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Chuhei
明治時代の末期、大阪と神戸間には、国有鉄道と阪神電車が走っていた時代、香櫨園遊園地が作られていました。
場所は今の夙川市民館のある片鉾池から北西にかけての一帯でした。阪急電車はまだ走ってはいませんでした。
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この香櫨園の運動場を野球場に改装して、関西初の日米野球大会が行なわれました。シカゴ大学と早稲田
大学の試合でした。写真はその時のシカゴ大学の選手たちです。
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この時の話を今年1月22日、「木曜講座」で西宮東高校の足立校長がされ、それが
読売新聞と神戸新聞に載りました。
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乾坤一擲 香櫨園
西宮市東高校の中にある「なるお文化ホール」では、時々「木曜講座」が開かれている。 その案内の中に「乾坤一擲 香櫨園、〜西宮の歴史が動いた〜」という講座があった。西宮 の香櫨園に住む私は《え! 何時の、どんな話だろう》と興味を持って早速聴きに行った。 1月22日、講師は西宮東高校校長の足立年樹さんであった。
講座の前半はいきなり西宮クイズから始まった。《乾坤一擲と関係があるのだろうか?》
?西宮市の人口は約何万人ですか? A西宮市の人口は兵庫県で何番目に多いでしょうか? B西宮町はいつ市制をひきましたか? C鳴尾村はいつ西宮市と合併しましたか? D6000年前の西宮東高校の場所はどのような様子だったのでしょう? E明治以降、西宮東高校の土地はどのように利用されていたでしょう? F西宮市を代表するものといえば、何を思い浮かべますか? G古い順に並べ変えてください。 1、官営鉄道甲子園口駅設置 2、官営鉄道西ノ宮駅設置 3、阪神香櫨園駅設置 4、阪神甲子園駅常設化 5、阪神鳴尾駅設置 6、西宮東高校開校 7、枝川廃川工事開始 8、甲子園球場完成
《今日の話はどうやら甲子園の歴史と関係ありそうだ?》と思いながらクイズを解く。
答、?は48・5万人、実際は4択で選ぶようになっていた。Aは3番目、1番神戸、2番は姫路。 Bは大正14年、Cは昭和26年、甲子園球場はここの時まで西宮市ではなかったのだ。Dは正に海の底、 Eこの場所は大変な変遷、綿畑、苺畑、競馬場、運動場、ゴルフ場、海軍飛行場、占領軍キャンプ。 F甲山、えびす神社、酒蔵、甲子園球場など。Gは、これが一番難しくて、直ぐに出来なかった。 2―5―3―7―8―4―1―6の順であった。
《甲子園そのものは、香櫨園や鳴尾の後に出来た。ということか?》
そして講座は、明治38年に阪神電車が開通するや、明治40年には、香櫨園遊園地が開園し、 阪神電車は香櫨園駅を開業した、という話になった
この遊園地は香野倉次・櫨山喜一(慶次郎と書かれた記録もある)の二人の持つ10万坪の土地 を使用し阪神電車と契約して作り上げた、園の名称は二人の名前の「香」と「櫨」の字を合わせ たものである。博物館、奏楽堂、恵比寿ホテル、香櫨温泉、舟滑り、運動場、メリーゴーラウンド、 動物園など、まさに画期的な当時の日本にはない遊園施設であった。場所は今の夙川市民館のある 片鉾池から北西にかけて、羽衣町、霞町、松園町、相生町、雲井町、殿山町の一帯に及んでいた。 未だ阪急電車の通っていない時で、阪神香櫨園駅が主要な乗降駅となった。
ここまでは、私もよく知っていることであった。そして、10分の休憩の後、いよいよ「乾坤一擲」 の話に入った。
香櫨園開園から3年後の明治43年、早稲田大学が、当時のアメリカの大学では最強といわれてい たシカゴ大学と野球試合をすることになった。大阪毎日新聞社はこれを、関西初の日米野球として大 いに盛り上げようと、一か八かの大野球イベントを関西で開くことにした。問題は場所である。そこ で目をつけたのが、香櫨園遊園地内の運動場であった。
この運動場は15500平米あり、今の甲子園球場より面積は広かった。しかし、長方形で使い勝手 が悪い、阪神電車は大阪毎日新聞の依頼を受けて、これも一か八かの突貫工事で運動場に急増の野球グ ランドを完成させた。左翼側が55メートルを越すと下り坂になるという大変なグランドであった。今 の尖塔のある夙川カトリック教会の西側あたりであったろうと思われる。
そしてこの年の10月24日、午後8時30分、早稲田・シカゴ両大学軍を乗せた新橋発の列車が大 阪駅に着いたのである
その時、約500名の大阪の学生達が歓迎歌を歌いながら盛大にホームに出迎え、宿舎であった当時 の大阪ホテルまで、約2・5キロを提灯行列で行進した。まだ関西では野球が珍しい時代であった。
講師の足立先生は当時の郷土資料を調べていて偶然この時の歓迎歌の歌詞を発見、別の文献からメロ デーも判明して同高校の音楽教諭がピアノの弾き語りで再現した。105年前に実際に歌われたもので あった。講座の会場ではその歌の録音テープが流された。
