併合した。(その後、現在は1991年に独立を回復している)ドイツ軍が敗れ、再

びソビエト連邦の支配下に入った時、スターリンは、ドイツに味方して戦った市民を強制連行

する。

 

 映画の主人公、フェンシング選手のエンデルは、戦時中ドイツ側に立って戦ったため、秘密

警察に追われ逃亡中である。そして、身分を偽り、田舎町ハープサルに小学校体育教師として

流れ着いた。子供たちの多くが、戦争や強制連行で親を奪われていた。彼はフェンシング選手

としては有名であったため、用心してあまりフェンシングはしないつもりでいたが、子供たち

の意欲におされて、課外授業としてフェンシングを教えることになる。最初は子供が苦手であ

ったエンデルを変えたのは、フェンシングを学ぶ喜びにキラキラと輝く子供たちの瞳だった。

中でも幼い妹たちの面倒をみるマルタと、祖父と二人で住むヤーンはエンデルを父親のように

慕うようになり、子供たちは力をつけていく。しかし、エンデルに不審を抱いた校長は、エン

デルの身辺調査を始めていた。

 

 そんな時レニングラードで開かれる全国大会に出たいと子供たちにせがまれたエンデルは捕

まることを恐れ、ためらうが子供たちの夢を叶えるために、父親役として責任を感じ逃亡者で

は責任を果たせないと悟り、あえて子供たちの監督として参加する。

 

 全国大会ではあの当時、日本にはなかった電気審判器が登場する。しかしエストニアの田舎

町の学校から持ってきた剣は電気審判器に対応していない。エンデルは必死で他の出場校から

の借用を頼み込む。やっと借りて出場した試合、エストニアのハープサルの子供たちの剣先は

鋭く、一般の予想に反して他の学校を破り決勝戦を迎える。もう少しで優勝というところで足

を捻挫した男の子の選手に変わり、補欠で出場するマルタにエンデルはいう「相手を見ろ、目

をそらすな」そして、優勝の歓声を後にエンデルは頭を上げて会場のソ連軍兵士たちに向け、

まっすぐに歩くのだった。本名を告げて逃亡生活に終止符を打つために……

 

「スターリン時代が終わると、やがて彼らは釈放された」という文字が画面に流れて、この映

画は終わる。

 

 スターリン時代エストニアがソビエト連邦に併合され、ドイツに協力したことを激しく追求

される中、父親のいない多くの子供達と、逃亡者であるフェンシング選手を強く結びつけたの

は、「剣士」となる訓練とそれを続ける情熱であったことに、私は深く感銘を受けた。剣の修

練を深めることにより自信がつき誇りが生まれ、目を逸らさずに進む「剣士」となったのだ。

 

 私がフェンシングを始めた時もこの映画の話と同じ時期の、1950年、大学に入学した時

だった。日本はアメリカの占領下にあって、占領軍は日本人が剣道をすることを禁止した。剣道

をしていた人たちの中には、フェンシングを始める人もいた。関西学院大学でも剣道をしていた

先輩が1949年11月フェンシングクラブを発足させた。

 

 先の大戦中は、他のスポーツの部活動と同じく、フェンシング部も活動を中止し解散していた。

その以前、日本の多くの学校が部活動としてフェンシング部を創り始めたのは、あのヒットラー

が演出したベルリン五輪の4年後の1940年に、日本が東京五輪を準備していた時であった。

日本はオリンピックでは欠かせない主要種目のフェンシングの普及を計るため、大学や高専が部

活動に取り入れることを働きかけた。その時、指導者として期待されたのが、アメリカのフェン

シング競技大会で大活躍し有名になっていた森寅雄だった。森は幕末の剣豪北辰一刀流四天王の

一人森要蔵のひ孫である。全国中等学校剣道大会では毎年連続優勝をし、剣道錬士六段となり、

剣道普及のためアメリカに渡ったが、南カリフォルニア大学でフェンシングを学んだ。そして翌

年、全米フェンシング大会で準優勝して「タイガー・モリ」と異名を取り、世にも希な名選手と

いわれるようになっていた。 

 

 ところが、世界大戦が始まり1940年の東京五輪は中止となった。敗戦後、森は戦後の日本

のフェンシング最初の指導者となり、1947年、日本フェンシング協会を設立して副会長にな

るのである。

 

 さて、私が入った時のフェンシングクラブであるが、練習場もなく、道具もなく、部室もなく、

学校からの支援金もなかった。高等部の建物裏の戦時中駐在していた予科練の集会所の後らしい

ボロボロの板張りを勝手に使っていた。剣とかマスクは京都の旭屋スポーツという店で売ってい

たが、当時は高くて粗悪であった。剣はしなりが悪く、すぐに折れた。折れた剣は甲東園の鋳掛

屋に頼んで、ブリキで巻いて、不格好なまま使っていた。

 

 映画の中でも、多くの子供たちがフェンシングをしたいと集まってくるが、最初は剣もマスク

もない。エンデルは子供たちとともに河原の葦を刈り取って、代用剣を作り、そんな剣を構えて

マルセ(前進)ロンベ(後退)ランジ(片足を踏み出して突く)と懸命に練習する場面があった

が、私は当時のことを思い出して、涙ぐみそうになった。しかし流石にフェンシングの本場ヨー

ロッパである。子供たちの姿を見て、昔使った中古の剣やマスクを提供してくれる人たちが現れ

るのである。

 

 日本ではそうはいかなかったが、一年後には多くの新しい部員が集まり、校内に部室を確保し、

クラブから体育会所属の部に昇格を申請し、僅かながら支援金も得て、道具を揃えることができ

るようになった。夏の合宿では森寅雄の指導を受けた中央大学の須郷監督を招き、森流のフェン

シングを取り入れるようになっていった。そんなわけで当時の関西学院は英語で競技用語を使う

ようになった(普通フェンシング用語はフランス語を使う)。1951年秋、同志社・立命・関

大・関学の4校で関西学生連盟を創り上げ、1952年には先行して活躍していた関東の学生連

盟と東西対抗戦を挑み引き分けるなど、対等に戦えるようになっていった。

 

 この映画は、アナ・ヘイマーが脚本を書き、クラウス・ハロが監督したエストニア・フィンラ

ンド・ドイツの合作品であって、そして、エストニアがソビエト連邦の支配時代に実際にあった

話がその元になっている。

 

 私が大学でフェンシングに打ち込んでいた1950年代の丁度この時、エストニアのハープサ

ルの子供たちが、「剣士のこころ」を持つエンデル、実際にフェンシングの父として知られた伝

説的な名選手によって、訓練を受けていたことは間違いない。日本は1952年に講和条約によ

り、アメリカの占領から解放されるが、エストニアがソビエト連邦から独立するのは、1991

年である。その間、訓練を受けていた子供たちは、厳しいソビエト支配時代を「剣士のこころ」

を強く抱いて成長し、社会で活躍するようになり、独立の日を迎えたのに違いない。

 

 主人公エンデルを演じるエストニアの俳優マルト・アヴァンディはまさに風貌スタイルともに

「剣士」として適役であった。私は彼の姿に強く惹きつけられた。

 

 そしてどんな逆境にも決してくじけない剣士の心と一途な子供たちとの絆から輝かしい光が生

まれていくこの映画の中に引き込まれた。私はフェンシングに熱中した時代を思い起こして、昔

懐かしい気持ちが湧き上がった。

 

 2016年、この映画はフィンランドの代表作品となり、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞

している。

 

                      (2017年1月31日)

 

 

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 宙 平

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