From Chuhei | |
クィーンズタウンの戦没者記念門 |
バンジージャンプ
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バンジージャンプ | ミルフォードサウンドのライトプレーン空港 |
オークランド戦争記念博物館のゼロ戦
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柴山積善上飛曹「幸運な生存者」のコーナー |
さらばラバウル | |
ニュージーランドのゼロ戦
成田空港からオークランドへ直行するニュージーランド航空90便が、赤道を越え
ニューブリテン島東側上空を通過するとき、ふと軍歌が私の口をついてでた。勿論そ
の時は深夜、外が見えるわけではない、この90便のその時の位置が目の前の地図画
面に刻々と映し出されていたのだ。高齢となった私の頭には、こういう地図の映像画
面を見ると、ここはソロモン海、あの海戦のあったところだ、あぁ、ここには日本軍
の作った要塞都市ラバウルがあった、ということが、かけめぐる。
銀翼連ねて 南の戦線 揺るがぬ護りの海鷲たちが 肉弾砕く敵の主力 栄えある我らラバウル航空隊 (作詞 佐伯孝夫 作曲 古関裕而) (昭和19年1月)
戦時中「南海決戦場」と題された日本ニュース社による実写のラバウルの様子や 戦いの映画が公開され、私も映画館で見たことを思い出した。「雷撃隊出動」とい うラバウルを舞台にした映画の画面も頭に浮かんだ。当時このソロモン海とそれを 取り巻く島々では、激戦が連日繰り広げられ、実に多くの命が失われた、今ここは 鎮魂の海と島々なのである。
17年前、今回と同じくオリエンテテーリング世界マスターズ大会に参加する目 的でニュージーランドを訪れた時もこの場所の上空を飛んでいるが、その時は座席 の前の地図画面もなく、全く戦争中のことなど思い浮かべることなどなかったのだ が、今回のように軍歌を口ずさみ、戦時中のことを考えるのは、高齢になって少年 時代の思い出がよみがえることが多くなったせいかもしれない。
空港のセキュリティの対応は前回と大きく変わって、大変厳しくなっていた。オ ークランドに着いて、前回は国内便に乗り換えるとき、全然手荷物検査はなかった。 が、今回はテロ対策上のチェックのほか、防疫上の観点から、靴の裏の泥まで厳し く調べられた。前回は世界でも有数の治安の良い国という説明が有り、大きく緑が 広がる牧場に点在する、羊の群れを見て、おだやかな平和に満ちた国という印象で 過ごしたことを思い出した。
今回クィーンズタウンに着いて、街を歩いて最初に見たのは湖畔の公園にある戦 没者記念門であった。「1914-1918 SERVICE ABOVE SELF」と書かれ、門の左 右には「戦没者の氏名」が彫られていた。これは第一次世界大戦の戦没者を悼む記 念碑であった。このときニュージーランドはオーストラリアとアンザック軍と呼ば れる軍隊を組成して、初めての対外戦争に参戦した。そしてトルコのガリボリに上 陸し、ドイツ軍の支援するオスマントルコ軍と激しく戦って双方に膨大な戦死者が 出た。オーストラリア軍8700人、ニュージーランド軍2700人が戦死したと いわれている。そして撤退を余儀なくさせられた戦いであった。しかし、この上陸 の日を「アンザックデー」として両国では今でも祝日としている。この時兵員を輸 送船(商船)に乗せて送り出したニュージーランド軍の海上の護衛を引き受けたの は日本海軍だった。北半球から赤道を越えて巡洋艦や駆逐艦がニュージーランドに 向かい、そこから欧州まで輸送船を守って幾度も航海した。
ところが第二次世界大戦では、日本とニュージーランドは敵対関係となる。そし て、オーストラリアには、北部港湾都市ダーウインに日本軍の数重なる爆撃があり、 日本海軍の潜水艦からの特殊潜航艇によるシドニー湾停泊中の艦船の攻撃は報道も されていた。大戦後半にはニューギニアでオーストラリア軍と日本軍との凄惨な戦 闘があったことはよく知られている。それでは先の大戦中、ニュージーランド軍と 日本軍との間には戦いはなかったのか、私はそんなことを考えながら旅行を続ける ことにした。
