ピンピンコロリとリビングウイル
平成12年の5月、私は『ピンピンコロリ党宣言』というエッセーを書いた。そして、
健康寿命(継続的な医療・介護に依存せず生きて、自立した生活が出来る生存期間)
一杯に生きて、寝たきりにならずコロリと死ぬ、と宣言した。そして、そのエッセーを、
次のように結んでいた。
私はピンピンコロリ党の結成を高らかに宣言した。同時に私の口から
「きけ、万国の高齢者、轟きわたるP・P・K……」メーデー歌ならぬ、
宣言歌が響きわたったのであった。そして今や、信州人の歌ったこの歌を
関西人もこれに答え、武庫の原野に鳴り響き、高齢者で溢れる列島に、
その歌声が高い。
信州人の歌ったこの歌と書いたのは昭和58年、健康長寿体操を考案した長野県の
北沢豊治さんが日本体育学会に「ピンピンコロリ(PPK)運動について」と題し
発表したのが、このピンピンコロリという言葉の始まりと言われているからである。
当時から長野県は長寿の人が多い県として有名であった。それに健康壽命、自立して
生きている自立余命期間は全国でも有数の高さだった。しかも70歳以上の高齢者
一人当たりの医療費は、全国で最も低く、入院しても平均在院日数は全国で最も少
なかった。
長野でなぜ元気な老人が多いか。その理由として「高齢者の就業率の高さ」「保健
活動の充実」「在宅医療の普及」「食生活」「自然条件」など、幾つかあったが、特
に65歳以上の人の就業率が全国でトップの高さにあることが注目されていた。
就業といっても色々なケースがあるだろうが、とにかく高齢者が働きを続けることが、
健康に良い影響を与えるのは間違いないと、私は思った。
私はこの時、西宮市のシルバー人材センターの理事長に選任されていたので、西宮市
の高齢者の人たちに臨時的、短期的、または軽易な仕事の就業機会を広く提供して
「元気にピンピン生きて、病まずに仕事を続け、コロリと死ぬ」を目標として事業を
進めていくことが出来れば有難いと考えていた。そして、毎月の人材センター入会説
明会の挨拶では、「みんな一緒に働いて、元気にピンピン生きてゆきましょう。働く
全国シルバー人材センター会員の国民医療費負担は、同年代の一般高齢者の医療費負担
に比べても4割も低いということですよ。ぜひ人材センターで働きましょう」などと
当時、全国シルバー人材センター協会から聞いていた情報も織り交ぜて集まった人たち
に語りかけていた。
私が威勢よく「ピンピンコロリ」を宣言してから19年がたった令和元年の今。来年,
卒寿を迎える年齢となったが、その間私は、自分ではピンピン生きてきたと思って
いる。が、何の病気もなかったか、と言えばそうではない。平成19年の12月、肛門
の直腸脱の手術入院をし、また平成26年心筋梗塞のため15日間の入院により、
カテーテル処置で胸の血管にステンドを入れられてしまった。これからも病院に通って
血液さらさら剤を服用し続けねばならない。そのほか眼や歯など身体の故障は色々ある。
それではピンピン生きたといえないではないか、と言われるかもしれない。しかし私は今、
ピンピン生きるということの定義を次の言葉の範囲に絞り込んで考えるようになっている。
「自分で自立して飲食し、排泄し、移動し、会話できる状態が保たれていること」
こう考えると、私だけでなくかなり多くの人が、ピンピン生きているように思える。
それに、つい先日まで元気で話していたのに、すぐ後に亡くなったという知らがあった
古いゴルフ仲間の友人、また同じように亡くなった英会話同好会の人、学校の同窓生
などもいるが、あれは、皆ピンピン生きてコロリと亡くなったのではなかったか、
と考えると、ピンピンコロリはなにも珍しいことではない。と、思えるようになった。
そしてコロリと死ぬことについても色々考えた。
今年の2月に私の義兄(亡姉の夫)は元気な94歳だったが、有料老人ホームの大浴場に
一人入浴中に、自然にコロリと亡くなった。ホームには迷惑をかけたが、これは完全な
ピンピンコロリ死であった。今年の6月7日に私の80歳になる実弟は、急な脳梗塞で病院
に運ばれすぐに亡くなったが、今年の初めごろに内蔵にがんが見つかり、抗がん剤治療や放
射線治療を受けていた。葬式の時私は義妹(弟の妻)に「ピンピンコロリだったといえるの
ではないか」いったら「抗がん剤などで大分弱っていましたから、そんなことはいえませんよ」
ということだった。ピンピンだったとはいえないが、コロリ死だったことは間違いないと
私は思っている。
今年の6月2日、NHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』は、回復の見込みのない多系統
萎縮症になった51歳の小島ミナさんが、自ら安楽死を希望してそれを認めている国のスイス
へ渡り、2人の姉と医師立会いの下、自らその為の点滴ボタンを押して、それこそコロリと
安楽死をされる実際の映像であった。私は有難うと呟いて笑顔を浮かべながら平然とコロリ死
される姿を映像でみて、思わず息をのんだ。
このようにコロリ死といっても、色々ある。それでは老衰で自然に時間をかけて亡くなってