空 襲 松田 龍泉氏 平成20年8月15日投稿 | |
尼崎南部工業地帯(手前は関西電力火力発電所) | 尼崎市の生い立ち |
昭和20年6月の空襲で被災した尼崎市長州地区 | |
「空 襲」 松田龍泉 | |
私が生まれた頃(1940年)この国は中国と戦争をしていた。翌年、その戦争は今までこの国が経験したことのなかった、米・英をも相手にする世界規模の大きな戦争になっていった。この国の歴史上、外国との戦争は稀にしかなかった。明治以降、外国との戦争を2〜3度ほど経験したが、ヨーロッパなどのように国内が戦場になることはなかった。 この戦争も、はじめは、まだ遠いところで行われている戦争を新聞やラジオで知るだけだった。国民は軍隊の勝利と、出征した男たちの無事を祈るだけだったが、戦争が末期になると本土の諸都市が空襲を受け沖縄には米軍が上陸して国土が戦場になっていった。 1945年以後軍事目標だけでなく、国民の住宅を含む無差別な大規模空襲は東京から始まり、大阪そのほか日本の主要な都市は殆ど空襲を受けた。最後に原爆という人類史上例を見ない兵器の犠牲までも蒙った。
こんな中、私が2歳のころ、父も招集されて出征した。私の親族からは、父のほか母の弟(行義、重義叔父)二人も出征していた。私が5歳のころ、父は戦場で負傷し九死に一生を得て、召集解除になって還ってきた。父が帰って、私たちは尼崎市長洲の母の実家の近くの家に移った、その家は敷地が三角だったので私達は三角の家とよんだ。 私が6歳のころ、大阪空襲で父方の実家が焼け、祖父母が我が家を頼ってきた。大伯父が落ち着き先を見つけると移っていったので、長期間はいなかった。 そして兄が、国民学校初等科を終え、学童疎開から帰ってきた。 そのころ、よく空襲警報がなり、防空ずきんをかぶって逃げる支度をしたり、兄が庭に堀った防空壕に入ったりした。昼間は遊びの様で、楽しさもあったが、夜や早朝眠いのに起こされるのはつらかった。兄がその都度、巻脚絆を手早く巻いて身支度をするのも頼もしかった。
ある日、本当に空襲がやってきた。まだ、外は薄暗かった。 父は仕事で不在だった。母と兄に手を引かれて外へ出て、空を見上げると花火のように、空から火がばらばらとふってくる、花火なぞ、まだみたこともなかった私は、なんと美しいんだろうと、この殺戮花火を見上げていた。 初夏の田圃は、まだ水が無く、人間が歩けないことはない、少々やわらかい土に足をとられながら、母と兄に手を引かれて逃げていくと、まわりに焼夷弾が、ズボリ、ズボリと田圃の土にささったまま火をふいている。 今度の戦争で三百何万人の人が亡くなりました。などと言われるが、このとき焼夷弾のひとつが私の頭の上に落ちていたら、私もその三百何万人の一人に入れられたのだろう。 なぜ、歩きにくい田圃を逃げるのか、そのときは分からなかったが、道路では落ちた焼夷弾がはねる危険をさけるため田圃のなかを逃げたのだということは後で知った。 診療所の前までくると、病棟が焼けていて、窓から炎がごうごうと吹き出している、道路をへだてた反対側はコンクリート製の工場の塀で、炎はその塀までとどく勢いでとても通れず、しばらくは、炎の勢いを見ていた。 あの様子はいまでもありありとおぼえていて、博多や東京の大空襲のアニメ映画にでてくるシーンと全く同じで、そんな映画を見ていると、いまになって恐ろしさがよみがえってくる。炎は上に上がっている、あの下をくぐっていくのだろうか、などとおもったが、結局回り道をして逃げ、省線の北側の避難場所までたどりついた。そこは、神崎川の堤防と省線の線路敷の土手が交差しているところで、扇型の池(ツブリ池)になっており、その浜は砂地で、その一帯は、田や畠だった。
両手で目、鼻、口を覆い、親指で耳たぶを折って耳の穴を覆う、こんな仕種をなんというのか忘れたが、この仕種だけはいまでも覚えている。空襲にあったときには、この仕種で伏せるのだ、と教わって、砂浜にそうして伏せて空襲がやむのを待っていた。 家の方向は、住宅や工場が沢山あり、それらがさかんに炎をあげているのか、空が真っ赤になり工場などが焼けて吹き上げるけむりが空を覆い、もう夜も明けて、もっと明るいはずなのに、いつまでも薄暗く、もう夜明けはこないのかと思った。 くさい、下肥のにおいがする、池で隣のおねぇちゃんがもんぺを洗っている。逃げるときに、ふとんをかぶり、上を向いていたので、肥溜に落ちたのだそうだ。
こうして、半日以上も空襲をさけて過ごし、爆撃機も去り、空襲警報も解除になった。さあ、家ヘ帰ろう、でも、その家ははたしてあるのだろうか?ひょっとすると焼けてなくなっているかもしれない。こんなことを思いながらたどる家路ってなんだろう。 学校や職場へでかけて、家路をたどるとき、その家があるだろうか?と考えることなど今ではあるまい。 家があるだろうか?と心配しながら、空を覆う煙で薄暗いなかを、家の方向に向かって焼け跡のくすぶりをさけながら歩いて行く。もし家がなかったら、そうおもいながらも家の方向を目指す以外に行くところはないのだ。 焼け跡のくすぶりをさけて、回り道をして、家の裏手の田圃のはしにたどりついたときたなびく煙のむこうに、ぼんやりと三角の家が見える、よかった、焼けてなかった。これでしばらく、家族の生活の拠り所をたもつことができる。 母も兄も安堵の吐息をついていた。煙がうすれて空が本当の色を取り戻し始めたときは、もう夕方になっていた。 この日、尼崎市長洲東通の母の実家が焼けてしまった。祖母と叔母は、道路ひとつへだてた裏の路地の奥に小さな借家を借りて移った。
この空襲で大阪でも尼崎でも多くの犠牲者が出た。幸い一族のなかで命を失った者はいなかった。しかし、父方も母方も商家であったので、全財産を失った。 この戦争で、出征した3人の男の内、重義叔父は還ってこなかった。 #空襲の火に追われいた幼い日#(龍泉) |