今回、世界マスターズゲームズのオリエンテーリング大会に出場するため、ニュ ージーランドへ行くことを決めた時、「この国にはテロが起こりそうにない。原子 力発電もないから核汚染の心配もない。世界で核を使った大戦争が起こっても、こ の国だけは汚染の範囲外になる可能性が大きい安心できる国だ」と思った。195 9年に封切られ、名作といわれた映画「渚にて」では第三次世界大戦が起こり、死 の灰におおわれた北半球の人類は死滅し、最後まで残ったオーストラリアのメルボ ルン市民の様子が描かれていたが、その頃から私は、核戦争で生き残れるのはニュ ージーランド及びその周辺だけしかないと考えていた。そして、そんなこの国が第 二次世界大戦ではその戦争にどう対応していたのか、大変興味を感じていたのである。
世界遺産に登録されているミルフォードサウンドは、氷河が作り出した絶壁に囲 まれた入江である。そこに、バスでクィーンズタウンから向かう途中、渓谷にかか った橋の上から、バンジージャンプをしていた。観光客らしい金髪の若い女性が、 足にゴムロープをつけて、飛び降りている。またもや古い軍歌が私の口をついて出た。
しめたぞ敵の 戦車群 待てと矢を射る 急降下 煙る火達磨 あとにして 悠々かえる 飛行基地 涙かんじと 部隊長 (大槻一郎 作詞 藤野今春 作曲) (昭和14年)
ノモンハン事変の時の軍歌とバンジージャンプはなんの関係もない。しかし私の 頭にはソ連の戦車群めがけて飛び込んでゆくイメージが残っているらしい。現地ガ イドの説明によると、この国では成長すると一度はバンジージャンプを体験する子 供たちが多いようである。子供に戦闘訓練をさせているのかなとも思った。
観光船で絶壁にかかる滝や、並んで泳ぐイルカを見たりしながらサウンドを一周 したあと、ツアーの14人中、有志4人は、遊覧の小型飛行機に乗りサウンド上空 を周り、そのまま先にクィーンズタウンの空港まで帰ることにした。あの懐かしい 固定した車輪をつけたまま飛ぶライトプレーンは実に軽快に飛び上がった。下を見 ると絶壁に囲まれたサウンドになかに、観光船が小さく見えた。私の口から軍歌が もれた。
燃ゆる大空 気流だ 雲だ あがるぞ かけるぞ はやての如く 爆音正しく 高度を持して 輝くつばさよ ひかりと競え 航空日本 空ゆく我ら (作詞 佐藤惣之助 作曲 山田耕筰) (昭和15年)
同時に映画「燃ゆる大空」の飛行画面が私の頭の奥底から浮かび上がった。
オークランドに戻ると、街は世界マスターズゲームズの出場選手たちで溢れ、4月 23日からオリエンテーリング競技が始まった。
競技の説明書を見ていると、スプリント競技決勝の行われるオークランド大学キャ ンバスに隣接しているアルバートパークの地下には第二次世界大戦中、日本軍の空襲 に備えて無数のトンネルが掘られ、シェルターが作られていた、という記述があった。 私がネットで調べた限りでは、昭和17年3月、日本海軍は伊号潜水艦から発進され た艦載機でウエリントンとこのオークランド上空を飛行して偵察をしたとされるが、 爆撃をしたという記録はない。が、当時は日本軍の空襲は当然あるものと予想されて いたのであろう。
スプリント競技男子85歳台決勝ではなんとか3位となり、メダルをもらった。そ の次の日の4月25日はロング競技のモデルイベント(練習コースを試走する)があ った。そして、この日はアンザックデーだった。ホテルでテレビを見ていると、ニュ ージーランドとオーストラリア各地で、戦争の犠牲者を追悼する式典が開かれていた。 元々は第一次世界大戦のガリボリの戦いの追悼行事であったのだが、今は第2次世界 大戦を含め戦争を考える日となっているらしかった。そんな中でミサイル発射を繰り 返す北朝鮮の映像も出てきた。打ち上げの場面やミサイルを積んだ車や軍隊が行進す るところなどは、日本で見る映像画面と全く同じであった。
競技はオークランド北西部ウゥドヒルで2日続けてロングの予選があった。そして 4月28日、休養日、私たち数人は一日観光としてオークランドから南に車で4時間、 青白い不思議な光を放つ土ボタルで有名な、ワイトモ鍾乳洞へ行った。ひんやりと冷 たい洞に入ると奥にホール状に広いところがあり、そこからなんとアリランの合唱が 聞こえてきた。
