摩尼の峰
      From Chuhei
   
甲山、神呪寺 如意輪融通観音です。秘仏として年に1日だけ開帳されます。
今年の開扉当日、5月18日の本堂と甲山登り口です。
 
    
             摩尼の峰
 
 五月十八日、私はいそいそと甲山の神呪寺に出かけて行った。この日は、年に一回だけの本尊「如意輪融通観音」の開帳日だからだ。この如意輪観音は、河内の観心寺と大和の室生寺とともに天下の三如意輪といわれ、右に少し身体をかしげた優美な姿で有名である。

 

 午前十時、石段を登り本堂に入ると、すでに大勢の人々が観音の前の祭壇を囲み、ぎっしりと座って、この日の開帳法会を待っていた。私も観音の見える場所に割り込んであぐらを組んで座った。十時二十分、十四人の男性の僧が祭壇の周りに座り、読経をはじめた。みんな黄色の法衣をまとい、声は朗々としていた。私はすっかり落ち着いて静かに観音と向き合った。座高九十八・九.センチで、ふくよかな顔とひざを少し立てたしなやかな体の線は、なまめかしくさえ感じられた。この観音とこうして対していると、私は次第に法悦の境地のなかに溶け込んでいった。

 

 やがて僧たちは、立ち上がり祭壇の周りを回り、再び座ると一人の僧が立って、たたんだ紙を開き、高らかに「如意輪融通観音」のいわれを読み上げ始めた。その内容を私なりに要約すると、次のようであった。

 

「当山の開基如意尼は、丹後一の宮神社の出生である。幼名はいつ子と言い、十才にして京都六角堂で、如意輪の法を修業された。美しい方で、やがて当時皇太子であった淳和天皇が妃として迎えられ真井御前と称された。

 

 二十六才のとき、官女二人と共に宮中を抜け出て摩尼の峰(甲山)に至り廣田明神の女神のお告げにより、ここに堂宇を建てられた。 そして、弘法大師を請じて、如意輪の秘法を修し、阿闍梨潅頂を受けられた。弘法大師は、山中の桜の樹をもって如意尼の姿を映した如意輪観音像を彫刻された。その間如意尼は、一心に如意輪の真言を念誦されていた。

 

 この観音は神呪寺の本尊として、多くの衆生にやすらぎを与え、また信心により、融通無碍に意の如く開運・福富をもたらすものとして、今日に至るのである」

 

 堂の中は、香の匂いが立ち込め、僧達の読経はなおも続いた。私は観音像と対面しながら、その姿を映したという如意尼と、心の中で対話した。

 

「如意尼さま、貴女のそのたおやかなお姿を前にして、私の心は少なからずときめいています。年に一回、こうしてお会いできるこの今が、私の至福のときなのです。

 

 後の世、鎌倉時代の僧、虎関師錬が『元亨釈書』に貴女の神呪寺建立のいわれを書き残しています。これは先程のお寺の説明と大要は同じです。

しかし、それより少しあと、僧永祐によって編集された『帝王編年記』には神呪寺の建立を淳和天皇の皇后正子内親王の事跡としてしるされています。私は貴女と正子内親王との間になにがあったのか。また貴女が宮中を抜け出られた経緯をぜひ知りたいと思っています……」

 

「皇后正子さまのご生母はあの嵯峨帝の壇林皇后さまです。深く仏法に帰依し空海(弘法大師)さまの教導を正子さまともども真剣に受けておられたかたです。

 

 淳和帝は嵯峨帝の弟君に当たります。禅譲によりご即位され、正子内親王を皇后に迎えられたのです。宮中では真井御前といわれていた私はすでに六角堂で如意輪法について空海さまから、教えを深く受けていました。

 

 正子皇后は夢に摩尼の峰を見て、新しい寺の建立の地として、まずは橘氏公・三原春上を遣わされ調べをされました。しかしながら、あの摩尼の峰一帯は廣田明神の聖域でありました。その昔、神功皇后が新羅、高句麗、百済平定の帰りこの地に天照大神の荒魂をお祭りされたのが廣田の社です。

