From Chuhei
 
 
この日、オリエンテーリング大会の会場は池の左、建物のあるところの奥にありました。
               この大会の写真は、「上林のオリエンテーリング写真館」より
 
 会場の受付係、右側が私です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

くろんど池の40周年記念大会

           

 

 

 大阪オリエンテーリングクラブが創立40周年を迎えて、奈良県生駒山地にあるくろんど池

とそのすぐ西の大阪府民の森くろんど園地一帯で、5月10日、記念大会を開いた。私はその

運営スタッフの一人として参加した。

 

 40年前というと、日本にオリエンテーリング競技が入ってきて、日本オリエンテーリング

委員会が初めて設置され(1969年)、そして第1回の全日本大会が埼玉県飯能市で開かれ

た年、1975年である。

 

 私がオリエンテーリングを始めたのは、その2年ぐらい前からだが、当時はその頃多く作ら

れていたパーマネントコース{標識が固定されて常設されているコース}で、地図上に示され

ているいくつかの標識を順番に、コンパスを使い方向を定めて、ゆっくりと歩いて回るのを楽

しみとしていた。その後、仕事の都合で名古屋に住み、愛知オリエンテーリングクラブに入り、

丘や林を駆けめぐり時間を競う競技の大会にも参加するようになった。その当時、次のような

歌が良く歌われて競技を盛り上げていた。が、今は誰も歌う人はない。曲は分かっているが、

歌詞はうろ覚えである。

 

丘や林を駆けめぐり

 頼りのコンパス あやつりて

 ルートをたどる 面白さ

 これぞオリエンテーリング

 OL! OL! オリエンテーリング

 

 1978年、私は関西に帰ってきて、大阪オリエンテーリングクラブに入った。メンバーは

今、56名だが当時はもっと多く、一時90人近くいたのではないかと思う。日本各地の大会

に出場、そして、関西各地で大会を主催して、そのための地図調査をおこない、クラブ独自の

競技地図を作り、地域の社会人クラブとして活動を続けていた。

 

 私は、今は使われていない生駒市の「北倭」の地図調査や大会運営。服部緑地や大阪城公園

の公園オリエンテーリングの地図作成と競技の実施、などに参加した。またクラブ員として日

本各地の大会に参加するようになった。

 

 当時は私もまだ若く走力があったので、路のない険しい山地や、薮などもどんどん直進して

早く走り抜けていた。地方の大会で優勝したり、香港での国際大会の40歳代クラスで銅メタ

ルをもらったりしたこともあった。

 

 1982年、リレー大会(3人1組となって、組ごとに競争をする)を、クラブではじめて

主催して信太山の「白狐丘陵」で行なった時、クラブ対抗戦として優勝カップを男女のクラス

に出すことにした。競技の結果、男女ともにカップを取った神戸のOLP兵庫クラブの提案に

より、翌年から「ウエスタンカツプリレー大会」として毎年、カップ持ち回りリレー大会が開

かれるようになって、今日まで長年続いている。私はこの「白狐丘陵」の競技の責任者とコー

スの設定者をしていたので、大会を開いて運営することの大変なことが一層よく分かった。競

技地管理者の了解を取り、地図を再調査して作り替え印刷し、何遍も試走してコースを男女別

にクラス毎に決めると、それをまたコース別に印刷し開催日に間に合わせなくてはならない。

この時は、コース印刷までに時間がギリギリ一杯で心配した。また大会前日に急にゴール近く

の路が遮断されているのが分かり、慌ててルートを変更した。

 

 その後も、大阪オリエンテーリングクラブはこのように大変な手間のかかる大会の開催運営

を私も参加して続けていく。会員の多くが、参加者にこの競技を楽しんでもらえたら嬉しい、

という気持ちが強いからだろう。 

 

 1995年には、20周年記念大会開催のため奈良県榛原市「長者屋敷越」の地図を作り盛

大に大会を開催し、2000年には大阪府箕面市で、25周年記念大会を開催している。この

時の地図は「箕面2」で、それより前にクラブで調査して大会を開いたことのある「箕面」の

地図を再調査して、作り変えたB3型の大きな1万分の1である。さらに2005年には南海

電車滝谷駅近くの富田林市「錦織公園」の7千5百分の1のクラブの作った地図で、30周年

記念大会を開いている。

 

