From Chuhei
 
 
日本が初めて空襲を受けたのが、この昭和17年4月のドウリットル空襲です。
それを実際に体験された清水さんと、香櫨園のレストランで対談しました。
 
 
この空襲は当時の状況から、爆撃機が空母を飛び立って日本を爆撃したあと
中国大陸の中国軍の陣営内に着陸するというものでした。
 
(下記の写真はいずれもpeace and war onlineより)
 
 
 
 
飛びっ立つ前の空母ホーネット上のB−25爆撃機です。
 
 
中国軍陣地に降下して、山のシェルターに救出して収容されたアメリカの爆撃
隊員たちです
 
 
日本軍占領地に降りた隊員は捕虜となり、3名が死刑となりました。
 
 
 
 

  ドウリットル空襲     

 

 

 西宮市シルバー人材センターのパソコンサークルのブログに清水 清さん

からのメールが入った。

 

「今日は私にとって忘れる事の出来ない日です。それは70年前の昭和17

年4月18日12時15分頃昼休みで遊んでいる私たちの上空から突然見ら

れない飛行機が現れ、ビラが撒かれたと思っていたらそれは焼夷弾でした。

空襲警報も鳴っていませんでしたので、無茶な練習をするもんだと感じまし

たところ、級友の一人に焼夷弾が右腕に直撃、即死という悲劇になりました。

当日は土曜日でしたので校庭にいたのは旧制中学4,5年生でしたのでこれ

が平日でしたらもっと多くの犠牲者が出たでしょう。この空襲が日本初空襲

で、空母ホーネットから飛びたったドウリットル中佐の率いるノースアメリ

カンB25爆撃機によるものでした。その後昭和20年3月10日の東京大

空襲そして5月25日の東京最後の空襲で我が家は焼失、8月15日無条件

降伏で終戦となった次第です。終戦時18歳の若者も85歳になりました」

 

 清水さんは、今は人材センターの長老級の会員である。平成6年、西宮に

シルバー人材センターができる時、私と一緒に設立準備委員になられ、共に

役員も勤めた。今も親しい仲間である。

 

 私もこの空襲のことは、覚えてはいたが、実際の体験を語れる人は。今は

もういないのではないかと思っていた。そこで、貴重な話をもっと詳しく聞

いて、当時の状況等も語り合ってみたいと思って、春の一日香櫨園のレスト

ランで対談することになった。

 

「清水さんは昭和20年の東京の大空襲も体験しておられますが、昭和17

年のドウリットル空襲というのは、日米双方の当時の戦況も体制も、全然昭

和20年とは違っていましたね。我々を散々苦しめたあの4発のB―29爆

撃機もまだなかった……」

 

「そうですね。あの時はB―25爆撃機でしたが、そんなのを知りませんか

らね。空を見て日本軍の飛行機ではないかと、思ったくらいです……。勿論、

空襲警報などは鳴りませんでしたよ」

 

「ちょうど爆撃の時に校庭に出ておられたのですね」

 

「旧制の早稲田中学の校庭でした。大隈講堂の近くにありました。大隈重信

像のあるあの講堂です。その上をかなり低い高さで敵機が通過したのです」

 

「記録によると、早稲田中学に焼夷弾を落としたのは、隊長のドウリットル

機で、焼夷弾も昭和20年に多く使われた油脂焼夷弾でなく、6角型の短い

が激しく熱をだす、テルミット焼夷弾だといわれていますが……」

 

「最初はビラが撒かれたと思ったほど、白くキラキラ光るものが、いっせい

に落ちてきました。すぐ前の地面に長さ3、40センチばかりの銀色の筒が

突き刺さり、火を噴きはじめました。校庭のあちこちにも同じように突き刺

ささっているのが見えました。その時、同級生で秀才だった小島 茂君が倒

れていました。即死でした」

 

「私も焼夷弾空襲を受け、テルミット焼夷弾も油脂焼夷弾も知っています。

私の友人も大阪で直撃を受け亡くなりました。油脂弾で直撃を受けると、油

脂が飛び散り火だるまになります。テルミット弾は硬い金属で固められてい

ますので、腕に当たると引きちぎられて、血が吹き出します」

 

「あの時は、旧制中学5年生の兄もその場にいました。気がつけばあとで、

空襲警報が鳴り響き、その時お互いの無事を確認しました。それから帰り支

度をして柔道場の興風館に集まり、警報が解除してから帰宅しました。その

日の夕刊には、『けふ帝都に敵機来襲、九機を撃墜、我が方の損害軽微なり』

という東部軍司令部の発表が載っていました」

 

「この9機撃墜、というのは全く事実ではなく、空襲は16機でしたが、1

機も撃墜はしていないのですね」

 

「敵機が去ったあと、日本の戦闘機が飛んできました。それに対して近衛歩

兵聯隊あたりから高射砲を打ち出しはじめました。戦闘機は翼を揺すって、

違う味方だ! と懸命に合図をしていました。日本側は迎撃の体制にありな

がら、タイミングがずれていましたね。こんなに早くアメリカの爆撃機が来

るとは思っていなかったのでしょう」

 

「記録によると、アメリカ側も最初は4月19日の空襲を予定していたよう

なのですが、18日の早朝には日本側の監視船「日東丸」に発見されて『敵

航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』と打電されているのですね。そのあと日東

丸は駆逐艦に攻撃され全員16名犠牲となっています」

 