そして神功皇后の命により、社を造ったのは、私の生まれた一の宮神社海部家の先祖、山背根子の娘である葉山姫なのです。この地の祭事に関して、中心となって動いているのは、すべてが女人だったのです。

 

 摩尼の峰に深い因縁を感じていた私は、如意輪法の修行の場として今こそ、この地に行くべき時が来た、と感じました。しかし、深い帝のご寵愛を賜わっている身であり、表立って帝に申し上げるわけにはいきません。

 

 そこで正子皇后に私の気持ちを伝えたところ、皇后は皇太后さまと空海さまにご相談になりました。そして私が宮中を抜け出すことに密かにご支援を頂くことになったのです。

 

 抜け出たのは、天長五年(八二八年)二月十八日のことでした。私と共に従った官女の一人は、あの和気清麻呂公の孫和気真綱さまの娘(のちの如円)でした。そしてもう一人の官女は空海さまの姪(のちの如一)でした。鳥羽から舟に乗り翌日、海辺にあった廣田社の南宮(今のえびす神社の場所)に着き迎え入れられ、さらに摩尼の峰の麓にあった本宮に詣でました」

 

「よくわかりました。それから女性三人で、むらさきの雲がただよう、摩尼の峰へ登られた。そして女神のお告げによりそこに堂宇を建てられる決意をされたのですね。ところで堂宇建立後、その時代の寵児として各地で活躍し大変忙しい空海、即ち弘法大師は立て続けに如意尼さまの元を何回も訪れています。後の世の一部の者は貴女さまを、弘法大師の唯一無二の恋人だったと伝えています。これは本当でしょうか」

 

「恋人とは想い人のことですね。私と空海さまは二十八年の年の差がありましたが、心身共に如意輪真言のなかで、完全に一体となって結ばれていました。恋人・想い人といったことを、はるかに超越した間柄でした。やがて空海さまは私への愛情のすべてを、この如意輪観音像のなかに凝縮されました。そしてそれは尼僧だけで守るこの地、摩尼の峰そのものへの空海さまの深い思いにもつながるものでした。さらに、空海さまは六大(地・水・火・風・空・識)のすべてと融合し合一するまでに、その思いをつなげられたのです。

 

 そして、天地陰陽の均衡を計るため、空海さまは女性中心の摩尼の峰に対して、峰を離れた西北の地に男性中心の鷲林寺をお建てになりました。

それにより、時々現れては尼の私どもに災いをもたらしていたソラジンという凶暴な男たちは教化され、その寺に封じられ、守人となったのです」

 

「この摩尼の峰が、甲山といわれる今日まで自然のままの姿と神呪寺の信仰を守ってこられたのは、弘法大師の如意尼さまへの心身一体となった愛情、そしてこの峰への奥深い思いが今でもいきづいていたからですね。弘法大師は承和二年(八三五年)三月二十一日、六十二歳にて高野山で御入定になりました。貴女はその一日前に高野山の方向に向かって合掌し、三

十三才で遷化されていますが、これも弘法大師との完全な一体化の結果でしょうか」

 

「空海さまは即身成仏を貫かれるため、ご入定の時期を悟られると、高野山で穀物の食を絶たれ、そのまま禅定に入られました。同時に私も、自然と穀物を絶つようになり、如意輪の真言を唱えながら、三昧の境に入りました。一心に空海さまのお姿を思い一体となることを念じていますと、やがて荘厳の世界に至り、空海さまと共に法悦のなかにいる私自身を知ることが出来ました。それは私の遷化の時だったのです」

 

 僧たちの読経がいつしか終わり、私はふと我にかえつた。ちょうど正午になっていた。座って静かに堂をうずめていた人達が、立ち上がり始めた。私は観音像に歩み寄り合掌し、一年後の再会を約して本堂を出た。

 

 鐘の音が鳴り響くなか,私は天長時代女性三人の摩尼の峰登山の姿を、あれこれ想像しながら、甲山山頂への登山道をゆっくりと登っていった。


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