甲子園、占領される   宙平氏  平成20年7月18日投稿
 
下の写真は昭和23年の甲子園アメリカ軍占領キャンプの航空写真です。
画面の中央の上は、甲子園球場です。
 
 
現在の元甲子園キャンプ跡付近の航空写真です。左上が甲子園球場です。
 
  

    甲子園、占領される

 

昭和二〇年八月一五日、日本が無条件降伏をしてから、実際に占領軍が本土に進駐してくる間、不安感からか、いろいろな事が言われていた。その一つはこうだった。
「男は全員強制労働。女は娼婦にされるぞ」
これは、今から思うと、おかしいかもしれないが、ソ連軍の占領下では、強制労働はあり得たことだから、当時絶対無いとは考えられなかった。又、私の両親は、女学生だった姉を占領軍の眼の届かないどこかの山里に疎開させる事を真剣に話し合っていた。そして、内務省は早くも八月一八日に進駐軍用の慰安施設の設置を各府県に指示していた。さらによく言われたのは、これだった。
「ジャップ狩りの対象にされるぞ」
 戦時中、アメリカ軍は日本人に対する戦いをジャップ狩と言っていた。西部劇で、列車の窓から、馬に乗って友好の手を振るインデアンの少年を、遊び半分に銃で撃ち殺す場面があるが、戦時中このシーンを日本では、映画館で上映して、残虐な鬼畜であるアメリカ人の見本としていたからである。戦時中にこの場面を私も見た。
八月一八日、アメリカ軍第一陣は横浜厚木飛行場に到着、続いて司令長官マッカーサーが三〇日に飛行場に降り立った。そしてアメリカ軍は全国各地へと、占領を広げていった。
私がアメリカ軍を初めて見たのは、九月半ばの頃だったろうか、上甲子園付近で阪神国道を西に走る、占領軍の長い車の列に遭遇した。その時初めて私はジープを見た。その上に機銃を据えていた。最初、私は撃たれたらかなわないと、木の後ろに身を隠した。米兵たちは皆鉄帽をかぶり、見向きもせず西へ、西へと通り過ぎて行った。
甲子園では九月二五日、鳴尾沖に集結した艦艇から海岸へ上陸用舟艇を乗り付けて鳴尾飛行場を占領して、そこにキャンプを作り、一〇月三日、甲子園球場を完全に接収した。同時に将校用宿舎として、甲子園ホテル(現武庫川学院甲子園会館)を接収した。当時、私は甲子園にあった甲陽中学二年生だった。この中学には戦時中陸軍暁部隊が、同居していたが、中学の別館を引き続いてアメリカ軍が接収した。今の甲子園ダイエーの南側の部分である。
その時から、甲子園はアメリカの兵隊で一杯になった。時々兵隊の周りに子供が集まって「ギブ・ミー・チョコレート」と、物をねだる風景も見られるようになった。また、レーションと呼ばれる携帯口糧や、ラッキーストライク・チューインガムなどが、闇市で出回るようになった。それに驚いた事に、派手な服装をした日本人の女達が集まってきた。兵隊相手の娼婦達であった。
その頃の甲子園球場の北側は、今の様に国道四三号線の高架道はなく、路面電車阪神甲子園線のレールがあるだけで広々としていた。そして、西と東の両側の土手には店などは全くなく、緑の濃い、枝振りの良い松林が続いていた。東の松林の中には石柱に囲まれた野球塔の廃墟がまだ残っていた。この石柱にはかって優勝校を記念する銅版がはめ込まれ、高さ三三メートルの塔があったが、この時はすでに空襲で崩れ、銅版は金属類徴収のため取り外されていた。そのほかに駅から球場へ向かう間には石段を積み上げたかって銅像のあった塔が二つあった。この銅像は戦時中に徴収されていた。
この頃、私は授業が終わると、仲の良かった山岸君とこの塔の石段に腰掛けてよく議論をした。ある日、こんな、途方もない事を懸命に言い合っていた。
「この宇宙は全体として、想像もつかないほど巨大な有機体を形成していると思うのや」
「いやそれは、有機体ではない。宇宙は無機物の巨大な塊で、生命体ではないで……」
 その時もう一つの南側の塔の石段にはアメリカ兵相手の女たちが、二・三人座ってたむろしていたが、一人が近づいてきた。その頃の彼女たちの服の色は原色だった。スカートは真っ黄色で、上着は真っ赤、真っ青なスカーフを首に巻いていた。口紅を赤でひいて、顔の化粧は白く、眉を濃く塗っていた。
「あんたら、マッチ持ってないかな?」と話しかけてきた。
「俺らは持ってないで、タバコ吸わんからな」

