大塩平八郎の乱 |
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Chuhei
棒火矢を打ち込み、焙烙玉を投げ込みながら、大砲を曳いて炎の中を進む
蜂起した大塩平八郎たちです。
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大塩平八郎父子の墓と、大塩関連の石碑です。
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大塩平八郎の乱
明治維新の30年前、天保8年(1827)2月19日、大阪の天満の町に砲声がとどろき 火の手が上がった。大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎と、その門弟達が 中心となって、近郊の農民たちも加わり、この日遂に決起したのである。
天保の大飢饉で、大阪でも深刻な米不足となった。大塩はその値上がりを憂い、買えず困っ ている家庭に自ら所蔵の書物を売って一朱ずつ1万軒に分け与えたりしていた。そして、米価 をつり上げる役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求めて、時の大阪東町奉行 跡部良弼に強く訴えたが、全然話を聞こうとせず、冷たく一蹴された。
ここにいたり、腐敗して民を苦しめる諸役人を誅伐し、驕っている金持ちの町人どもを誅戮 (ちゅうりく)するとの版木刷りの檄文を配り、役人屋敷に大砲を打ち込み、豪商の邸宅を襲 ったが、やがてその日の夕方には鎮圧された。しかし、乱による火災は治まらず翌日の夜まで 類焼が続いた。「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。
この乱についての朝日カルチャーセンターの講座が、今年の10月28日、現地で行われて、 私も参加した。テーマは「大塩の乱の道を歩く」というもので、案内の講師は作家の本渡 章 先生であった。
この日の集合場所は地下鉄南森町駅6番出口を地上に出たところで、十数人が集まった。ま ず最初はそこから、北へ少し歩いて成生寺へ。ここには大塩平八郎・格之助父子の墓がある。 江戸時代には墓など作ることは許されなかった。明治維新後になって作られたが戦災で破損し たため、昭和32年(1957)有志の手により、復元されたものである。その隣に大塩家菩提 寺の蓮興寺があった。ここから天満の寺町を東に進んだ。私はこの付近は始めてて並びの竜海 禅寺には緒方洪庵の夫婦墓などあり、大変興味深かった。ここから一旦、大川に出て、川の右 岸を下り、桜宮橋から西へ歩いて、大塩平八郎の屋敷跡でもある先心洞跡の碑の前で講師の説 明を聞いた。
大塩はここで洗心洞と呼ばれる塾を開いて陽明学を教えた。塾生は与力や同心の有志、親戚、 近隣の村民、などで、朝早くから、真冬でも雨戸をあけたまま平然として、講義を続けていた といわれている。
次いで行ったのが、そこからさらに西南にあった川崎東照宮跡であった。今は大阪市立滝川 小学校となっているが、徳川家康を祀るこの神社は当時、宮といえばここをさすほど良く知ら れたところだった。
大塩が決起する当日の午前4時、門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直 で奉行所に泊まっていた別の門弟が大塩に急報する。事態急変を受け、急きょ大塩は午前8時 に、この東照宮境内に仲間を集めたのである。最初に駆けつけたのは25人だったとされる。
さて私たち現地講座のメンバーは、ここから西へ谷町筋を横切り天満宮の横にある繁盛亭の 前を通って、天神橋商店街を南下した。
大塩らがここを進んだときは次第に人数が増えて70人を超えたという。燃え上がった火の 手を決起の合図とするとして、自宅には火を放ってきていた。そして近くの与力の屋敷には大 砲を打ちこみ、棒火矢を放っていた。今でも、砲弾に傷ついた槐(えんじゅ)の木の跡という 碑が立っている場所がある。やがて、天神橋まで来ると橋はすでに奉行所の手で壊されていた。 この時点で決起の人数は農民や貧民も加わり300人を超えていたという。
現地講座のメンバーも、天神橋を渡らずに右岸に沿って西へ進んだ。途中北から大川に流れ 込む川に橋のあった跡を通った。今はその川はなく大平橋という名前を彫った石だけが残って いた。森鴎外の作品『大塩平八郎』では、大塩らの渡ったこの橋を門樋橋と書かれているが、 これは間違いだと、講師の本渡先生はいった。
大塩らも天神橋北詰めから西へ進み、そして難波橋を渡りきると、鴻池善右衛門、三井呉服 店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃して棒火矢 を打ち込み、焙烙玉を投げ込んだ。
現地講座のメンバーは難波橋を渡り北浜から、開平小学校前にある「天五に平五、十兵衛横 丁」(天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛がこの地で向かい合わせに店があり、合計してこの地を 「十兵衛横町」といった)と記された碑を見て、襲撃された豪商の屋敷の跡をしのんだ。その 後今橋を渡り、南に進み高麗橋の東詰めで、大塩らの経過の最後の話を聞いてここで解散した。
大塩らはこの高麗橋で奉行所の一隊と交戦しながら、平野町へ進み、米穀店数店に火をかけ た。しかしながら、このとき大阪城から出てきた幕府軍の圧倒的な火力に戦死者も出て民衆は 逃げ始め、人数も100余名と減り、淡路町を西へ退いて、ここで遂に大塩は解散退去を言い 渡した。大塩は残った10余人と東横堀川の西川岸に出て、天満橋の西側左岸の八軒屋船着場 にたどり着き、船で逃走した。
