From Chuhei
昔枝川だった、甲子園筋を歩く

高架になっている阪神電車甲子園駅の真下を南北に通る甲子園筋はその昔、枝川であった。 そして今の甲子園球場のあるところから申川に分かれ海に流れ込んでいた。その枝川の流れが 止まったのは、大正12年3月のことだった。鳴尾村誌には「ある日突然、枝川の水が止まっ た」という当時鳴尾村に住んでいた俳優森繁久彌の随想の言葉が書かれている。

止まったのは、枝川の本流である武庫川の改修工事が大正9年から12年にかけて行われた からであった。それは武庫川本流の幅を広げ、川底を掘って堤防を新たに作りその上で、JR 線鉄橋下流で分かれる支流の枝川をせき止めて、その跡地を道路や広場に利用しようとする大 規模なものであった。そして、この廃川となった枝川の跡の全般にわたる開発利用を引き受け たのが、当時の阪神電鉄だった。ここから甲子園筋の歴史が始まったのである。

今年の5月14日、私はこの日の散歩コースは甲子園筋と決めて、香櫨園の家から70分歩 いて今津の浜辺から、甲子園浜の白砂の東側、かつての枝川の河口跡に来て、ここを出発点と することにした。河口跡といっても今は全く変わっていて、想像もつかない。しかし枝川の河 口のあとの土地に、阪神電車が昭和4年「甲子園娯楽場」を造り、やがて名称を「浜甲子園阪 神パークと改め、動物園と遊園地施設を増やし、昭和11年には鯨池まで作っていた。それが、 昭和18年に海軍の飛行場建設のため取り壊されてしまう。その残骸が浜辺に残っているとこ ろが、阪神パーク遺跡といわれている。そしてそこが間違いなく枝川河口だったところである。

海の潮が引くと、さらに一層残骸らしいものが現れる。その中に阪神パークの噴水池の飾り だったとされるライオンの顔がある。9年前の平成21年私は潮が引くのを見計らって何遍か ここを訪れ、ライオンの顔に対面して、そのことをエッセーに書いたのを思い出した。

阪神パーク遺跡の浜辺から堤防を登ると、西宮市立甲子園浜自然環境センターがある。この 日は月曜日で休みであった。しかし、このセンターには、甲子園浜の生物などの展示のほか、 昔の浜甲子園阪神パークの水族館や動物園、電気自動車、ボート池などの写真が飾られている。

そして私は、このセンターの場所に来ると、阪神パークの演芸場で上映されていた当時有名 な名子役テンプルちゃんが出るアメリカ映画の映像やお猿の一杯いた猿ケ島の風景など、幼少 時の懐かしい思い出がよみがえるのである。

自然環境センターの東側、堤防を超えたところは今、鳴尾浜公園となっており、この公園の 中心に「全国中等学校優勝野球大会開催の地」の記念碑がある。私は北を向いて立っているバ ッテリーの若者像の周りを回った。周りにはこの地での各年度優勝校の名前が組み合わせ表と ともに彫り込まれていた。今の高校野球の前身中等学校野球大会の始まったのは、豊中にあっ た球場だが、大正6年の第3回から今の甲子園球場が出来るまでは、この公園のさらに北側に あった鳴尾競馬場の中に作られた鳴尾野球場で行われていた。この球場での中等学校野球大会 は年々フアンが増え、超満員の観客を収容しきれなくなった。特に大正12年の第9回大会で はこの年まで流れていた枝川河畔にあった地元の甲陽中学が勝ち進むと、観客は熱狂した。準 決勝の対、立命中学戦では、席にあふれた観客がグランドになだれ込んで、試合が一時出来な くなってしまったこともあった。この年の大会は大盛況の下、甲陽中学が決勝戦で和歌山中学 に勝ち優勝したが、これをきっかけとして阪神電車は、枝川と申川の分かれていた跡地に、 本格的な最高の設備を持つ新球場、甲子園球場を建設することを決断したのである。

私は甲子園筋を北に向かって歩いた。阪神甲子園駅までは枝川の流れのままの広い直線道路 である。昭和50年5月までここには阪神甲子園線の電車が上甲子園から浜甲子園(一時期は 中津浜)まで走っていた。私も甲子園浜で海水浴が出来た頃は良く利用した。今はその線路の 跡形もない。私の昔の記憶では浜甲子園バス停がある場所の東側には甲子園南陸上競技場があ って、全国の中学や高等専門学校のラグビーなどの試合も行われていた。抜刀隊の曲が流れて 満州の旅順工専の選手が入場してきたのを競技場の観客席で見た覚えがある。ここはその後、 先の大戦末期には陸軍暁部隊が駐在し、入口には衛兵が銃剣を持って立っていたが、海軍の 飛行場の拡張のため取り壊されている。

