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Chuhei
今年11月6日、奈良平城宮跡上空で、航空自衛隊ブルーインパルスの展示飛行がありました。
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航空ショウ
奈良の平城宮跡の上空で航空自衛隊のブルーインパルスの展示飛行があるということを聞いた。 私はその当日の11月6日の朝出かけ、10時半頃近鉄大和西大寺駅に着いて驚いた。駅の東側出 口は人が一杯で、構内のトイレは男女とも長い行列が外まで続いていた。
展示飛行の時間は11時40分から20分の間だけである。そんな短い時間のためだけなのに、 人が集まりすぎではないのか、と航空ショウの人気の高さに驚きながら延々と続く人の流れと共に 歩いて、再建されている大極殿を囲む塀の中に入った。その中の広場も、多くの人が立ったままで、 座る余地もない状況だった。やがて広場の一角から、マイクの声が流れ説明放送が始まった。
「ブルーインパルスは航空自衛隊の華麗なアクロバット飛行(展示飛行)を披露する専門のチーム で、正式名称は宮城県松島基地の第4航空団の「第11飛行隊」です。本日は航空自衛隊奈良基地 開設60周年を記念して行われます。この放送では、東は若草山の方向、西は生駒山方向、北はこ の広場から大極殿の方向、南は朱雀門方向としています」そして、早速「北から編隊飛行で現れま す」と放送される。皆一斉に大極殿の方向に首を回す。やがて、大極殿の大屋根の彼方から5機の 編隊が現れ、一斉に白い煙(スモーク)を吐き出しながら、広く5つの方向に広がって飛び去って いった。あっという間であった。次いで6機が西の空に現れて、スモークで大きな円を大空に描き 始めた。6機が飛び去った後もしばらくスモークの円が残った。南の空から2機が現れ縦にスモー クでハート型を描いた。その真ん中を1機がキュウピットの矢を描いて飛び去った。東からの4機 のダイヤモンド型の編隊はそのままの隊形で回転し、背面飛行で一周して飛び去った。最後に6機 が編隊を組みスモークを残して東の空に消えていった。
私は昭和39年の東京オリンピック開会式のスモークで描いた5輪の輪、昭和45年大阪万博で 描いたEXPO70”のスモークの文字などは映像では知っていたが、実際に爆音と共にブルーイ ンパルスを見るのは初めてであった。機体も始めの頃はアメリカ供与の主力戦闘機F-86Fを使っ ていたが、今では高速性能や旋回能力に優れた国産のT―2超音速高等練習機を使っている。
私のように、満州事変が起こった昭和6年に生まれ、支那事変(日中戦争)、先の大戦と続く少 年の時に、戦争が当たり前の時代を過ごした男は、このような航空ショウを見ていると、当たり前 のように航空日本時代の軍歌と昔の思い出が湧き出してきた。
燃る大空 気流だ雲だ あがるぞ 翔るぞ 疾風の如く 爆音正しく 高度を持して 輝くつばさよ 光華と勢え 航空日本 空ゆくわれら
(昭和15年・作詞 佐藤惣之助 作曲 山田耕筰)
この歌は映画「燃る大空」の主題歌として航空日本への期待と憧れを込めてよく歌われた。映画は 熊谷陸軍飛行学校の少年航空兵が厳しい訓練を受けながら成長し、中国大陸の航空隊で中国国民党軍 相手の空の戦闘に参加して活躍するというものであったが、当時日本の最新鋭の九七式戦闘機や九七 式重爆撃機などが大量に実際使われ、整然として攻撃に向かう編隊飛行などの映像を見て、航空兵に 憧れる少年たちも多かった。私もそうだった。
この熊谷陸軍飛行学校でも昭和17年位までは航空記念日の行事として、各種の飛行機による航空 ショウが行われ、教官や助教による横転、背面、宙返りなどの妙技が披露された。そしてこの日は少 年航空兵による郷土訪問飛行が行われた。少年兵たちは当時の複葉式の練習機に乗り込み、その出身 地方ごとに編隊を組み、自分の生家や小学校の上空を訪れ、手紙を入れた通信筒を落し、ビラを撒い たりして集まった人の上を旋回した。これも航空ショウの行事であったが、やがて戦局が厳しくなる につれて郷土訪問飛行は禁止となった。
