大阪城周辺の戦争遺跡を歩く |
朝日カルチャーセンター公開講座の「大阪城周辺の戦争遺跡を歩く」という現地講座に参加した。 講師は大阪生まれ大阪在住の作家、本渡 章さんで5月27日、JR京橋駅南側に朝10時に集合し た。十数人の参加者があった。
最初に行ったのは京橋駅南改札口すぐ近くの「大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊塔」である。ここ には今、碑と観音像が立っていて、その横に説明版がある。
大阪に対する最後の大爆撃は、終戦の1日前の昭和20年8月14日の昼である。140機のB‐ 29が大阪城東側一帯の砲兵工廠に一トン爆弾を700トン以上も集中投下した。徹底的に破壊し尽 くすことが目的であったと思はれる。
この時、私は勤労動員先の尼崎の工場から、千里山の寄寓先(8月5日の空襲で西宮の家が焼失し 親類宅へ寄寓していた)へ帰る途中、梅田で爆撃の音と立ち上がる猛煙を見ていた。夕方、同じく寄 寓していた動員学生が泥だらけになって帰ってきた。彼は砲兵工廠から避難し、少し離れた壕に入っ ていたが、爆弾で壕が埋まり這い出してきた、砲兵工廠はもう無茶苦茶になっているといっていた。
当時800万平方米に及ぶ敷地内に6万4千人が働いていたが、空襲警報の発令と同時に、砲兵工 廠外に避難した。が、残された防空要員382人は殉職している。避難した人の中にも犠牲者はいた が、人数はわからない。
京橋駅にも一トン爆弾が直撃した。その時多くの客は高架の城東線(環状線)の下にある片町線の プラットホームに避難していた。爆弾は高架を貫き、片町線ホームで爆発した。身元がわかっている 人210名、身元不明者600名以上が亡くなっているが、正確な犠牲者の数は未だに確認できてい ない。
慰霊塔の観音像を見て、私はあの爆弾によりこの京橋駅で亡くなった専門学校生、菜保子さんのこ とを思い出した。作家でH氏賞受賞詩人の井上俊夫先生が若き日付き合っておられた女性である。若 き日の先生は戦地への出征前、菜保子さんと奈良公園を散策し、大仏殿の柱くぐりでは、お互いの体 を引っ張り合ったりして楽しまれたが、それが最後となった。戦地から帰ってこられた先生は菜保子 さんの実家を尋ねられて、この京橋駅で終戦の一日前の爆撃で亡くなったことがわかった。
井上先生には、平成4年からお亡くなりになる平成20年まで私はエッセー教室で指導を受けてい たので、このことをお聞きしていた。『奈良東大寺で別れた娘』という文章も残されている。
次いで寝屋川に沿って西南に進み北橋を渡り南に向かい、OBP(大阪ビジネスパーク)のメイン ロードを歩く。ツインタワービル、富士通、松下電工、のビル、円形ホールなどが並んでいるこの場 所は、かつて砲兵工廠の旋工場や仕上げ工場の建ち並んでいたところである。ここでは、大砲、弾丸、 軍用トラック、戦車などを造っていた。講師の本渡さんによると、アメリカ本土攻撃用の風船爆弾も ここで作られていたそうである。風船爆弾はこの大阪だけでなく全国で作られ、9千3百発も打ち上 げられた。風船の材質は和紙で、張り合わせにはコンニャク糊が使われていた。そして、小型爆弾と 焼夷弾2発が吊り下げられていた。実際に届いたのは一千発とされている。ジェット気流に乗り50 時間でアメリカ東海岸に到着したらしい。これによるアメリカの被害は不発弾に触れた民間人6人が 死亡したと報告されている。この作業には学徒動員の女子学生も従事していたが、熱いコンニャク糊 を扱うのは大変な作業だったといわれている。
大阪城新橋の北側から平野川の右岸を進むとまもなく対岸に砲兵工廠荷揚げ門跡が見えてくる。川 から荷を運ぶためにあった美しいアーチ型の水門で対岸からでないと見えない。
続いて、新鴫野橋を渡り大阪マラソンでもよく使われる周回道路に入り西へ進むと、砲兵工廠化学 分析所跡の赤レンガの建物が右側に見えてくる。新兵器の開発や研究、化学試験などがここで行われ ていた。私は本渡さんに毒ガス兵器の研究もしていたのかどうか? を尋ねてみた。毒ガス兵器は当 時でも、今でも国際的に禁止兵器だから、表面上はそんな研究をしていたとはどこにも書かれていな いが、その可能性もあるということだった。
大爆撃によって瓦礫の山となったこの一帯は、戦争が終わったあとしばらくそのまま放置されてい た。環状線の京橋から森ノ宮までの車窓の両側の眺めは、爆撃で穴だらけになった工場の敷地の上に 赤さびた鉄屑が、積み重なって散乱していた。私はこれこそ敗戦国の風景だと思って見ていた。
ところがこの鉄屑を盗み出して、売りさばく人たちが現れた。彼等はアパッチ族と呼ばれた。開高 健の作品『日本三文オペラ』には取締の警官隊と争うアパッチ族の様子が描かれている。また梁石日 (ヤン・ソギル)の作品『夜を賭けて』は実際の生活体験からくる鉄屑争奪の描写は迫力があり、直 木賞候補となって映画化もされている。
