映画 ああ栄冠は君に輝く
加賀大介作詞、古関裕而作曲の全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」は、
甲子園を目指す高校球児を励ます応援歌として、今も歌い続けられている。ところが、
この歌が応募により、作られた昭和23年当時、作詞者は加賀道子(当時大介の婚約者)
となっていたのである。この映画は、そのいきさつをはじめ、作詞者加賀大介の、野球選
手としての夢を閉ざされ、そして目指した小説家にもなれなかったが、栄冠に輝く夢を抱
き続けて生き、それを支えた家族の物語である。
私は8月25日(土)、大阪中之島フエスティバルタワー・ウエスト4階の中之島会館で
開かれたこの映画の無料上映会に、ネットで応募して参加した。この日はこの映画の稲塚
秀孝監督の話もあった。監督の話によると、記録映画を撮り始めた平成18年に石川県能
美市に加賀道子さんを訪ね、改めて最初にこの歌の作詞者を道子さんとされたいきさつを
聞いて、「いつか大介さんと道子さんの物語を映画にしましょう」とその時約束したという。
2年後、高校野球第90回大会では、ドキュメンタリー番組で道子さんと娘の淑恵さんが
甲子園球場を訪れる様子を放送した。その後第100回大会が行われるこの夏に映画を完成
・上映しようと動き出し、仲代達矢さん始め無名塾(仲代の主宰するエリート俳優養成塾)
の俳優さん達の出演も決まり、加藤登紀子さんのこの歌の歌唱も映画に取り込むことが決
まった。撮影は今年2月から始め、ドラマ部分の撮影は5月に道子さんの地元で行い、多く
の地元スタッフの協力を得て完成することが出来た、と、語った。監督の編集されたこの映
画のガイドブックも作られ、私はそのガイドブックを購入し、最初のページに監督の署名を
もらった。このブックから仲代達矢の語りの文句やナレターの言葉を文字で知ることが出来
て、良かったと思っている。
映画は、今年の6月21日に石川県能美市の根上野球場で、加賀大介の記念品などを収めた
タイムカプセルの掘り起こし式の様子の画面から始まる。カプセルは大介の没後20年の平
成5年に埋められ、第100回大会のある今年、掘り起こすことになっていた。四半世紀の時
を経て出てきた大介ゆかりの品々をまぢかに見た妻の道子(93歳)は会場で挨拶し、その後
「栄冠は君に輝く」のコーラスが唄われた。
そして画面は昭和39年秋へと移る。当時47歳の加賀大介が文机に向かって、原稿用紙に
ペンを走らせている。当時9歳だった娘の淑恵のナレーションが流れる。
「足が不自由だった父は毎日書斎にこもって、職業的な作家であったわけではありませんが、
ものを書くことが、自分の人生を支えているように見えました」
昭和47年。小松高校3年の淑恵18歳、思い詰めた様子で大介と話をする。進学を早稲田か、
日芸の演劇科を受けようかと思っている、という娘に大介は、私立はダメだ、うちには私立に
行かせる余裕はない、どうしてもというなら国公立にせえ、という。さらにちゃんと安定した
仕事に就かんとだめや、将来は教師を目指したらどうなんや、と付け加える。
ここで仲代の語りが入る。
「当時、加賀家は金沢の貯金局に勤める妻、道子さんの収入で生計を立てていました。後日
そのことを知った娘 淑恵さんは演劇の道に進むのを諦めました。大介もまた、少年の頃の夢
を諦めた人でした」
そして、画面は昭和6年の根上町、浜小学校のグランドにさかのぼる。16歳の加賀大介
(当時は元の名前、中村義雄)が仲間を集めて野球をしている。語りが入る。
「中村義雄は、野球が大好きでした。地元の工場に勤め、休みの日には友達を集めて野球を