そこだけは歌っても良い場所になっていて、韓国の中年女性グループのツアー客が 歌っていた。私はこんなところで軍歌を歌うわけにはいかないので、戦争末期洞窟に 潜み、そこから攻撃を仕掛ける「斬込隊」の歌を低く口ずさんでいた。
命一つとかけがえに 百人千人斬ってやる 日本刀と銃剣の 切れ味知れと敵陣深く 今宵またゆく 斬込隊 (作詞 勝承夫 作曲 古関裕而) (昭和20年4月)
年老いてから、軍歌が急に飛び出してくるのは、これは病気みたいなものだ。私は昭 和5・6年生まれ病と呼んでいる。小学校、中学校時代を軍歌の旋律で育ったからだ。 思想信条とは関係ない。鍾乳洞では最後に、真っ暗闇の中、船に乗り込み、土ボタルの 光に囲まれての静かな洞窟内クルージングとなった。
この休養日に、オークランド戦争記念博物館に行った人から「博物館にゼロ戦が展示し てあった」という話を聞いて、なんとかして見に行きたくなった。競技最終日、4月29 日、ロング決勝、雨の中ゴールして着替えると、同じくゴールしてきた三重の宮林さんが 「戦争記念博物館に行ってみよう」と声をかけてくれた。二人で先にテントを抜け出し、 山道を走り、帰りのシャトルバスから電車に乗りついで、宮林さんのスマホのGPSを頼 りに雨の中、3時40分頃博物館に着いた。5時に閉館する。急いで3階にある、この国 の引き取ったゼロ戦の展示場所に行った。
日本語で「ラッキーな戦闘機」と書かれた解説があった。このゼロ戦はブーゲンビル島 の日本軍ブイン基地のトリボイル飛行場に修理をするのに部品が揃わず、そのまま置かれ ていた。整備員たちは、破壊された他の機の残骸から部品を集め修理整備した。ラバウル 航空隊から操縦者として約150回に及ぶ空中戦の経験のある柴山積善上飛曹が派遣され、 つききりで見守り試験飛行に成功し、ラバウルに飛び立とうとした時に終戦になったとさ れている。また柴山積善上飛曹については「幸運な生存者」としてコーナーをもうけ、写 真、軍刀、旭日旗などが展示されていた。このゼロ戦は修理が完了すればラバウルに送ら れ、250`爆弾を積んで特攻攻撃に使われる予定であったといわれている。整備員たち は若い柴山上飛曹の命を救い、ゼロ戦を守るためにわざと修理を遅らせた。と、説明され ていた。かつて敵対した国の強力な戦闘機と数多くの空中戦の経験のある操縦士に「ラッ キーだったね、生き残ってよかったね」と呼びかける展示を見て、この国は日本との戦争 に憎しみや恨みを持っている国ではないと思った。
別の展示にモノ島での日本海軍陸戦隊の速射砲、重機関銃、擲弾筒、三八銃、軍刀など があったが、この島の上陸作戦でニュージーランド軍は島を守る日本海軍陸戦隊と激しく 戦い、戦死40人、負傷145人を出している。日本軍守備隊は205名が死亡し8名が捕 虜になったとされている。日本式にいえば玉砕なのだが、この戦いは日本では全く知られて いないし、私も展示を見るまで知らなかった。また別の場所では東条首相の顔写真があり、 演説が日本語のまま流れていた。この国は戦に勝っても、高揚していない、戦争の被害にも 冷静に対応している。と、思いながら私は宮林さんと戦争記念博物館を出た。
軍歌をつぶやいて続けた今回の旅であったが、この博物館の雰囲気や、平和を謳歌してい るように見える街の様子からも、この国は世界中で最も戦争に巻き込まれる恐れの少ない国 ではないか、という思いを私は一層深くした。日本のように原子力発電が日本海海岸に並び、 その日本海の領海近くに北朝鮮からミサイルを撃ち込まれているような、危うい状況など、 この国では考えられない。核戦争に対応することを考えて、プルトニウムの保管や原子力発 電を止めることをしない本当の理由を、誰も口に出して言わない難しさなどは、ニュージー ランドには全くない。
帰りのニュージーランド航空99便が成田に向けて、日本の守備隊が玉砕したモノ島の上 空あたりを過ぎ、次いであのゼロ戦が送られる筈だったラバウル上空にさしかかった時、自 然に軍歌が出た。
さらばラバウルよ また来るまでは しばし別れの 涙がにじむ 恋しなつかし あの島見れば 椰子の葉かげに 十字星 (作詞 若杉雄三郎 作曲 島口駒夫) (昭和19年)
私は戦時中、孤立したラバウルを病院船として訪れた氷川丸の、その時の真っ白な船体と 赤い赤十字マークを思い浮かべていた。
(昭和29年7月1日)
****** 宙 平 ****** |