 女はうなずいて、その辺を見回していたが、ゆっくりとまた南の塔の石段に帰っていった。

私と山岸君の話は、宇宙の話から女たちの話に変わった。

「何で、あんな派手な格好をしてるのや?」
「アメリカさんは、ああいうのが好きなんやろう」
「暁部隊が駐留してた時は、全く女気が無かった甲子園に、アメリカ軍が来た途端、女たちが集まるのは不思議に思わへんか?」
「不思議といえば、不思議やな。最初、女は皆どこかへ隠れるか、男装するか、どちらかをせんといかんと言われとったからな」
「しかしなぁ、甲子園のグランドは、ジープやトラックで一杯になり、球場内の通路などに、ベッドがおかれて、球場だけで二千人のアメリカ兵がいるというやないか、それに女の将校たちは、甲子園から離れて夙川北の殿山町に占領したパインクレストホテルにいるから、ここは男ばっかりや。女が集まるのも当たり前といえば当たり前かも知れんで……」
「日本の暁部隊の若い兵隊はどうしとったんやろう?」
「遊郭へ行ったことを、嬉しそうにちらちらと、わしらに話をする兵隊がおったがな」
「アメリカ兵は、なんで遊郭へ行かへんのや?」
「アメリカは、遊郭を公認することなどを認めてないのと違うか……?」
「それでも、売春する女はいるやろう」
「勿論いるやろう。建前では、自由恋愛という事になってるのや、しかしさすがに、この球場の中には、絶対女は入れへんから、中学校の校庭のベンチに朝来たら衛生サックが落ちてるような事になるのや。昨日の朝それを、俺は見つけたで……」
派手な服装の女たちは、それからもしばらくの間、いつでも同じところに何人かたむろしていた。夜になるともっと増えるらしかった。
私が後年になって知った事だが、日本を占領したアメリカ軍に対して、日本の内務省が慰安施設RAA(特殊慰安施設協会Recreation and Amusement Association)を作って提供し、占領軍もそれを利用する方策を一時、受け入れたらしい。しかし、これはアメリカ軍が取っている売春禁圧政策にもかかわらず、売春を公認していることになり、性病の管理も充分に出来ない、という理由により昭和二一年一月には利用を止め、三月に廃止している。

 甲子園周辺では、昭和二一年に入ると女たちの様子は変わってきた。派手な服装が少し地味になって、あまり集まってたむろしなくなった。その頃になると日本の警察も取締りを始めるようになったからである。

 しかし、オンリーさんという言葉が使われだして、女が特定の兵隊の恋人という事になると、警察も売春と決め付けられないらしかった。
そして阪神電鉄側の度重なるGHQ地方軍政部への返還嘆願書提出の働きかけにより、遂に、昭和二二年一月一〇日には、甲子園球場のグランドと観客スタンドの接収が解除された。また同時に甲陽中学の別館も接収を解除された。
この時、山岸君と球場の周りを歩きながら、「三月には全国中等学校選抜野球がここで始まれば、甲子園も少しは変わるやろ」

「そやけど、球場の中の一部はまだアメリカが占領しとる。甲子園キャンプの広い土地はアメリカの管理下やし、甲子園ホテルも地区の司令官がいて、占領されたままや」

 「いずれにしろ、甲子園球場で野球大会ができるのは、一歩進歩したと思ったらええのとちがうか」などと、と話し合ったものであった。
その後、中学はそのまま新制高校となり、私と山岸君は、昭和二六年、それぞれ別々の大学に行く事になった。その年の六月朝鮮戦争が始まった。甲子園キャンプも兵隊の出入りが、あわただしくなった様であった。その朝鮮戦争のさなかに、サンフランシスコで対日平和条約と日米安全保障条約が結ばれた。そして、西宮市は鳴尾村と合併して、完全に西宮市の中の米軍キャンプとなった。そのような時の昭和二七年、神戸にあった米軍が甲子園キャンプに移転してきて、さらに兵舎が増築されている、という話を聞くようになった。
 私はその頃は甲子園へはあまり行く事がなくなっていたので、詳しい状況が良く分からなかったが、昭和二八年五月初め、鳴尾に住む山岸君からの久しぶりの電話には、驚いた。
「アメリカ軍のR・Rセンターが、奈良から甲子園に移転してくるというのや」
「R・Rセンターとはなんや?」
「朝鮮戦争で戦った兵隊に、五日間の休養回復を与えるRest and Recuperation Center と言うのや、そこにはダンスホールやボーリングなど娯楽施設がある。それだけならよいのだが、必ずその周辺にキャバレー・バー、などを日本の業者が作り、さらにその周りには女たちが大勢集まってきて、兵隊相手の商売をするのや」
「そんなのが来たら、スポーツの聖地、甲子園もえらい事になるなぁ。兎に角一度、久しぶりに甲子園で会おう」
昔のように、ゆっくりと球場の周りを回りながら私は山岸君と話をした。
彼によると甲子園のアメリカ軍のキャンプは三十八万坪ある。競馬場などを日本海軍が強制収用して飛行場をつくったものを、占領した土地である。八割が国有地になっている。
「一番心配するのは、この土地をアメリカが日米行政協定で永久借用の基地にしてしまわへんかということや、厚木・岩国・横須賀・佐世保などと同じようにその可能性はある」
「我々の力でどうにもならんで……」
「まずは、R・Rセンターの実態を地元の人々に知ってもらって、甲子園には来ないようにすることや。同時にキャンプ地の返還も働きかけるようにするのや。たまたま伯母が甲子園地区の婦人会の役員で、中心になって張りきっているので、今懸命にそのことを吹き込んでいるところや」
「そうか、俺もそれでデモ行進をするのなら、参加するからな」

