From Chuhei
二人の名剣士とオリンピック

1936年のベルリンオリンピックは、当時の日本に熱狂の嵐を巻き起こしました。 独裁者のヒットラーは彼の民族差別的信条から、当初オリンピックの開催には乗り 気でなかったのですが、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」と説得 を受け「アーリア民族の優秀性と自分の権力を世界中に見せつける絶好の機会」と 位置づけました。会期間中は人種差別政策を凍結し、ドイツ国家総力を挙げて、オ リンピックに取り組んだのです。ギリシャのオリンピアで聖火を採火し、開会式の スタジオまで運ぶ「聖火リレー」をしたのも、この大会が初めてでした。

そして新進の女性映画監督レニ・リーフェンシユタールを起用して、オリンピック 映画「美の祭典」「民族の祭典」を作りました。この2作品は今でもオリンピック映 画不朽の名作とまでいわれています。私は日本での封切りの時、難波の南街映画劇場 で、超満員のため立ち見でしたが、面白く手に汗をにぎりながら夢中で見たのを覚 えています。

日本は選手・役員249名を送り込んで金メダル6、銀4、銅8、でした。特に ラジオ放送「前畑がんばれ」の叫び声に、日本中が熱狂しました。

そして、次の1940年は東京と決まったのです。アジアでは初めての開催であり、 日本では皇紀2600年にあたる年として壮大な国家イベントが予定されていまし たので、メダルを増やして、日本の国威の一層の発揚を図ろうとしたのでした。正 式種目14種目のうち、初めて出場を予定する種目でメダル有力と期待されたのが フェンシング競技でした。当時日本の名高い名剣士、森寅雄がアメリカで大活躍を していたからでもありました。

森寅雄は1914年生まれ、幕末最強の剣の流派と名高い北辰一刀流四天王の一人 森要蔵のひ孫にあたります。全国中等学校剣道大会では毎年連続優勝をして剣道錬 士6段となり、1937年、剣道を普及するためアメリカに渡り、そこで出会ったのが フェンシングでした。寅雄は剣道指導のかたわら、フェンシングの技術を習得し、 実力をつけて翌年には南カリフォルニア選手権で優勝をしてしまいます。そして南 カリフォルニアの代表として全米選手権に出場して、決勝戦まで勝ち残り、決勝戦 の判定で準優勝となりました。

この時、実質的には寅雄の剣は相手を圧倒しており、人種差別的な対応からレフェリー が裁量により、寅雄の得点を認めず、やむなく準優勝になったといわれています。が、 その強さは全米の剣士に驚愕をもって賞賛され、「タイガー・モリ」と呼ばれるように なったのです。そして、1940年の東京オリンピックでの、フェンシング競技のメダル 獲得の期待を受け日本代表選手として出場準備のため日本に帰国しました。

ところがなんとその年に、1940年の東京オリンピックの開催は中止になってしまいます。 中国で勃発した盧溝橋事件が、支那事変といわれていた日中戦争に広がり、オリンピック 不参加を表明する国が現れはじめ、戦時下として、スタジアムの鉄鋼使用制限などの資源 統制も強化されたからです。寅雄のオリンピックメダルの夢は幻と消えたのです。

東京の開催は中止になりましたが、オリンピックの主要正式種目であるフェンシング 競技を日本に普及し根付かせようという動きはその後も続きました。大日本フェンシング 協会は中止決定後の1939年に国際フェンシング連盟に加盟し、競技団体としての基盤 を固めました。そして、当時の文部省は審判員及びその補助者の養成についての通牒を出し、 大学高専の運動部活動としてのフェンシング競技を促しました。その結果、法政大学、 慶應義塾大学がフェンシング部を創り、続いて明治大学、専修大学、東京大学へと各大学 が続きました。関西ではベルリンオリンピックの年にすでに大阪YMCAに大阪フェンシング クラブが結成されていましたが、そこで練習をしていた学生を中心に関西大学、同志社大学 と,フェンシングクラブや部が作られていきました。関西学院大学にフェンシングクラブ (実名洋剣クラブ)ができたのは1940年でした。そして、関東、関西の交流試合も 活発に行われるようになっていきました。しかし、太平洋戦争が始まり1943年学徒 動員令が下り、1944年には大学での運動クラブ活動は閉じられてしまいました。

私がフェンシングを始めたのは、5年の空白を経て戦後に関西学院フェンシングクラブ が復活した1950年のことです。当時、陸軍から帰ってきて卒業した後、大阪YMCA で練習を始めていた、元主将であった三島清春先輩は私に、洋剣クラブ創立時代のことを こう語っていました。

「東京のオリンピックが中止になり、森寅雄は出られなくなったが、やがてオリンピック が開かれる時が来れば、フェンシングでメダルを取るのは俺たちだ。と、当時の学生剣士 たちはみな、復活した時のオリンピック出場を考え意気盛んだった」そして、「関西学院 洋剣クラブは1941年関西選手権でフルーレ(有効面、背中を含む胴体)・エペ(有効面、 全身)で優勝、1942年東京へ遠征して全種目で強豪3校に勝ち全国制覇をした。だが、 いつの日か森寅雄ができなかった、オリンピックでメダルを目指さなければならない。 それがないと日本のフェンシングに明日はない」

戦後、森寅雄は明治大学、中央大学でフェンシングを教えていました。が、再びアメリカ に渡り、アメリカ西部フェンシング大会では優勝を重ね、剣道では剣道教士8段、アメリカ の剣道連盟会長となりましたが、1969年 剣道の稽古中に心筋梗塞で剣道具をまとった まま死去しました。享年54歳でした。2013年、国際フェンシング連盟創立100周年 の年には、日本人として唯一のフェンシング殿堂入りとなりました。