事件後、執拗な捜査で、門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは40 日間、大阪周辺の各地に身を潜めた。そして再び大阪に戻り、3月22日靱油掛町の民家に潜 伏しているところを包囲され、自ら火薬を撒いて火を放つと、大塩は脇差で格之助の胸を刺し、 自らは首を刺して自害した。享年44歳だった。
私は檄文などにより、大塩平八郎が乱を起こすに至った原因についてはよく分かった気がし た。しかし分からないのは、どこから考えても勝ち目のない乱になぜ無謀な決起をしたのか? ということであった。講師の本渡先生は、「大塩は躁鬱症状にあって、乱を起こしたという、 半田二郎さんの意見もあります」という話しをされていた。が、私はこれはどうしても、本人 を呼び出して聞くしかないと思った。
家に帰り、パソコンのある部屋に閉じこもり、映し出した大塩の画像を前にして、私の脳の 中に溜まっているレビー小体という蛋白質から大塩の幻影を呼び出そうとした。すると、画像 どおりの一人の侍が私の横に立ってにらみつけた。
「ワシを呼び出したんは、あんたでっか?」
《声を出したぞ! 武士がおかしな大阪弁を使っている》
「大塩先生ですか? 私は今日先生が決起された時、進まれた道を歩いてきて思ったのですが、 最後は大阪城を占領し、篭城してそこから、先生の主張を発信されたら大いに効果があったと は考えるのですが……? しかし、それは無理なことですね。大阪城には2000人の幕府軍 がおり、十分な武器がありました。とうてい先生の兵力では負けるのは分かっている。それな ら、分かっているのになぜ先生は兵を挙げられたのですか?」
「おもろいことをいうお人やな! そら大阪城を占領できたらええわいな。そやけどワシも無 理やということは分かってたんや。ワシの最後の目的は世直しやが、とりあえずは腐敗した役 人どもと、驕る商人どもを懲らしめることやった」
「しかし、結局乱を起こした主要な人は皆自害したり、処罰されて死んでしまいました。これ は負けじゃないですか」
「そこは,あんたらと違うところや。ワシらは死んだら負けやとは、考えてないのや! どな いしても懲らしめないかん連中がいてるときに、何もせえへんのが一番いかんのや! 『知行 合一』とはそこで断じてやることや! 死んでもかまへんのや! やればいつの日にか結果が でるもんや。たとへ死んだ後でも……。ほんとの世直しは、簡単なもんやおまへんで、何回も 屍を乗り越えていくもんでっせ。そやおまへんか?。ワシらは死ぬのは最初から覚悟の上でや ったことや」
「それでも、先生は事件の後、40日も、死なずに逃げておられました」
「あれは送った密書の反応を知りたかったからや。ワシは決起の前に幕府の老中にあてて、建 議書として老中のうちの4名もが、禁じられてる不正な無尽にかかわってる記録を送ってたの や。これは大阪で調べ上げた記録やった。そして念のため昌平坂学問所の林述斎と水戸藩藩主 の徳川斉昭公に老中たちと交渉していることがあるという手紙を送っといたんや、幕府がどこ まで悪いことを自浄する作用を発揮するのか試してみたかったんや」
「密書は結局江戸から送り返されるのですがその途中で、飛脚が病気になり代わりを頼まれた 男が金目のものと思って開封し、伊豆の山中に放棄してしまうのですね。それが拾った者によ って、韮山代官江川英龍に届けられ、幕府はあわてて、その時まだ何処かに潜伏中の先生に刺 客をむけるのですね」
「ワシもどうせそんなことやろうと、思ってたから別に落胆はせえへんかった。そやけど、こ のことから、もう、幕府の自浄作用は無理で、大阪だけやなしに江戸も含めて日本中の世直し をせんとあかんなぁ、と分かったんや」
「水戸の徳川斉昭公は大阪に斉藤弥九郎を派遣して報告を受けています。その報告を藤田東湖 が「浪華騒動記事」に、大阪のものは家を焼け出されても怨みもせず大塩先生を慕っている。 先生逮捕の懸賞金の銀百枚が、千枚になっても訴えたりはするものかと皆大塩先生をひいきに していた。と、書いています」
「みんな世直しを望んでたんや。ワシが死んでからも、あちこちで乱が起こったそやないか?」
「乱から2ヵ月後の4月に広島の三原で800人が『大塩門弟』を旗印にして一揆を起こし、6 月には越後の柏崎で国学者の生田万(よろず)がこれも『大塩門弟』を名乗って代官所や豪商を 襲い乱を起こしました。7月には大阪の北西部で、山田屋大助ら2000人の農民が『大塩味 方』と名乗って一揆を起こしています。こんな一揆や反乱がしばらく続きました」
「ワシは徳川家の冶政まで変える気はなかったんやけど、薩摩や長州が出てきて、天皇さんの世 に変えてしもたらしいな。結果的にワシらの起こした乱が、そのさきがけになったんと違うやろ か。そやけどあんまり自慢せんほうがええなぁ! 大勢のワシの仲間が処罰され殺されてしもた し、乱の火が大阪中に燃え広がり、大火災になってしもたからな……」
最初のにらみつけていたこわい顔は悲しそうな顔に変わって、だんだん声も小さくなり、やが て幻影はすーと消えた。パソコンの画像も消えて、なにやら文字が知らぬ間に打ち込まれていた。
「知って行わざるは、未だこれ知らざるなり」
「大人は斃れて、しかる後に休む」 中斎
(2013年11月28日) 注 大塩二郎様から『大塩研究41号・64号』ほかVTR『生誕200年』『乱160年』その他の資料の提供を
受けました。深く感謝しております。
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