するのを楽しみにしていました。義雄はいつも裸足だったのです」
バッターの義雄の打球は、三遊間を抜ける、一気に3塁めがけてスライディングする、が、
右足の親指を怪我して血が噴き出した。
語り「その時、義雄は十分な治療をせず野球を続けました。そのことで取り返しのつかない
ことになってしまったのです」
傷が化膿して、骨髄炎となり右膝から下を外科医院で切断することになった。早慶戦のラジオ
実況放送を聞きながら手術を受けた。
語り「こうして、野球にかけようとした少年の夢は消えたのです。やがて少年は新たに情熱を
傾けるものを見つけました。それは〝文芸の道〟だったのです」
昭和16年、執筆する義雄。
語り「義雄は毎日原稿を書き続けました。ありとあらゆる様々な新聞、雑誌に応募し、
ささやかな賞金や商品を得るという〝投稿生活〟を始めたのです。そして本名の中村義雄の
ほか、いくつものペンネームを使い分けました」
昭和18年、義雄の部屋に短歌会のメンバーが集まる。
語り「この頃、義雄は『加賀野短歌会』を始めました。集まったのは学校教師、町役場の職員、
農家の主婦、地元九谷焼の職員ら、年齢も、職業もさまざまでした」
昭和20年8月15日、玉音放送が流れる。
語り「戦争が終わって、日本は大きく変わった。民主主義の時代が幕を開けた」
昭和22年、高橋道子22歳が加賀野短歌会へ入会した。
語り「ある日また一人、加賀野短歌会に新しい会員がやってきました。それは加賀大介にとって、
運命の女性でした」
大介は芥川賞か直木賞を取って東京に出て小説家になろうと思っている、その時一緒に来て
くれるかと道子に語る。道子は「…わかったわ…」と答える。
昭和23年、道子が朝日新聞6月20日付けの記事、全国高等学校野球大会歌の募集要項を大介
に届ける。締め切りまで1週間しかない。少年たちの懸命に野球する姿を頭に描きながら大介は
徹夜して「栄冠は君に輝く」を書き上げる。が、その作詞者名は加賀道子となっていた。
大介は道子に、「あんたの名前を使わせてもらった。賞金目当てやと思われるのが嫌なんや」と
いった。賞金は5万円。(当時は公務員の平均給与の10倍以上の価値があった)
そして、当選作が決まる。道子の勤める金沢貯金局にも新聞社の人が来て、道子はフラシュを
浴びる。応募作品5252編中から最優秀作品として選ばれた。作曲者は古関裕而と決まった。
夏の甲子園球場、第30回(昭和23年)高等学校野球選手権大会ではこの「栄冠は君に輝く」
が流れる。
やがて大介は道子に結婚を申し込む。道子も「芥川賞を取るまで待っていることは出来ない」と、
申し込みを受け入れる。
昭和30年、大介は必死で原稿を書いて、投稿生活を続けた。
語り「その後も、芥川賞をめざして来る日も来る日も原稿を書き続けた」
昭和33年、第34回芥川賞受賞作品は、石原慎太郎の「太陽の季節」と決まる。大介は書き
溜めた原稿を燃やしている。
昭和42年、第56回直木賞は五木寛之の「青ざめた馬を見よ」と決まる。大介は自分の書いた
小説「手取川」を書き直す。何度も書き直すが、満足できない。
語り「その後も大介は悩み苦しみ、結果を出せなかった。やがて執筆活動は徐々に弱っていった」
昭和43年、2月、道子は朝日新聞大阪本社運動部長の訪問を受け、夏の高校野球50周年に際し、
「栄冠は君に輝く」作詞当時の応募のきっかけや思いを聞かれる。道子は遂にそこで、あれは夫の
大介の作品であったことを明かす。あとで大介も道子に「長い間すまなかった」と頭を下げる。
その日の夕刊には「作詞者は夫でした」「加賀さん20年ぶりの真相」という見出しが出た。
