From Chuhei
西宮空襲の語り部

  西宮空襲の語り部     ―平成30年8月6日、浜脇小学校―

 西宮戎神社の南東、浜脇町の「浜脇古老の会」では、昭和20年8月の西宮空襲について 語り継ぐ会を、平成21年から続けられている。私は昨年その会合に出席したときに、同 じ空襲の体験者として、名刺と空襲体験のエッセーのコピーを渡しておいたところ、古老 の会の代表の山本さん(89歳)から、会員の青木さん(86歳)を通じて、今年の会合 では、ぜひ語り部の一員として話してほしいとの連絡があった。

 会場の浜脇小学校は、私の家から歩いて10分ぐらいの所にあり、明治5年開校の西宮で は一番古い学校で、かつて作家の村上春樹・作詞家の岩谷時子もこの学校に在籍していた。 学校の西門を入ったところに、大きな楠が緑の枝を広げている。私は73年前の空襲の時 を超えて生き残っているこの古木の木陰の下を通り会場の中央多目的教室へ入った。すで に会場では多くの人が集まっていた。会の代表の山本さんと役員の方と挨拶して前の方の 席に座った。

 代表の山本さんは元小学校校長を歴任された方であるが、阪神電車西宮駅西側の産所町に 住んでおられ、昭和20年8月6日未明の西宮空襲の体験者でもある。最初に「西宮空襲 を語り継ぐ会は今年で10回目に当り、空襲体験者の数も少なくなってきているが、新し く語り部になってくれる人もいるので、さらに体験を語り継ぎ、当たり前のように思われ ている平和について、みんなが考える機会にしたい」と話された。そして、西宮の空襲は 昭和20年に5回あったが、そのうち、8月6日未明の空襲が最も大規模で死者485人、 重軽傷者は1750人に上がった。当時、防空壕への避難訓練やバケツリレーによる防火 訓練が行われていたが、実際に落とされた焼夷弾は「想像以上の物量」で、周囲は焼け野 原となった。バケツの水をかけて消えるような勢いの炎ではなく、「焼け死んでたまるか と必死に逃げた」と語られた。

 司会をされている西波止町の84歳の西本さんも西宮空襲の体験者であり、「子供たちには 自分の命や平和の大切さを感じてほしい」と訴えて、「焼夷弾の落下してくるときは、ザー と大きな音がする。焼夷弾にはナパームという燃焼剤が入っていて、街が燃え尽きた後は、 雨が降った」と語られた。

 また、産所町に住んでおられた87歳の松井恵美子さんは「逃げる途中、焼夷弾が『シュ ーッ』と家に落ちて焼かれていくのを見た。周辺は火の海で、防空壕の中で震えていた。 その後夙川の堤まで逃げた」と当時を語られた。そして、救護班として家を出て行った父 との再会を振り返り「父が見たこともないくらい号泣して『よう生きていてくれたな』と、 ぎゅっと抱きしめてくれた。その時のことは忘れない」と穏やかな表情で語られた。

その他、武庫川河口にあった、川西航空機で働いておられた92歳の方の、空襲時武庫川 堤防に避難した話や、鳴尾村での身内の空襲の記憶を引き継がれている方の話があって、 そのあと私の話す番になった。

 私は今回の語りに際し、特に伝えたいと思ったことは、昭和20年8月6日未明の空襲は、 米軍により西宮の街の住宅密集地を爆撃対象と定め、完全に焼き尽くす目的でナパームの 入った油脂焼夷弾の収束弾(38発をまとめてあって、地上70㍍で開いて落下する)を 集中的に大量投下されたものであることを、知っておいてほしい、ということであった。

 これは日頃、私が西宮に空襲があったという話をすると、「へ―西宮に空襲があったの、 何か大きな軍需工場でもあったのだろうか」とか、「大阪や神戸の空襲のついでに、阪神間 にも爆弾を落としたのだろうね」と話を返してくる人が、多いからである。そうではない、 西宮は、はっきりと米軍により指名されて、一般住民の住宅が焼き尽くされたのだ。

 それを、証明するために私は最初に8月6日未明の空襲の前、8月1日に1機のB―29か ら撒かれたという、空襲予告ビラの話から語り始めた。このビラは「日本国民に告ぐ」とし て、「数日のうちに裏面に書いてある都市の全部、または都市にある軍事施設を米空軍は爆撃 します。書いてある都市から避難してください」と記され、西宮、水戸、八王子、郡山、 前橋、大津、舞鶴、富山、福山、長野、高岡、久留米の12都市があげられていた。西宮は米 軍による爆撃指名都市だったのである。20年6月以後米軍の油脂焼夷弾による、日本の住宅 密集地焼去作戦は180の中小都市が、指名されていたとされる。そして実際にそれぞれ大量 の油脂焼夷弾が投下されている。