今、歩いている道の東側はUR都市機構の浜甲子園団地群が立ち並んで広大な団地街が作ら れている。昔、競馬場やゴルフ場があったこの土地は、先の大戦中に急に海軍の飛行場となり、 敗戦で進駐軍に接収されアメリカ軍のキヤンプとなっていた。その時々のことが私の記憶に残 っていて、今となるとどこか懐かしい感じがただよう。道の西側は浜甲子園の住宅街が続いて いるが、最近はマンションも多くなっている。この日も甲子園筋に面して大きなマンションが 建設中であった。

甲子園9番町のバス停をすぎ、9番町の交差点を渡ると道の先左側に、甲子園球場が姿を現 す。南側から見る球場、特徴あるスコアボードの凸の形が裏から見える。間もなく道の東側に ららぽーと甲子園の入口が現れる。戦争が終わって、昭和25年この場所で、浜甲子園にあっ た阪神パークが新しく開かれた。動物園や水族館があり、レオポンという豹の父親とライオン の母親からうまれた動物が人気を集めたが平成15年閉鎖し、今は商業施設のららぽーとにな っている。ここまで、鳴尾浜公園から甲子園筋を歩いてきて、20分かかっていた。

南側が柵に囲まれた甲子園球場構内に入ると、その正面は甲子園歴史館であった。ここから 左へ球場を回り込んで進むと、球場西側に別棟の阪神タイガースの室内練習場が現れ、球場の 一塁側と陸橋でつながっている。平成16年に出来たが最近、室内の照明をLEDに切り替え たといわれている。

この場所には昔テニスコートがあったらしいが、私が中学1年生の昭和19年には、ここに 立派な観客席を備えた本格的な50㍍の甲子園大プールが出来ていて、その向こうに10㍍の 高さの飛び込み台のあるプールもあった。私はこのプールの定期券を買って一時期このプール に通っていた。終戦の1年前だが、まだこの時はそんな余裕があったのだと、今改めて思った。

甲子園球場の北側の国道43号線の高架の下を通った。高架道路が出来る前は阪神甲子園駅 と球場との間は、明るい公園の広場だった。私が中学生の頃は広場の西と東には枝川の土手が 残っていて、店などはなく緑の濃い枝振りの良い松林が続いていた。そして東の松林の中には 石柱に囲まれた野球塔が建っていた。

そして西の松林に接して甲陽中学校があった。昭和19年4月1日。私はここに入学した。 入学初日から校門を入るのに、列を作り「歩調とれ、頭(かしら)右」と号令をかけ、そして 運動場を隔てた建物内の天皇の御真影に対して「頭(かしら)中」と拝礼しなければ校内には 入れなかった。既に当時中等学校は軍隊と同じように配属将校が教練で号令をかけ、時には生 徒を殴りつけて、戦士となるように鍛えていた。そして、その後この甲陽中学に陸軍暁部隊が 駐留するようになり、本物の軍隊のようになってしまった。甲子園球場の3塁側下の室内プー ルも舟艇部隊である暁部隊の水中音波研究施設、外野席の下には陸軍輸送隊が入り、球場内は 軍用トラックが出入りし、内野席下は軍事工場、海軍の鳴尾飛行場と相まって、昭和19年後 半から昭和20年8月までの甲子園は本土決戦用の軍事基地だった。

この状況については、平成22年8月20日、NHK総合TVニユースウオッチ9「甲子園 に残る戦争の歴史」に私が出て直接語り、その時行われていた全国高校野球大会のスタンドで、 正午に黙祷をしている映像が放映されている。また昭和20年8月5日から6日未明、私の家 が焼失した西宮空襲直後の甲子園球場グランドに油脂焼夷弾が、まるでハリネズミの毛のよう に大量に突き刺さっていたのを目撃した様子は朝日新聞の「声」欄に平成12年7月9日投稿 により掲載されている。またホームページ「e-silver西宮」エッセー集、宙平のエッセーには、 戦時中の甲子園球場やアメリカ軍が球場を占領中のことについての私の記録作品が多く載って いる。