昭和47年、執筆中の大介、突然腹を抱えて苦しみだし、原稿用紙の上に吐血。
大介の助言もあり、教師の道を目指すことになった娘の淑恵は東京学芸大学に合格、その知らせは
大介に電話でつながる。その3か月後、看病する淑恵に「何も悲しむことは、ねぇ、土にもどる…
たった、それだけのこっちゃ…」と言葉をかける。
語り「それは娘 淑恵が聞いた父の最後の言葉だった」
昭和48年6月21日、加賀大介、永眠。享年58歳。
大介の遺影が飾られた画面と歌碑の画面が出て、娘淑恵の声が流れる。
「父の人生は、栄冠から程遠いものだったかもしれません。でも、この歌は勝った者(側)にも、
負けた者(側)にも、心の底からエールを送るように、父が自分自身をふるいたたせるために作った
歌なんじゃないかって……私、そんな気がしてなりません……」
(淑恵はその後、自分と大介や、あの松井秀喜の出身校である根上町の能美市立浜小学校の校長を
勤めた)
歌碑の画像を背景に「栄冠は君に輝く」が流れる。
雲はわき 光あふれて 天たかく
純白のたま きょうぞ飛ぶ ……
少年時代の大介が、フルスイング、打球は青空高く舞い上がる。少年は力いっぱい走っている、その画面
に続いて、歌碑から球場俯瞰、広い田園風景が広がる画面を背景に、仲代達矢の次の語りでこの映画が終
わる。
「加賀大介が私たちに残したもの。それは『栄冠は君に輝く』という言葉。そこには今を生きるすべての
人々に贈るメッセージがあります。毎日を懸命に生きるみなさんには、誇るべきものが必ずある。みなさん
にとって『栄冠は君に輝く』という大介の思い。それが昭和23年から現在に至るまで、長く愛され、歌い
継がれてきた理由なのです」
私は、昭和23年の第30回高校野球大会の開会式で甲子園から流れるこの歌の放送を、聞いたことを覚
えている。その3年前、戦時中の8月7日、動員中の中学生の私は、西宮空襲直後の甲子園球場に入り、内
野席を覆う銀傘もなく、外野席の木造の椅子もなく、一部芋畑になっていた廃墟のような球場に一面に突き
刺さっていた油脂焼夷弾の林を見て呆然としていた。その時、もうここで野球大会などできそうにないと
思っていたその甲子園球場から、若人が集まり歓呼にこたえ、純白の球がきようぞ飛ぶという「栄冠は君に
輝く」の歌が流れてきたのである。
私はこの歌を聞いた時は、「平和」が遂に甲子園に戻ってきたことを実感して胸が熱くなった。そして
「いさぎよし 微笑む希望」「青春の賛歌をつづれ」「美しくにおえる健康」「感激をまぶたにえがけ」などの
歌の言葉が頭を駆け巡って、気持ちが大いに高ぶった。
この映画は、この大会の歌の作者の夢と挫折、そして家族の物語を克明に描いて、歌とは別に人生の感動を
引き出すことに成功している。私もこの物語により、この歌が作られた背景を興味深く知ることが出来た。
「栄冠は君に輝く」の「君」は勿論大会に出場する選手を指すものであるが、同時に歌の作者は、芥川賞に
挑戦する自分自身を「君」として自ら励ましながら、生き抜いたに違いないと、私は今思っている。
今年、平成30年8月5日、第100回全国高等学校野球選手権大会開会式。報道によれば、妻の加賀道子は
甲子園球場に足を運び、「栄冠は君に輝く」を合唱と共に口ずさんだ。そして地元、石川星稜の開幕試合も観戦。
同郷の松井秀喜が始球式に立つと「鳥肌が立つような思いで、二重の喜びだった」とほほえんだ。この日は作曲
した古関裕而の長男、正裕(72歳)も訪れ「100回大会で聴くのが楽しみだった。200回、300回でも
歌い継がれてほしい」と語った。