アメリカ・イギリスとの戦争が始まると、空こそ国かけた天下分け目の決戦場だと次のような歌を 歌っていた。
日の丸鉢巻 締め直し ぐっと握った 操縦桿 万里の波濤 なんのその 往くぞ ロンドン ワシントン 空だ 空こそ国かけた 天下分け目の 決戦場
(昭和18年作詞 野村俊夫 作曲 万城目正)
この歌は映画「愛機南へ飛ぶ」の主題歌であった。陸軍航空士官学校出身の航空兵が南方の戦線で 活躍する話であったが、海軍も負けずに、土浦海軍航空予科練習生の訓練と「倶楽部」(その家の娘 として原節子が出演していた)での生活と大空の活躍を描いた映画「決戦の大空へ」を作り、この映 画の中で歌われた主題歌が、有名な「若鷲の歌」であった。
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が沸く (昭和18年作詞 西條八十 作曲 古関佑而)
その頃から私の西宮の家の上空にも日本の戦闘機が飛びまくり、毎日空中ショウがみられた。甲子園 から鳴尾南部一帯に海軍の飛行場ができて、戦闘機でも相当の高度を飛ぶので大空には白い飛行機雲が 鮮やかに描かれていた。反面、阪神久寿川駅の西側商店街に二人乗りの海軍機が墜落し、乗員は勿論、 商店の一家が全員死亡するという事故もあり、私は実際に目撃した。(昭和19年8月23日)
ところが昭和20年に入り、アメリカB―29爆撃機が銀色の機体を光らせて編隊または単独で高空を 飛び、飛行機雲がそのあとに残る航空ショウを見せ始めると、何故か西宮上空では日本の戦闘機は全く影 をひそめ、出てくることはなかった。編隊がやや低空の時は日本の高射砲隊が応戦してポッポッと黒い煙 を銀色の機体の周りに打ち上げていた。一度だけB―29に命中したのを見た。機体と翼がばらばらにな って、くるくる回って落ちていった。後に落下傘が一つ浮かんでいた。
アメリカの攻勢が激しくなり太平洋での通常の戦い方では太刀打ち出来なくなり、海軍、陸軍とも特別 攻撃(自爆体当たり攻撃)が行われるようになった。
送るも行くも 今生の 別れと知れど 微笑みて 爆音高く 基地を蹴る ああ神鷲の 肉弾行
(昭和19年 作詞 野村俊夫 作曲 古関裕而)
大空に憧れ航空隊を志願した若鷲たちは、「諸子は既に神である。敵、撃滅を祈るのみである」と最後 の訓示では神とたてまつられて、押し寄せるアメリカの艦艇に体当たりを目指して飛び立っていった。
海軍航空予科練習生は中等学校3年を終了すると志願し入隊試験を受けることができた。昭和19年、私 と親しかった母方の従兄弟の昭示さんも島根県の美保海軍航空隊に入隊した。入隊するときは「空ゆかば 雲染む屍 かえりみはせじ」と歌っていたがその後、七つボタンの制服をきりっと着こなして休暇で帰って きたときは「もう空ではない。機雷だ」とだけいった。
昭和20年も3月を過ぎる頃になると、特攻作戦にも変化が見られ、航空特攻の人数は縮小し、人間魚雷 「回天」、高速特攻艇「震洋」潜航特攻艇「蚊竜」「海竜」など日本の本土決戦に備えた特攻兵器が出るよ うになった。昭示さんが訓練を受けていた機雷というのは、一人で潜水服を着て、海に潜り棒の先に付けた 強力機雷と共に敵艦艇の船底にぶつかり爆発させる「伏竜」の自爆攻撃であった。