甲子園駅南側広場の西にあった甲陽中学は甲陽学院高等学校と中学に分かれそれぞれ移転し た。その跡地にダイエーとホテルが出来た。ホテルは「ノボテル甲子園」から「ヒユーイット 甲子園」に名前を変更した。ダイエー甲子園店も今年の4月にイオングループに運営が移り、 商業施設コロワ甲子園としてオープンした。この日、私は軽く昼食を取るため、コロワ2階 の星乃珈琲店へ入った。ここも前は、にしむら珈琲店だったところだ。

昼過ぎコロワ出発、甲子園駅西側のガードをくぐり、甲子園筋を北へ進む。ここから道はや や右にカーブをする。甲子園5番町を過ぎると道の両側には、昭和初期にできた大きな邸宅が 多く残っている。たしかこの道の一筋東側に、昭和の二枚目大スター長谷川一夫の屋敷があっ たはずだ。私の甲陽中学の同期生に息子の林成年がいて、映画俳優で活躍していたが、76歳 で亡くなっている。この辺を歩くと枝川の流れていたところというより、高台にあるリゾート 地の感じがする。これは枝川が長年土砂を運び込み川底が高くなる天井川となり、土手で囲ま れた中をながれていたからであろうと、私は思った。

昭和15年、当時日本では紀元二千六百年記念行事が行われていた。その時奉祝のため来日 していた満州国溥儀皇帝が車でこの甲子園筋を通った。地元今津国民学校生の私はみんなと一 緒に動員されて、日の丸と黄色の満州国国旗を振ってこのあたりの道の西側に並んで出迎えた ことを覚えている。戦後、昭和天皇全国巡幸の時も昭和22年だったと思うが、この道筋の同 じ場所で動員されて出迎えた。

コロワ出発から22分、国道2号線との交差点に到達した。広い2号線を渡ると道筋は昔の 枝川の流れそのまま、北東方向に大きくカーブして武庫川の方向に向かっている。

そして、私が歩く右側に昔の「甲子園ホテル」今は武庫川学院、甲子園会館がその姿を現し た。昭和5年有名な設計家フランク・ロイド・ライトの弟子遠藤新が帝国ホテルと同じ材料と 表現を用いて設計し建築された。当時は西の帝国ホテルとも言われた。子供の頃の私にとっては 夢の城のようなものだった。学校で友達が親と一緒にこのホテルで食事をしたことを作文に書 いたときは「すごいなぁ」とうらやましがった。平成12年の頃、私は武庫川女子大のオープン カレッジで「再英語」という講座をこの建物の中で受けていて、昔のままの構造と、廊下の赤い じゅうたんに、いつもこの建物の奥深い歴史を感じ取っていた。1階の広い部屋には、戦前アメ リカのベーブルースやルーゲーリックなど日米親善野球の選手たちが宿泊したときの食器など が残されていた。枝川が流れていた時、この場所はその土手の広い松林だったのだろう。

甲子園会館の前を過ぎると道は左に曲がり、やがて二つに分かれ、右側の道はすぐに武庫川 の堤防に突き当たる。そしてこの場所こそ枝川が武庫川から分かれていたところ、枝川分岐の 源流地点だった。堤防の真下の囲いの中に、枝川を止めた時に作られた「枝川樋門」があった。 武庫川と暗渠で結ばれ、水門があり用水の取りいれが出来るようになっていた。

私はそこから堤防に登り風に吹かれて、広い武庫川の流れを眺めて思った。

「大正年代の武庫川改修の計画の時、当初地元の鳴尾村は枝川を本流にして、武庫川はこの場 所で止め廃川にすることを決議していた。当時は枝川の流れもここから相当に多く流れていた からだろうなぁ。しかし、兵庫県は反対し枝川の方を止めた。もし武庫川の本流をここでせき 止め、枝川に流していたら、今の甲子園球場もなく、遊園地もなく、運動施設もなく、高級住 宅地もなかった。甲子園という地名も生まれることはなく、この日、私が昔を思いだしながら、 甲子園筋を歩くこともなかった。そして鳴尾村は尼崎と地続きとなって尼崎市となり、川西航 空機会社などが拡張して大軍需工場地帯となっていた時期があったかもしれないなぁ」

私はJR甲子園口駅に向かって、帰りの足を速めた。

(平成30年5月30日)
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宙 平
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