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Chuhei
B−29の爆撃と集束焼夷弾(クラスター爆弾)の仕組みです。
(写真はウイキペディア 日本本土空襲より)
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西宮も含め、全国の各中小都市には下のようなビラがまかれて、焼夷弾の絨毯爆撃を予告していました。
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日本列島の空に次々とクラスター爆弾が開き、ナパームの 子弾が降り注いでいた。
昭和20年3月13日、大阪大空襲に続いて3月17日神戸大空襲。そして、東京・横浜 ・名古屋を含めて日本の5大都市の住宅地のほぼ全域を、さらに度重ねて焼き尽くしたアメ リカ軍の焼夷弾爆撃は、6月に入ると全国の中小都市に向かった。6月15日、堺・尼崎・ 西宮の空襲、6月29日岡山大空襲、7月3日姫路大空襲、7月7日明石大空襲、7月10 日堺大空襲、8月5日から6日未明西宮大空襲などであった。
私は当時甲子園にあった甲陽中学の2年生であったが、甲陽学徒隊の腕章をつけ、西宮市 今津社前町の自宅から、阪神電車尼崎車庫工場に通い、電車モーターを整備する電工小隊で 働いていた。
6月15日の空襲の翌日だったと思う。出勤すると車庫工場の横の広場には銀色に光る不 発の焼夷弾が、多く転がっていた。その形は六角形で直径5p、長さ35p位あったろうか、 《いやにピカピカで、おもちゃみたいな、焼夷弾やなぁ、こんなのが本当に爆発するのやろ か》とその時思った。
後で知ったが、これは、エレクトロン焼夷弾で、マグネシュウムとテルミット(アルミと 酸化鉄の混合物)で出来ており、点火すると高熱を出し、白く輝いて燃焼する。貫通力があ り温度は高いが、短時間で燃えつきるという特色があった。
私はそれが、どうしても気になり、休みの時間に仲間二人と不発弾に近づいて、手に持っ た。手に持つとそのまま投げたくなったが、どうせ投げるのなら、と、3人でその横にあっ た赤煉瓦の変電所3階のテラスまで登り、1人1発ずつ下の広場に投げ降ろした。うち2発 が破裂した。
マグネシュウムがまばゆいばかりの光を発し、炎が広がった。ところがその炎が広場の横 に積んであった材木に移り燃え上がった。たちまち、工場中で大騒ぎになり、大勢の人が集 まってきて、防火砂をかけ、その後水を何度もかけて、ようやく火は静まった。
2年生各小隊に全員集合がかかり、35名が整列すると,拳骨で殴ることで有名な先生が、 何も言わず激しく一人ずつ殴っていった。その場にいた上級生のリーダーも「私の責任であ ります」と自ら申し出て殴られた。やったのは、私と電工小隊の二人であるが、こんな時は 連帯責任で全員殴られることになっていた。私は他の皆に対して悪かったという気持ちで一 杯であった。が、誰も何も言わなかった。一方、そんな時でも《アメリカの焼夷弾はなんで こんなに不発弾が多いのだろうか? どこかに欠陥があるのではないか》と考え続けていた。
それから、50日後の深夜、自宅で「敵機は西宮を攻撃中!」と繰り返すラジオの音に、 私は飛び起きた。父母姉弟と一緒に外に出た。海側一帯から大きく火の手が上がっていた。 「北へ逃げろ!」という父の声を後に、私は一人、阪神電車久寿川駅の東側の踏切手前まで 走って空を見ると、花火大会の真下にいるように無数の火が広がって落下してきた。私はそ こに止めてあったトラックの下に潜り込んだ。トラックに落下の衝撃音が響いた。周りに落 下した油脂焼夷弾が火を噴き始めた。私は素早く抜け出しさらに北へ必死で走った。
朝になって、煤を含んだ黒い雨が降ったあと戻ってくると、様相が一変して煙を上げ黒焦 げ死体の転がっている一面の焼け跡がそこにあった。焼け残った国民学校で、昼過ぎに会う ことが出来た家族とともに、その日から千里山の親類の家に、寄寓することになった。
そして翌日、私は阪神電車尼崎車庫から、空襲後の整備のため甲子園球場に行くように言 われ、小隊の仲間と球場の外野3塁側一階通路からグランドに入った。
そのとき驚いたのは、まるで、針ねずみの背のように、あの野球グランド一面に油脂焼夷 弾が突き刺さっていたことであった。不発のものも、火を噴いたであろうものがあった。ま た転がっているものもあった。