京橋口から外濠を渡り、かつて大陸から持ち帰ったと言われる石の狛犬を右手に眺め、この日は極 楽橋から天守閣に向かった。天守閣の下まで来ると、多くの外国人観光客の集団に出会った。東南ア ジア系・ロシア系・ヨーロッパ系、それぞれ写真機を持って賑やかであった。西北の真下から天守閣 を見上げると途中で石垣の色が変わって白い石の部分が見られる。本渡さんによると、これは機銃掃 射と爆撃による破壊された石垣が修復された跡だそうである。修復は西南の石垣の根元の部分にも見 られた。
天守閣南東にある旧大阪市立博物館は、今使われていないが、かつて、陸軍第四師団司令部庁舎で あった建物である。入り口がアーチ型になった3階建の洋風建築で昭和6年に建てられたものである。
大阪市は当時すべて軍用地であったこの土地に天守閣を再建する計画を立てた。それを軍に納得さ せるために、この師団司令部庁舎を新築して軍に寄付したのである。これにより立入禁止区域であっ た大阪城内に一般人が出入りして、再建された天守閣から眺望を楽しむことが出来るようになった。 しかし戦争が激化した昭和17年、軍は大阪城内への一般人の立ち入りは、一切禁止してしまうので ある。
南に下って桜門を通り、豊国神社に向かう。途中、空の内濠の中に、軍の使っていた防空壕の入り 口跡がある。遠くから見ると黒い点にしか見えない。そして、戦時中の金属供出以来、平成19年に 復元された豊国神社の秀吉像を見て西へ大手門に向かう。
その途中南側に修道館があり、その横に昭和14年まで陸軍衛戍刑務所があったとされている。次 いで煉瓦塀に囲まれ今は「大阪城公園場内詰所」となっているところには弾薬や兵器機材を保管補給 する兵器支廠があった。
陸軍衛戍刑務所は軍法会議で裁かれた軍人を収監するところで、反戦川柳で有名な鶴彬(つる あ きら、明治41年〜昭和13年)もここで1年8ヶ月の刑期を過ごしたといわれている。
「手と足をもいだ丸太にしてかえし」
「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」
「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」
「屍のゐないニュース映画で勇ましい」
大手門から大阪警察本部前の芝生広場に出て南へ、教育塔の前の広場を抜け、公園内を東に向かう。 その途中に城南射撃場跡という低い石に彫られた碑がある。
陸軍の射撃訓練場は当初この場所から南側に広く並んでいた歩兵聯隊兵舎に接した場所にあった。 それが何度か移動し、最後はこの碑の場所に移った。移設当初は露天であったが、昭和7年、半地下 式でコンクリート造りの室内射撃場に改装された。戦後も一時自衛隊の射撃訓練に使用されていたが、 今は全くその痕跡すらなくなっている。
そのまま進むと、右側に大阪国際平和センター(ピース大阪)が見えてきた。この場所は大阪砲兵 工廠の診療所のあったところである。この日は休みの日で中には入らなかったが、空襲の被害を記録 し戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるために、大阪府・市が共同で設置している博物館である。
50回をこえる大阪空襲の被害や戦時下の生活、満州事変に始まるアジア・太平洋地域の戦争の実 相などを、映像や実物資料などで紹介している。私も以前2回ほど訪れたことがあり、展示の一トン 爆弾の長さ235・2センチ、直径59・2センチ、という実物大の模型の大きさに驚いた記憶があ る。今、改装の計画が有り、展示内容についても更新することが決められている。
大阪城公園を出てJR森ノ宮駅の前にある森ノ宮神社の狛犬の石の台に激しい機銃掃射の跡が残っ ているのを見て、そこで「大阪城周辺の戦争遺跡を歩く」現地講座は解散した。丁度12時30分を 回ったところであった。
今まで幾度か訪れ、梅園で写真撮影をしたり、公園向けのオリエンテーリングで走り回ったり、 いずみホールで音楽を聴き、大阪城ホールのイベントに参加したり、富士通のビルでパソコンの講 習を受けたり、レストランで食事をしたりしたこの大阪城とその周辺だった。が、改めて戦争の遺 跡を中心に歩いてみると、明治以降もこの大阪は、強大な軍事都市を形成して来ていたことを、再 認識することができた。
砲兵工廠と聯隊兵舎のあった大阪城周辺は長年にわたり、一般人の自由に立ち入れる場所ではなか ったのである。今大阪ビジネスパークや大阪城公園を自由に訪れるどれだけの人が、このことを実感 しているのだろうか。
戦争の遺跡を知り、戦争の記憶の継承に正面から向き合ってこそ、平和のなかに生きる自由な活動 の喜びを深山の岩からにじみ出てくる清冽な泉に出会った時のように感じ取ることができるのである。
(平成25年6月25日)
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