 そして、2010年、35周年記念大会は奈良県榛原市の「嶽山」であった。地図も新しく

作り直し、記念大会と大学の選手権大会を併設し約800名が参加する大きな大会となった。

ところが当日、山の杉木立のスタート地点から、選手がクラス別に、2分間(1分間のクラス

もあった)間隔でスタートしていって約3時間が経過した頃、突然、地元山林所有者の一人が

そこに現れ、強く競技を止めるよう抗議した。

 

 スタートを中止して、我々は謙虚な気持ちで山林に入っており、今回の競技に使う山林の所

有者には了解を得て実施していると説明した。が、自分の持つ山林でなくても、山林内を通る

競技会に絶対反対であることはすでに自分としては言ってある。それに山林の維持管理には一

般人の想像以上の労力、費用、年月がかかっている。それを理解せずこんな競技に使ってもら

っては困る。と言い張って聞かない。結局中止した時間以後に出走予定の選手たちはとうとう、

その日スタート出来なかった。大学の男女選手権クラスと、記念大会の男子21歳代のEとA

クラスは競技不成立となってしまった。

 

 2015年の今年、40周年記念大会は、個人の山林所有者の土地はさけ、管理事務所があ

るくろんど園地とくろんど池周辺で、行うことになった。そして大会のために地図作成の専門

家「NishiPRO」に依頼して、新しい修正版地図「黒添池Ver・5」を出すことにな

った。

 

 私は前の年の3月に心筋梗塞で緊急入院した後は競技からは遠ざかっていたし、40周年記

念大会の運営スタッフに参加するのは無理だと思っていた。記念大会の運営を担うのは、私の

ような1930年代生まれから見ると息子に該当する世代の会員であるが、実際に高低のある

園地内を何度も回り、今回、13種類のコースを設定し、58ヶ所もある標識の位置を決めて

設置をする本当の中心は、孫世代の会員である。私の世代では大会運営に参加する会員はいな

くなってしまっている。

 

 しかし、大会が決まり、準備のための会員同士のメールが活発になってくるのを読むと、ス

タッフでは最高齢者となるが、なにか出来ることをしたい気持ちがおさえられず、試走と大会

当日の運営の参加を決めた。

 

 4月5日、試走。くろんど園地の北東にある生駒市スポーツセンターに集まり、雨模様の天

気であったが、私は午前中、女子65歳・75歳A級用のコース、1・9キロ、登高110m。

午後はグループ・初心者用コース1・4キロ,登高55mを担当した。地図は標識の位置もす

でに印刷したものを用意してくれていた。午前中10ヶ所、午後9ヶ所であった。実際の標識

の代わりにテープが下がっていたが、全部回って自分の巡航時間から、優勝者の推定時間を割

り出し報告した。このミドル距離の大会では、優勝設定時間を30分から35分位に設定出来

る距離にするように決められている。そして競技時間は90分でそれを越えると失格になる。

コースの設定は参加者に必要な競技時間も考えて決めなくてはならない。また標識の位置や、

コースに問題があればこの時修正を相談する。この日の試走で見通しがついたので、もう1日

予定していた試走はしなくてもよいことになった。

 

 そして大会当日、5月10日、私は会場パートの受付担当である。本部テント、計算センタ

ーテント、参加者用テント、女子更衣テントなどを皆で一緒に建てた。そして、黄色いスタッ

フ帽子をかぶり、名札をつけて本部テント前の机に座った。

 

 9時半の受付開始から、多くの人が集まり始めた。申し込みのあった参加人数は283人だ

が、当日に参加申し込みをする人もいるので、参加者は300人を超える。申し込み済みでス

タート時間が決まっている人は受付を通らないが、当日の申し込みの人は、受付で参加費(上

級・中級・初心者・高校生、それぞれ異なる)を支払わねばならない。受付係はお金を確認し

て、スタート時間を決め(スタート地点まで行くのにかかる時間、参加者の準備時間を配慮)

それを、参加者に渡すEカード(標識を通過した時、はめ込んで所要時間を記録する電子カー

ド)の裏のバックアップラベルに名前・クラス・スタート時間を書き込む。そして後で、その

名前・クラス・スタート時間をスタート係のチーフと計算センターまで届ける必要がある。私

は並んで座った中原さんと、後ろに座った田中さんと3人で、声を出して確認しながら処理を

した。

 