 空襲予告ビラはさらに、「これらの都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があり、米空軍 はそれらの兵器を全部破壊します。しかし、爆弾には目がありませんから、どこに落ちるか分 かりません。人道主義のアメリカは罪のない人を傷つけたくありません。予め注意しておきま すから、書いてある都市から避難してください」と記されているが、8月6日未明の空襲に関 する限り、ここのところは全く違う。実際に爆撃されたところは、鳴尾、甲子園、久寿川、今 津、用海、浜脇、香櫨園地区で、当時の住宅密集地帯であり、軍事施設や工場ではない。使わ れたのは住宅焼去向けの油脂焼夷弾である。日本海軍の戦闘機紫電改を作っていた川西航空機 へは、同じ年の6月9日と7月24日に大量の1㌧爆弾を使って猛爆をしているが、これこそ 西宮を指名している爆撃とはまた違った軍事施設への爆撃であった。

 私はこの8月6日未明の空襲の実態を、このように説明した上で、当時中学2年生だった私は、 深夜12時、空襲警報が鳴り、NHKラジオ放送が「敵機は西宮を空襲中」と繰り返し叫ぶの を聞いて、家族5人、家を捨てて神社の森に向かった。さらに炎が迫ってきたので、「北へ逃げ ろ」という父親の声で一人久寿川に沿って走った、と語った。その時上空を見ると、真上に打ち 上げ花火が大量に開いたように見えて、火の雨が音を立てて落ちてきた。横にあったトラックの 下に潜り込んだが、付近に落ちた焼夷弾が火を噴き始め、必死で久寿川の横の道を北へ走った。 ようやく街を脱し、田んぼに出て振り返ると街は火の海に包まれていた。田んぼの中の防空壕に 入れてもらい、夜が明けると煤を含んだ雨が降った。街へ帰る途中小型爆弾の落下破裂した穴が ありその周りに、4・5人の人が防空頭巾のまま倒れて亡くなっていた。

 まだ煙を上げている街に入ると、家は焼失し一面の焼け野原の中、真っ黒こげで顔もわからない 死体があちらこちらに転がっていた。焼け残った今津国民学校で家族に会い、千里山の母方の親 類の家に家族で寄寓した。私はここまでの経過を一気に語った。

 学徒隊として勤労動員中だった私は、空襲の翌日の8月7日、動員先の阪神電車車庫工場から甲 子園球場に行った。今まで阪神芦屋駅と深江駅の間の線路上に爆弾が直撃して線路が象の牙のよう に突き上がっていた場所の後始末などにも参加していた。が、この日、甲子園球場に行って驚いた のは、球場一面にそれこそぎっしりと、油脂焼夷弾が突き刺さっていた姿であった。私はこの時の ことを「ハリネズミの背のように一面に焼夷弾が突き刺さっている」と思っていたが、当時の阪神 甲子園球場長の石田さんは、『甲子園の回想』で「歩兵の大部隊が筒先を揃えて行進するかのようで あった」と書かれている。また球場内の工場に動員中だった当時中学4年の望月さんは「林のよう な密度で突き刺さっていた。内野は芋を植えた畝があり、そこにも突き刺さっていた」と話されて いる。と、集まった人々に私は、当時の廃墟のような甲子園球場のこととも、合わせて語った。

 私はこの凄まじい風景によって、焼夷弾の落下する量の多さと、想像を超える密度のすごさを改め て知った。この緑色をした六角形の油脂焼夷弾は、長さ50.8㌢、直径7.6㌢、重さ7.6㌔で 炸裂すると、中に入っている燃焼力の強大なナパームが拡散し、周辺を火炎に包み込む。これが38 個まとまって、一つの収束弾(クラスター弾)となっている。その収束弾を1機のB―29爆撃機は 1520発を積む、1600発積んだという話もある(NHKBS1、7月19日放映『なぜ日本は 焼き尽くされたのか』)。そのB―29爆撃機が130機、波状爆撃で、西宮の住宅密集地に集中して 収束弾をすべて落下させ、その1発1発が落下途中で開いてそれがさらに38個の油脂焼夷弾になった のである。この膨大な量と密度の状況を確かめられたのが、甲子園球場に突き刺さった多量の焼夷弾風 景だったのである。この量と密度のため、私の知る限りでは直接落下する焼夷弾の直撃を受けて亡く なった人が多かった。

 私は西宮という一都市の民間人の住宅密集地爆撃だけにも、これだけの大掛かりな規模で、大量の焼夷 爆弾投下があったのだ、という事実を、本日の会合に参加した人、皆に知っておいてほしい、という気 持ち一杯になって、語っていた。

 この日会場に集まった人たちは92人、近隣の人も多かったが、小学生達もいた。翌朝の神戸新聞阪神 版の見出しには「8月6日、西宮でも空襲があった」とあり、私の語っている写真とともに、「語り部を 見つめて話を聞いていた浜脇小学校5年の伊吹優人君(10)は『戦争があったなんて今の町からは想像 もできない。もう戦争が起こるのは嫌だ』と語った」という記事が載っていた。

(平成30年8月17日)

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宙 平
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