From Chuhei
吉田初三郎の昭和11年の西宮鳥瞰図を見ながら、昭和20年8月の空襲の時に、
私の走って逃げた道をたどってみました。
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下は今の地図で歩いたルートです。 |
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この時の西宮空襲で焼失した範囲です。右側中央に甲子園球場があります。 |
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私が焼夷弾の弾雨を受けた場所のすぐ近く、公設市場のあった所の今昔です。
今は下の写真のように高速道路が走っています。
(写真は今津いまむかし、西宮流より)
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昔の写真 |
今の写真 |
焼夷弾雨の下、走った道
71年前、昭和20年8月5日の深夜から6日の未明にかけてアメリカの爆撃機B―29、
130機が、西宮市の住宅密集地を目標として、焼夷弾と小型爆弾による広域波状爆撃をお
こなった。甲子園から香櫨園までの一帯がすべて焼け野原となった。
阪神電車甲子園駅から普通電車で神戸方面へ一駅目に、久寿川駅がある。その当時、駅の 南側には商店が立ち並び、その西南に常源寺という浄土真宗本願寺派の大きな寺があり、そ の西隣に福應神社の森があった。西宮神社、越木岩神社、と並んで西宮の三福神といわれる 広い境内の神社で、その南側が社前町であった。当時、私は甲陽中学2年生だったが学徒動 員でこの社前町の家から尼崎の阪神電車車庫工場に通っていた。そして会社員の父、母、軍 需工場に勤労動員で働いていた姉、今津国民学校生の弟、家族5人がその時、その家にいた。
今年平成28年、その8月5日、私は社前町の家のあったと思われる場所に立った。当時 の家の周辺の痕跡は全く残っていない。道も神社も寺も元の場所にはなく、酒蔵に囲まれて いた静かな雰囲気は全くない。阪神久寿川駅改札口から西南の方角と、今津小学校東門から 東南の方角との交点から推測されるのは、なんと広い道路の西側の歩道の真ん中である。古 い二階建ての格子戸のある家、広い土間、そこに大きなかまど二つ、土間の中の井戸、大き な松の木のあった中庭、土蔵もあった。今ではこんな古風な家がこの歩道の真ん中にあった ことなど、想像もつかない。
―空襲警報が鳴り、家の居間にあったラジオが「敵機は西宮を攻撃中」と繰り返し、家族 5人が家を出て、福應神社の森へ向かった。その時、時間は午後12時前―。
当時のことを考えながら、私は広い道を北東に進み、歩道を渡り阪神高速道路の高架の下 に入った。ここで高速道路は2つに別れて、名神高速道路がここから始まる西宮インターチ ェンジの下でもある。私は今の地図とともに、昭和11年度版の吉田初三郎の西宮鳥瞰図の コピーを持ってきていた。この図には高い甍(いらか)のそびえる常源寺と、鳥居と森のあ る福應神社が大きく描かれている。
―家族の5人は鳥居の横を通り、お寺の壁と神社の石垣の交わる角に立ち止まって、南の 空を見た。すでに火の手が上がってそこまで迫っていた。「ここにいると危ない。北の方に 走れ」と父がいった。私は「家が焼ければ、千里山の伯母の家に行っているから」といって、 一人で走り出したー。
今その場所は、インターチェンジの真ん中に当たる。そして、お寺も神社の森もこの場所 にあったのだ。私は広い道を東に渡り、高架の下から抜け出し、高速道路の高い壁に沿った 道を久寿川の流れに向かって進んだ。この道には左側に今津郵便局がある。建物は変わって はいるが、71年前もほぼこの場所に郵便局があった。そして確かにその前の道を私は走っ て逃げたのである。
―久寿川に出たところから、私は左に曲がり、川の右岸に沿って北北東の道を走ろうとし た。その時、空を見た。豪雨のようなザーという音とともに、打ち上げ花火の大きく開いた 火の輪の真下にいるように感じた。すぐ、火の雨が降り注いできた。私は思わずそこに停め てあったトラックの下に潜り込んだ。トラックに落下の衝撃音が響いた。周りに落ちた油脂 焼夷弾が火を噴き始めた。私はトラックの下を素早く抜け出し、さらに、川に沿って必死に 走った。阪神久寿川駅東側の踏切を越え、走り続けたー。
鳥瞰図によると、久寿川の左岸には今津公設市場が大きく書き込まれている。確かに郵便 局前の道を進み、橋を渡ると、賑やかな市場の入り口があった。その隣に「木寅屋」があり、 甲子園焼きという焼き菓子で大戦前頃までは有名であった。
私はトラックのあった道を阪神電車の線路に向かって歩いた。昔は左側に大きな果物屋が あり、川向こうには銀行もあった。今は久寿川駅の東側には踏切は無く、地下道が出来てい た。阪神電車線路の北側も今では家がぎっしり建て込んでいるが、昔はもっと緑の空き地が 多かったように思われる。
―走りながら、私は後ろから火が追いかけて来るのを感じていた。そして、家族と分かれ てから、誰も人に会わないのを不思議に思った。やがて、農家の村落を抜けると周りは田ん ぼとなった。その時初めて私の家族は、どこへ逃げたのだろうと思ったー。
