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Chuhei
今の神戸市立御影公会堂です。
西側に焼夷弾よる傷が残っています。そして地下食堂のオムライスセットです。
御影公会堂
堤防を「上がってみると御影第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたい
に近くみえ、酒蔵も兵隊のいたバラックも、さらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土
手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上がり坂のまま焼跡は六甲山の
麓まで続くようにみえ、……」(野坂昭如『火垂るの墓』)これは昭和20年6月5日の神
戸空襲直後の石屋川下流から見た野坂の書いた風景である。
私も当時空襲後、阪神電車が動き出すと久寿川から三宮まで乗って、御影を過ぎた辺り
からこの風景を見ている。
《全くその通りだった》
中学2年生だったが勤労動員で阪神電車社員証(関西の交通機関はこれですべて乗れた) を持っていたので、空襲跡を心に焼き付けるために、一人でよく乗った。
このとき、御影公会堂も被災している。建物は崩れなかったが、一階の南側三部屋そし て地下食堂を残し、その他の部屋は火が入って焼けた。戦後、幼稚園に使われたりしたが、
昭和25年に御影町は神戸市と合併して公会堂は神戸市立となり、修繕・改修を受けた。
その後、公営結婚式場としても使われ、一時、なんと年間千組を超えた時もあった。平 成7年の阪神淡路大震災の時は、付近の建物やビルが倒壊するなか、頑丈な作りの建物は、 びくともしなかった。このときピーク時で被災者400人を受け入れている。
今年、シルバー人材センター仲間の松田さんが、ホームページ(eーsilver西宮)に写真 と文で、「『火垂るの墓』の舞台を歩く」を載せられ、それに関して私が御影公会堂食堂 に昔からある名物オムライスのことをメールしたことから、改めて火垂るの墓に書かれて いる主なところを回り公会堂食堂でオムライスを食べようではないか、ということになった。
大塩さん・清水さん・吉川さんが、参加され5名となった。そして大塩さんに車を出し てもらうことになった.
9月14日私達は、主人公清太と妹節子が水浴びをした香櫨園海岸と、実際に作者野坂 の義母が空襲後入院した西宮回生病院へ。そして兄妹が一時身を寄せた叔母さん宅の近く の満池谷、ニテコ池へ。防空壕のあったとされる跡を回り11時半、御影公会堂に着いた。
御影公会堂は白鶴の嘉納冶兵衛の寄付金と一部御影町費により昭和8年5月に竣工した。 当時としては最新のモダンな建物であった。
私は昭和6年生まれ、この建物より兄貴だと思っていたが、清水さんは大正15年生ま れで大兄貴だ。大塩さんは私と同じ生まれ年、吉川さんは昭和7年生まれ、松田さんは昭 和15年で、建物より弟分ではあるが、尼崎で昭和20年6月15日、焼夷弾が落下し突 き刺さる田圃を逃げた体験がある。清水さんは昭和17年4月18日東京の日本初空襲で 友人を亡くし、その後20年5月25日の東京山手での空襲まで体験している。
大塩さんは20年2月8日、神戸で爆弾の破片が肩に貫通して負傷入院、その時お母さ んと弟さんを亡くされ、また20年6月5日の空襲では家を全焼、彦根の疎開先では機銃 掃射にあっている。吉川さんは奈良の葛城にいたが、大阪の大空襲で街が焼き尽くされる 炎が、よく見えたという。私は20年8月5日夜の西宮の空襲で油脂焼夷弾落下の真ん中 に立ち往生した。家は焼け一時孤児になりかけた。『火垂るの墓』作者、野坂昭如とも、 主人公清太ともほぼ同年配である。
公会堂の西側の壁面には焼夷弾跡が残り、当時の激しい爆撃を今に伝えている。皆それ ぞれの想いをこめて、建物の内外の写真を撮っていた。
《この建物はたくましくすごい。負けずに、これからも生き抜いていこう!》
地下にある食堂も公会堂と同じ年を重ねている。高い天井、壁のタイルなどは正に「戦前」 の雰囲気であった。5人ともお勧めNO1のオムラスセットを注文した。NO2はハヤシライス である。
5人は昭和の時代を噛み締めるように、黙々と大きなスプーンを口に運んでいた。
(平成21年9月23日)
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