四十三年秋の 気も澄む月今宵 来たれり大阪に 日米野球団 米の精鋭市俄古 日本に早稲田あり 天下の野球戦 乾坤一擲香櫨園 長棍一度打てば ボール雲に入り 血は湧き肉踊る 野球は男子の技 威風堂々勇士は 来たれりいざ迎え 振え市俄古軍 立てよ早稲田勢
私はこの歌を聞いて、《あっ! この曲は国民学校の時歌っていた「元寇」ではないか》と直ぐに一緒 に歌った。
講師の先生はじめ参加者は私より若い人が多いので、学校で歌ったことのある人は殆どいないようだ。 「元寇」が永井建子によって作詞・作曲、発表されたのは明治25年である。「四百余州をこぞる 十万 余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃 なんぞ恐れんわれに 鎌倉男子あり 正義武断の名 一喝 して世に示す」神風よ! 吹け! とばかりに歌った私にとって、教室のオルガンの音が未だに耳に残っ ている懐かしい歌であった。
大歓迎して始まった試合には、当時の新聞の記事によると、連日3万人の観客が、集まり、香櫨園駅か ら会場まで列が続いた。来観の団体として天王寺中学300人、関西学院300人、大阪商業300人、 神戸外人団200人、その他、早稲田神戸校友会、愛知一中の野球の選手団の名前も上がっていた。女性 の姿も多くあったということである。
植村俊平大阪市長の始球式で始まった試合は1日目、8対4、シカゴ大の勝ち。シカゴヒット8本、三 振5、早稲田ヒット6本、三振11。
2日目、20対0、シカゴ大の勝ち、シカゴヒット14本、三振6、早稲田ヒット1本、三振7。そして、 いよいよ最終日を迎え、早稲田の安部運動部長は、選手に向かって「明日若し今日の如き零敗に終わらば、 諸君は宜しくバットを折りて罪を天下に謝し、野球を止めよ!」と大激励したとある。3日目の詳細は分か らないが、なんとか早稲田が2点を入れた。が、12対2 シカゴ大の勝ちで終わった。
敗れてしまったが早稲田大は、断然強いと言われたシカゴ大に対して、「応援歌」の中の言葉のように 「乾坤一擲」の戦いを挑んだのであった。しかし「乾坤一擲」は、早稲田大だけではなかった。大阪毎日 新聞社(大毎)にとっても、この野球大会は関西における今後の野球報道の進展をかけた大イベントであ った。それに対抗してその後、大阪朝日新聞(大朝)も野球大会には力をいれるようになり、大正4年、 豊中で行われた初の全国中等学校優勝野球大会を主催するのである。そうすると、「大毎」も大正12年 第一回選抜中等学校野球大会を主催し、今日まで続いているのである。
私は「大毎」や「大朝」が野球の大会に力を入れ始めた最初のきっかけは、やはり、乾坤一擲の香櫨園 日米野球の盛り上がりに、あったからであろうと思った。そして阪神電車も開業2年目にして、野球グラ ウンドを急造し、期間中に大量の乗客を迎え入れたことは、今後の電鉄経営を進める上にも大きな出来事 となった。
全国中等学校優勝野球大会は第3回大会から鳴尾球場に移るが、多くの観客をスタンドでは収容しきれ ないようになっていった。特に地元の甲陽中学が大正12年優勝したことから中等学校野球人気はピーク に達した。そこで阪神電車は香櫨園日米野球での大量集客の体験を参考にして、当時、武庫川の支流を廃 川とした跡地に新球場の計画を進めていた。そして、「大朝」新聞は、世界的にも見劣りのしない、本格 的な球場建設を提案して大会とのタイアップを申し出ていた。「大毎」新聞もタイアップすることになっ て、大正13年、収容人員日本一の阪神甲子園球場はこうして、私鉄と新聞社のタイアップにより出来上 がったのである。
さて講師の足立先生はこの香櫨園の日米野球開催の日の、天候、気温、日照時間を丁寧に調べておられた。
明治43年 10月25日、概ね晴天、気温22・6度C〜13・2度C、北の風5・5m、最大風速11・8m、 日照時間、6時間48分。
10月26日、概ね晴天、気温21・0度C〜10・7度C、北の風5・3m、最大風速12・2m、 日照時間、9時間18分。
10月27日、快晴、気温20・7度C〜 7・7度C、北北東の風3・5m、最大風速 5・9m、日照時間、9時間48分。
足立先生は香櫨園日米野球の3日間が、概ね晴天または快晴であったからこそ、野球大会イベントとしては、 多くの観客を集め大成功を収めたと話された。若し、その日々が雨天で、そのための順延が続けば、あの盛り 上がりはなかったであろう。そうなると鳴尾・西宮の歴史はまた違ったものになって、「甲子園」という言葉 も生まれることもなかったかもしれないと結ばれていた。
大正2年には香櫨園遊園地が廃園になってしまうので、その後、香櫨園では野球大会が行われることがなか った。が、私はこの講座で乾坤一擲の大試合が行われたことを知って、改めて野球に対する明治時代の人たち の強烈なエネルギーを感じ取ることができた。
講座が終わり、私は「なるお文化ホール」から、甲子園球場の横を過ぎ、そして酒倉通りを西へ、香櫨園の 自宅に向かい、あの応援歌を繰り返し歌いながら歩いていた。
(平成27年2月28日)
****** 宙 平 ****** 神戸新聞 Nextの記事と応援歌の曲 http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007693665.shtml
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