私が先に走って行った後、家族は北へ阪神電車久寿川駅西側踏切を超えて逃げたらしい。 ちょうど今の名神高速道路高架下に当たるところである。私はその東側の田んぼ道を逃げて いたのである。さて鳥瞰図を見ると私の進んだ道の右側に高い鉄塔の火の見櫓のようなもの が描かれている。しかし、昭和20年当時も私の記憶にはない。が、この辺りを境界として、 田んぼが広がっていた。今はこの付近、すべて建物が建ち並んでいる。
―田んぼの中の道の横に土盛があって、防空壕が掘られていた。ここまで来ると、もう焼 夷弾の火の雨はなかったが、小型爆弾らしい爆発音が後ろの方でしていた。防空壕を覗くと、 中に人が一杯いたが、私は「入れてください」と断って中の片隅にしゃがんだ。皆、無言で じっと壕の中に座っていたー。
私はこの壕のあったのはどの辺だったろうか、と思いながら歩いたが、今はもう全く分か らなかった。国道2号線からの距離で考えて、西宮市立春風幼稚園の今の場所からさらに北 側あたりだったであろうと、見当をつけて引き返した。
―夜が明けて、一時強い雨が降った。煤を含む黒い雨だった。雨が上がると私は礼をいっ て防空壕を出て、逃げてきた道を戻り始めた。村落の北側には、小型爆弾の爆発穴が道の横 にあり、その周りに数人の人が防空頭巾を被ったまま、倒れて亡くなっていた。阪神電車の 線路の手前あたりから、一面の赤茶けた焼け跡が広がり、まだところどころ煙を上げていた。 久寿川駅前の商店も市場も常源寺も福應神社も一夜にして焼け失せていた。逃げてきた道に は、真っ黒の炭のようになった死体がころがっていた。私が家族と別れた場所あたりには折 り重なった二つの黒こげ死体があった。お婆さんを背負ってここまで逃げてきた隣組のおば さんに違いない、と、思った。歩けなくなったお婆さんとその嫁の女性二人だけの世帯が近 所にあったからだ。
私の家は完全に燃え尽きていた。土蔵も松の木も全てなかった。普通の火事ではここまで 焼き尽くすことはない、よほど強力な火力を出す油脂が焼夷弾に含まれているに違いない、 と、思った。井戸の場所だけがようやく分かった。近くでは今津国民学校の建物だけが弾雨 の隙間だったのか焼けずに残っていた。
国民学校の鉄筋の教室には、焼け出された人たちが集まり始めていた。私は家族を探した が、見当たらなかった。戦災孤児になったかもしれないと思った。昼前になって運動場に無 事な家族を見つけたー。
国民学校といわれていた今津小学校の敷地の場所は今も変わらない。しかし中の建物は全 て変わっている。有名な六角堂も今は正門の角にあるが、当時は今の正門より北西、庭の中 にあった。
私たち家族はその日から、母方の伯母の千里山の家に寄寓することになる。その日、8月 6日、広島では原子爆弾のきのこ雲が天に立ちのぼっていた。新聞は最初、焼夷弾爆撃、そ の後新型爆弾で攻撃されたと、報じていた。
8月7日、私は出勤し甲子園球場で、グランドに突き刺さった焼夷弾の群れを見て、もの すごい密度で大量の焼夷弾が落とされていたことを改めて知った。私はこの時のことをこれ まで書いたエッセーで「ハリネズミの背のように一面に焼夷弾が突き刺さっていた」と表現 したが、今年平成28年8月にベースボールマガジン社から発売された、山室寛之さん著作 の『背番号なし 戦闘帽の野球』の「焼夷弾の甲子園、芋畑の後楽園」の項にハリネズミの 背の表現を私の名前をあげて、書かれている。そのほか、当時の甲子園球場長石田恒信さん の「歩兵の大部隊が筒先を揃えて行進するかのようであった」(甲子園の回想)という表現 も紹介され、空襲の凄まじさが浮かんでくるとされている。また甲子園球場内の工場に動員 中であった甲陽中四年の望月信彰さんが「林のような密度で突き刺さっていた。内野は芋を 植えた畝があり、そこにも突き刺さっていた」と話しておられたことも書かれている。
この落下密度の高い油脂焼夷弾爆撃は、直径8センチ、長さ50センチ、重量2・4キロ の焼夷弾38発(48発の場合もあった)を収束して一つのクラスター爆弾としてまとめ、 それを投下すると自動的に地上70メートルで開いて子弾が一斉に降り注ぐものであった。 このクラスター爆弾を大量に広範に目的地域全般に落下して、焼き尽くすのがこの空襲の目 的だったのだ。私はそのようなことを知って、甲子園球場の突き刺さった焼夷弾の高い密度 や、私が逃げた夜の空から降る火の雨の正体が分かった。また、焼夷弾の中に入っていたナ パームはナフサとパーム油を混合したもので、火がつくと極めて高熱を出し広範囲に広がる ようになっていた。これは朝鮮戦争、ベトナム戦争でナパーム弾として使われた。そして、 今は非人道的として規制が検討されている。クラスター爆弾は使用を禁止する国際条約が平 成22年8月にようやく発効した。署名国は95カ国、批准国は30カ国となっている。
私は今、攻撃した国を憎むというよりも、民間の住宅密集地に広くクラスター爆弾をまき、 ナパームで焼き尽くすというようなことはもう、どこの国でも、どんな場合でもあってはな らない、と、強く訴え続けたいと思っている。
そして、そのためにも、昭和20年の8月15日の前の2・3ヶ月間は毎日のように、全 国180以上の中小都市の住宅密集地が、それぞれ本格的な波状爆撃により降り注ぐ強力な ナパームの火で、広く焼つくされ、焼け野原になっていた事実を、まず、みんなに知ってお いて欲しいと思っている。
(平成28年8月20日)
****** 宙 平 ****** |