「そこで、アメリカの艦隊は予定を変更して航空母艦から16機の爆撃機を

直ちに発進させ、すぐに引き返したのですね。アメリカの作戦は、爆撃機が

日本を空襲したあとは、中国大陸の中国軍の陣営内に着陸する計画でした。

爆撃機を戻して航空母艦に着艦させるのは技術的にも無理だったようです」

 

「日東丸の無線を受理した日本側は、直ちに対応しています。横須賀・三河

・呉・柱島などから、艦隊を出撃させたようです。また陸軍の航空部隊も上

空警戒に飛び立ちました。ところが予想と判断に狂いが生じていたのですね。

 

 日本側は空母部隊である以上、相手がもっと本土近海に近づかない限り、

艦載機の攻撃はないものと思い、アメリカが攻撃してくる日を19日と予想

していました。また飛行高度は3000〜6000メートルを警戒していた

のですね。実際は18日の昼、高度450メートルの低空で13機が東京方

面に、2機が名古屋方面に1機が神戸に侵入し空襲を行なっています。

 

 清水さんは当時よく歌われていた『守れ大空』という歌をご存知だと思い

ますが?」

 

「太平洋よ大陸よ

鵬翼万里敵を呑む……

という、あの歌ですね。よく歌いましたよ」

 

「そうです。あの歌です。その中に

  防備は固し十重二十重

照空燈や高射砲

聴音監視阻塞網

空に帝都の砦あり

とも歌い、そして、

  愛国高射 愛国機

熱血天にほとばしり

微塵に砕く敵影や

凱歌轟く空のはて

 と、歌って、

護れ大空 帝都の空を

 

 と結ぶのですが、当時帝都の空の守りは完璧という神話があったと思います。

しかし、侵入を防げず一機も落とせなかったのは、日本にとってそれを国民に知

らせなかったとはいえ、ショックだったのではないでしょうか」

 

「ウイキペディア事典によると、日本側の死者87名、重軽傷者466名、家屋

262戸の被害となっています。また早稲田の中学生以外にも、葛飾区、水元国

民学校高等科の少年,石出三之助君が機銃掃射を受け死亡したという、記録もあ

ります。

 

 そんな爆撃の日に、東条英機首相の乗った専用機が水戸上空でドゥリットル機

と至近の距離ですれ違ったと言われています。東条は同乗した秘書官に『あれは

アメリカの飛行機だぞ』と叫んだらしいのです。しかしお互いに銃撃はせず、そ

のまま別れたそうです」

 

「首相がそんなところを飛んでいたということは、日本側は全く18日の空襲は

想定していなかったのですね」

 

「昭和16年12月8日の開戦以来4ヶ月余り、この空襲まで日本はハワイ及び

マレー沖海戦、香港・マニラ・シンガポール占領と勝利を続けてきました。それ

だけに本土が空襲されるとは、東条首相も当初は思いもよらなかったのではない

でしょうか」

 

「空襲後、アメリカの爆撃機15機は日本列島を横断し、中国東部で、パラシュ

ートで脱出したそうです。結局15機のB―25は全損となりました。1機はソ

連のウラジオストックに不時着し乗員は抑留されました。中国の日本軍占領地に

下りた8名は捕虜となり、うち3名には死刑が執行されました」

 

「そして、この空襲を契機に、ミツドウエー大海戦の敗退、ガダルカナル島の攻

防とその撤退と続き、日米の攻守は正に逆転してゆきましたね」

 

「昭和19年7月サイバン島が陥落すると、アメリカの空軍の日本本土空襲は容

易になり、マリアナ基地と両方からB―29の空襲を受けるようになります。特

に昭和20年の3月以降は、東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の大都市への度重

なる爆撃があり、清水さんのお宅が全焼した5月25日の空襲の後も、今度は全

国180以上の中小都市への油脂焼夷弾による焼き尽くし爆撃が始まります。西

宮も住宅密集地はすべて焼き尽くされ、私も焼け出されました」

 

「そして広島・長崎への原爆投下となるのですね。相次ぐ空襲に続いて、膨大な

人数の国民が犠牲になりました。非戦闘員に対する攻撃の禁止という国際法など

全然守られていなかったですね」

 

「結局、空襲にそれを求めるというのは、実際には出来ないことだったのですね!

むしろ犠牲になるのは殆どが非戦闘員でした。これはアメリカの攻撃に限らず、

イギリスでもドイツ、そして日本の行なった爆撃にもいえることだと思います。

 

 そして歴史上で日本が初めて受けた空からの攻撃、このドウリットル空襲の一

番最初の犠牲者が、早稲田の中学生と国民学校高等科の生徒だったことも、空襲

の非道で無情な実態を現していると思います」

 

「今、早稲田中学(高校)の校庭の片隅には、この空襲で亡くなった小島 茂君

の慰霊碑『祈りの碑』があります。昭和58年に同級生だった芸術家の佐竹伊助

君が作ったものです。先日この碑の前に、静かに手を合わせて祈っている中学生

を見た、と東京に住む私の兄がいっていました

 

「そうですか! ドウリットル空襲のことを思い、犠牲になった先輩を悼む今の

中学生がいることに、本当に心を打たれますね。それでは私たちも犠牲者の方々

のご冥福を祈り合掌しましよう」

 

 

                     (平成24年5月11日)

 
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:★:cosmic harmony
      宙 平
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