私は空襲の夜に、無数の火の落下してきた状況を思い出して、《広い球場だから突き刺さ った焼夷弾で、落下密度がよく分かる。こんな間隔で、あの時よく直撃を食らわずに逃げら れたものだ。そして、打ち上げ花火が開いたように見えたのは、落下の途中で開くなにか仕 掛けがあるのだろう》と思った。
休憩の時間に、球場内にあった軍需工場からも動員中の生徒が作業着のままグラウンドに 出てきて、一箇所に輪になって集まっていた。私もその集まりに加わった。一人がドライバ ーで、不発だった油脂焼夷弾の先端部分の横にあるネジを回して信管を取り外そうとしてい た。「大丈夫か?」と声をかけた。「信管さえ外してしまえば、もう絶対大丈夫や!」と、 ゆっくりと周りのネジを上手く外すと、信管部分が筒から離れて出てきた。それを横にそっ と置くと、外した先端部から6角形の筒の中に手を突っ込んだ。透明の袋に入った、茶色の ドロッした液体が出てきた。これが、ナパーム入り油脂焼夷弾の正体だった。 「これはええ燃料になる。家で風呂が沸かせるで……」その生徒が言った。
8月の甲子園球場、平和であれば全国から勝ち抜いてきた球児たちがここに集い、熱いド ラマを繰り広げるこの場所で、同じ年代の私たち中学生が、ビクビクしながら、不発焼夷弾 の信管を抜いていたという、昭和20年という年の恐ろしい異常さを、私は今、思い出すた びに感じている。
そして、この油脂焼夷弾の中に入っているナパームは、ナフサとパーム油を混合したもの で、火がつくと極めて高熱を出し広範囲に広がるようになっていた。日本の木造家屋を効率 よく焼失させるために開発され、その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争でも使われたものであっ た。そして、この油脂焼夷弾の爆撃は、集束爆弾にまとめられて行われたものであった。集 束爆弾はクラスター爆弾とも言われる。
油脂焼夷弾爆撃の場合は、1発当たり直径8p、長さ50p、重量2・4kgの焼夷弾3 8発(48発の種類もあった)を、子弾として1つのクラスター爆弾にまとめる。それを投 下すると自動的に地上70mで開いて、分離した子弾が一斉に降り注ぐものであった。
無数の火の落下は、分離の時に使用された火薬により、各焼夷弾に付けられている垂直を 保つためのリボンに火が付き火の雨のように見えることも分かった。
戦時中の日本人には、はっきり分からなかったが、日本への焼夷弾爆撃の殆どがこのクラ スター爆弾によるものであった。阪神尼崎車庫でのエレクトロ弾も110発を束ねたクラス ター爆弾であった。
1機のB―29爆撃機はクラスター爆弾を最少でも40発以上載せていたとされている。 あの西宮空襲の時は130機の絨毯爆撃と言われているから、油脂焼夷弾が西宮の住宅密集 地や甲子園球場に約20万発以上は投下されたものと思われる。
そして戦争末期のこの時期、日本全土の180の都市の上空に、B―29爆撃機がそれぞ れ毎回、100機から350機で飛来し、クラスター爆弾が次々と、空中で花火の大輪の花 のように開き、ナパームの入った油脂焼夷弾が雨のように降り注いでいたのである。
クラスター爆弾はその構造上、不発弾が多くなる。空襲の後でも私たちのように、手に触 れたりして、危険にさらされる。そして永い期間にわたり、その危険が続く。又、広い範囲 に大量落下するので、無差別に住民に被害を与える。動員当時、小隊の私の友人も、中学の 先生も、焼夷弾の直撃で亡くなっている。防空壕の中でも、直撃を受けた人がいる。
このようなクラスター爆弾を禁止する国際条約が、平成22年8月にようやく発効した。 条約の署名国は95カ国、批准国は30カ国となっている。日本は今年、平成27年2月に 自衛隊の保有していたクラスター爆弾の廃棄完了を確認したと発表した。しかし主な生産・ 保有国の米国・中国・ロシア、イスラエル・韓国・北朝鮮などは、国防上必要として、未だ に署名もしていない。そしてクラスター爆弾は焼夷弾に限らず、爆弾・砲弾・ロケット弾に も使われて、危険な度合いは深まっている。
平穏に暮らしている住宅が集まる上空で、クラスター爆弾が次々と開き、子弾を撒き散ら し、一面を地獄の巷にするようなことは、これは 悪魔の所業である。そしてどこでも、い かなる国家であっても、これからは絶対にしないでほしいと、私は強く訴えたい。
(平成27年6月29日)
******* 宙 平 ******* |