 その他受付には、色々仕事があった。コンパスの貸出もしているので、借りに来る人、事前

申し込みのお金の過剰払込で返還を求める人、逆に過小払込の人は、この日に持ってきてもら

うことになっている。トイレの場所や、帰りのバスの時刻と乗り場を聞きに来る人への案内な

どもあった。

 

 オリエンテーリング競技専門の写真家で全国の大会のNet写真集「上林の写真館」で有名

な上林さんが、会場で撮影を開始していた。かつて岐阜県のオリエンテーリング選手として活

躍した人である。若かった時は、私は一緒にリレー競技に出場したこともあった。私の過去の

競技中の写真などもほとんどは「上林の写真館」のお世話になっている。この日上林さんは、

スタート地区とフィニッシュ地点を往復して、1587枚ものシャッターを押し、それを10

40枚に編集したそうである。

 

 あっという間に時間が過ぎた。やがて、ゴールした参加者達が会場に戻ってきはじめた。男

子75歳Aクラス(距離1・9キロ、登高110m)の宮田さんが帰ってきて、まだまだ余裕

ある元気な姿で声をかけてきた。三重県松阪クラブのベテランで、フィンランドやドイツの大

会などにも一緒に行った仲間である。続いて同じクラスの原田さんも元気な笑顔で会場に帰着。

北海道から、日本各地の大会で大活躍中の札幌クラブのベテランで、昨年、一緒にブラジルの

世界マスターズ選手権大会80歳クラスに出場を申し込んでいたが、私はドクターストップに

なってしまった。9人の出走で、宮田さん3位、原田さん5位、1位はOLP兵庫の尾上さん

であった。

 

 女子50歳Aクラス(距離、登高は男子70歳Aと同じ)の植松さんも、さっそうと帰還。

日本の大会の女子ベテランクラスでは、優勝を重ねている。勿論今回も優勝。女子は参加者が

少ないものの、同じコースの男子達と時間を比べてみても、群を抜いている。埼玉県入間市ク

ラブに所属し、海外の大会にも積極的に参加している。

 

 受付係の私のところでは、地図の販売(全部の標識図とコース別図)を始めた。その合間

に、傷の手当ての医療スタッフへの案内、貸出コンパスの回収などをした。やがて、成績が

確定したクラスから表彰式となった。男子エリートクラス(距離3キロ、登高300m)の

優勝は名古屋大学の細川さん、女子エリートクラス(距離2・5キロ、登高245m)の優

勝は孔雀OKの加納さんだった。

 

 京都大学の参加選手12名が集まって「競技責任者の方にお礼をお伝えしたい」と受付に

申し出があった。実行委員長澤地会長、競技責任者木村さん、コース設定者五百倉さん、会

場チーフの玉木さんに集まってもらい、お礼の口上を聞いてもらった。こんなことは今まで

なかった。こうして、この大会は、大きな事故も、苦情もなく、多くの参加者に満足しても

らったようで、私は、今回は立派に成功して、そして見事に終わったと確信した。

 

 さて、6年後の2021年、関西にもうひとつの五輪がやってくる。ワールドマスターズ

ゲームズ(WMG)、世界中から30種目に及ぶ競技の選手が集まるすごい大会、オリエン

テーリングも種目に含まれる。私は107カ国が参加した2013年のイタリア、トリノ大

会に出場した。今度は関西が中心地であるから、当然大阪のクラブとしてはこの大会運営に

参加することになるだろう。

 

 その時、私の競技参加年齢は90歳になる。

《生涯スポーツの国際的な祭典だ。高齢ほど称賛される大会! 5歳毎に100歳までクラ

スが作られる年齢尊重の大会! この時はもう大会の運営参加より、90歳代クラスの日本

人選手として脚光をあびて競技に出場するぞ!》

 

別の声がした。

《その時まで命が続かないぞ!》私は答えた。

《確かにそうだ。ピンピンコロリなら出場出来なくても本望だ! しかし、男子90歳A

クラス出場の夢は私の心に火をとぼした、なんとかして、その時まで生きてゆくぞ!》

         

                             (2015年6月7日)

 

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宙 平

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