私の大学の4年間はフェンシングに打ち込み、関西学生連盟を関学・関大・同志社・立命で 創り上げ、関東の大学と対等に戦えるようになっていったのですが、オリンピックでメダル を目指すとなると、当時の現実はそれどころではなく、まだまだ先の夢の話に思われました。 敗戦国の日本とドイツには1948年のロンドン大会に、参加すら認められない状況だった のです。1952年ヘルシンキ大会、1956年メルボルン大会には視察員を兼ねてフェン シングに選手を送りましたが、欧米の選手には全く歯が立たず、予選で敗退していました。 1960年ローマ大会には5人の選手を送り込みましたが、とてもメダルには届かず、19 64年の東京大会で女子フルーレを含む各種目団体及び個人に選手を送り込み、やっと フルーレ男子団体で4位となったのが、ただ一つの実績となりました。

フェンシングのような、日本ではマイナーとなっているスポーツは、いつまでもオリンピック でメダルが取れないと、次第に人気が下がっていくのです。アメリカの占領当時、剣道禁止 政策により、フェンシングに転向する人が増えて、戦後多くの大学高校でフェンシング部が でき、部員も増え続けてきた時期があったのですが、やがて剣道の解禁以後、日本の学校 では剣道部の方に人が集まるようになっていきました。そして、1964年の東京大会以後 もフェンシングではメダルなしが続いたことも重なって2000年のシドニー大会の時期ぐらい から、部員が集まらずに廃部になる大学も出てきました。

私はこの頃、関西学院のフェンシング部OB・OG会、新月洋剣会の会長になっていたの ですが、一時30人近くいた現役の部員が5人に減ってしまったこともありました。こう なれば、何とかしてオリンピックで日本がメダルを取り、日本のフェンシングの力を示し、 この競技に対する関心を日本全国に呼び覚ます必要があったのです。

そんな時現れたのが、若き名剣士の太田雄貴でした。1985年京都府生まれ、フェンシング をしていた父親に勧められ、小学3年から競技を始め、小、中学と共に全国大会で連覇をしま した。平安高校時代インターハイ3連覇を達成し、史上初の出来事と注目され、高校2年の時 には、全日本選手権フルーレで優勝しましたが、これは全国の最年少の優勝記録でした。 こんなすごい選手は、どこの大学に入るのだろうか、当時私は彼の関西学院大学入学も期待は していたのですが、同志社大学に入りました。しかしこの時の彼は大学の選手というより、 日本を代表する、国際的に有名な剣士となっていました。

2004年アテネオリンピックのフルーレでは、3回戦まで勝ち進みましたが、ロシアの選手 に敗れ9位となりました。が、2006年、ドーハのアジア選手権では、中国、韓国の強豪を 打ち破って優勝しています。

そして、2008年北京オリンピックのフェンシングのフルーレで日本人選手初の決勝戦へ 進出しました。決勝戦ではドイツの選手と対戦しましが、残念ながら9対14で敗れ 銀メダルとなりました。しかしこれは日本フェンシング史上初となるオリンピックでのメダル でした。1940年の東京オリンピックが 幻と消えて、有力と期待された稀代の名剣士森寅雄 が取れなかったメダルが、遂に平成の名剣士太田雄貴によって、日本にもたらされた瞬間でも ありました。

2012年ロンドン大会では日本は男子のフルーレ団体で銀メダルを取りました。この時の メンバーは太田雄貴、千田健太、三宅諒、淡路卓でしたが、ドイツチームとの2位争いは、 壮絶なゲームでした。私は当時テレビに釘づけになって、この試合を見ていました。

オリンピックのメダル獲得により日本国内のフェンシングへの関心度は大きく変わりました。 中学、高校のフェンシング選手が多くなりました。各大学のフェンシング部員はメダル獲得 以後、男女ともに増えているようです。関西学院フェンシング部の部員も、今は30数名を超え、 年々高校から有力選手を10数人は迎えられるようになりました。

2016年、リオデジャネイロ大会で太田雄貴はフルーレで敗退すると選手引退を宣言しました。 しかし彼の素晴らしいところは、ここから本当に念願としているやりたいことに突き進むところ でした。それはフェンシング競技の一層の普及を図ること。そのため試合の観客に分かりやすい、 見やすい環境を提供するための改革。そして日本に男・女、フルーレ、エペ、サーベル、 個人・団体ともオリンピックで金メダルが取れる体制を一層整備すること、と日頃から 語っていました。

雄貴は直ぐに国際フェンシング連盟の理事に立候補して当選します。2017年には日本 フェンシング協会の理事を経て会長に就任し、そして翌年国際フェンシング連盟副会長にも 就任したのです。2019年にはなんと演劇場の東京グローブ座で全日本選手権大会を開催 しました。選手の心拍数を示す観客用モニターを設置して緊張の具合などを、データで示し ました。LED照明で会場全体を照らし、どちらにポイントが入ったかを分かりやすく表示 するなど、スポーツの枠を超えエンターテインメント性に富んだ大会を開き、観客動員数を 大幅に増やしました。

この雄貴が2020年の東京オリンピックに日本の会長、世界の副会長として臨むのです。 彼は「今度こそ成功させないと日本フェンシング界のレガシー(遺産)は作れない」(日刊 スポーツ6月13日)といっています。

私は年老いて何もできず、今は関西学院フェンシング部OB・OG会、新月洋剣会の名誉会長に祭り 上げられていますが、今年、東京オリンピックのフェンシングの試合のテレビだけは、 目を見開いて観るつもりです。

(2020年1月30日)

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宙 平
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