その後、山岸君は、奈良のR・Rセンターの周辺を見に行ってきた。そこで彼はアメリカの帰休兵は一人平均十三万円の金を五日間で使うという事や、その金を目当てにカフエー・キャバレーなどが六八軒ある事を確かめた。そして、センター周辺の民家の多くが、兵隊を相手にする女たちに月、二千円から三千円の高い値段で部屋貸しをしていることを、婦人会の役員の伯母に話したらしい。
 甲子園地区の婦人会でも、甲子園キャンプの周辺に、バーやキャバレーが出来つつあること。またすでに多くの女たちに部屋貸しをする民家が増えてきていることなどが問題となっていたので、R・Rセンター移転反対の声が急激に高まった。山岸君によると、婦人会からPTA連合会、そして青年団もこの問題を取り上げ始めたという。そして早くも五月二三日には、鳴尾地区育友会(PTA)連絡協議会は西宮市議会議長宛に、R・Rセンターの移転に反対する陳情書を提出した。
 それには、「甲子園一円では日夜悩まされております。所謂パンパンの媚態、バーに輝く赤青のネオン、そこに出入りする酔漢の醜態、民家の内部改造にみるいかがわしい男女の媚態、子をもつ親として全く耳目をおおうものがあり……」などと書かれていた。
 それに続いて、PTA連合会長からも、また、西宮市連合婦人会長からの要請書も市長と市議長宛に出された。最初はそれほどR・Rセンター移転反対に乗り気でなかった西宮市側もこうなってくると、真剣に取り組みを始めた。そしてとうとう、反対の世論の高まりの中、市長、市議会長、教育委員長名で「R・Rセンター甲子園設置に対する反対陳情書」が作成され、外務大臣と兵庫県知事宛に出される事となった。そして、さらに「健全文化都市」であることを強調して、市の代表が外務省と日米合同委員会に陳情することも決まった。
反対運動の急展開に、山岸君は電話をかけてきて、「地元の人達が、R・Rセンター周辺の実態を知ったことが大きい。この勢いを甲子園キャンプの返還、撤去にまで進められるようになれば、良いのだが……」と言っていた。
 この西宮の反対運動の熱気はとうとう、アメリカ軍に甲子園への移転を断念させるのである。昭和二八年九月にR・Rセンターは代替地があればすぐに移転するという条件を提示して、奈良から神戸に移っていった。R・Rセンターの閉鎖は昭和三十年三月である。

 私はとうとう、この事でデモ行進に参加する事はなかった。山岸君は甲子園移転中止を待っていたかのように、アメリカに留学するといって、日本を離れた。

昭和二九年三月、甲子園球場の全部が返還された。そして昭和三二年一二月、遂に広い甲子園キャンプの土地とその建物は、接収解除となり日本側に、旧甲子園ホテルと共に返還されることになったのである。
 私は今、浜甲子園から海岸の公園の中を東へ、スポーツセンター周辺の運動公園を散策することがある。そこから、枝川の流れに沿って、両側に立ち並ぶ大規模な浜甲子園住宅団地を見ながら北へ進む。そして武庫川学院の薬学部・教育学部・中・高学部の大きな塀の周りの並木道を歩く。そして、浜甲子園中学と西宮東高校の間から、ららぽーとのある臨港線の通りまで進む時、この一帯がアメリカ軍占領キャンプのあった所だったことを、改めて思い出すのである。
この甲子園からはアメリカ軍は去ったが、未だに日本の各地の基地問題は、その住民との間に深い翳りを落としていることを決して忘れてはならないと、私はいつも思うのである。

■■◆      宙 平
■■■     Cosmic Harmony
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