私の住む西宮にも西宮海軍航空隊(関西学院校舎に駐在)、宝塚にも宝塚海軍航空隊(宝塚歌劇場に駐在 映画監督新藤兼人は召集されここで勤務)が出来て、空へ憧れた予科練生が入隊し厳しい訓練が行われてい たが、飛べる飛行機も航空燃料も少なくなり殆どの練習生は空を飛ぶことが出来なくなった。一部の者は回 天の特攻要員となった。が、20年6月末にはそれぞれの航空隊は解隊した。隊員たちは海軍地方警備府に 配属となり本土決戦のための工事などに加わったが、悲惨だったのは要塞作業に向かった宝塚の練習生たち であった。8月2日淡路島の阿那賀鎧崎で要塞構築のため、110名が徳島県の撫養から機帆船に乗船して 航行中、アメリカのP51戦闘機2機の執拗な機銃掃射を受け、教官・教員、船長・機関長を含めて82名 が死亡した。航空隊を志望していた若き練習生たちにとって、全く酷い結末であった。
このノースアメリカン社製p―51ムスタング戦闘機は、B―29爆撃機の援護として飛来したものであ ったが、戦争末期には西宮の上空でも、アメリカ空母から飛び立った艦載機を含め実に多彩なアメリカ機の 一方的な攻撃の航空ショウが展開されていた。グラマン社製のF4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャッ ト、チャンスヴォード社製F4Uコルセアなどが縦横無尽に飛び交って目標を見つけると、すぐ機銃掃射を 浴びせた。航空ショウを見るのもそれこそ命懸けであった。それに対して日本の戦闘機が応戦するのは見た ことがなかった。
この最新鋭のアメリカ軍機の航空ショウの繰り広げられているその地上の日本の本土では、国民義勇兵役 法が施行され、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで国民義勇戦闘隊が編成され、男も女も国 民の全員が兵士となって本土に上陸してくるアメリカ軍と戦う体制が作り上げられていた。戦うといっても 武器はなく、竹槍を持って突撃する訓練が既に始まっていた。狂気の一億総特攻作戦で皆が玉砕に向かって 突き進んでいた。
8月15日の10日前に西宮の中心地帯はナパーム焼夷弾のクラスター攻撃により焼け野原となった。そ して広島、それから長崎に原子爆弾が落ちた。それでも日本の空にはアメリカ軍機の一方的な航空ショウが 続く中、1日前の8月14日、持っている限りの数の1トン爆弾の最後の使いどころとばかり、B―29爆 撃機が大阪城の東の砲兵工廠に爆弾を集中爆発させて本土での戦争が終わった。
翌日からピタリとアメリカ軍機の航空ショウは止まってそれから56年がたった、平成13年9月11日。 22時開始のNHKのTV「ニユース10」は、ニユーヨーク世界貿易センタービルの北棟にアメリカン航 空機の11便が衝突して、炎上している映像を映し出していた。そこへもう一機、ツインの世界貿易センタ ービルを回り込むようにユナイテッド航空機の175便が飛来してきて、その南棟へ激突した。爆発の炎が 吹き出し、黒い煙が上がった。驚いたことに激突の56分後に110階の南棟が崩れ落ちた。その29分後 に同じ高さの北棟も崩れ落ちた。アナウンサーの「信じられないような映像をご覧いたただいていますけれ ど、これは現実の映像です」との声を聞いて、このビルの最上階レストランで食事したこともある私は、今 見ているのは地獄の航空ショウだと思った。ハイジャックによる自爆同時多発テロだった。
「人間の大空への憧れは、航空ショウとなり、戦争の様々な局面や、テロでの航空機の活動は、おびただし い数の人々の命を奪った。これからは大空を、人類の対立や闘争の場にしてはいけない。大空こそ、自由で 希望に満ちた人類交流の場であってほしいなぁ」と、思いながら、私は奈良のブルーインパルス展示飛行の 後、二条大路を東に近鉄奈良駅へ歩いた。この通りも、帰りの多くの人が列を作っていた。
広い海原雲の峰 超えつつめぐる五大州 我が日本はたくましい つばさで強く 抱くのだ 抱くのだ
(昭和14年 世界一周大飛行入選歌 作曲 橋本國彦)
私が8歳の頃、ニッポン号が6万キロの記録的な世界一周親善飛行を終えて、その祝賀大会が甲子園球場で あった。私はよく覚えているこの歌を口ずさんでいた。
(平成28年11月26日)
****** 宙 平 ****** |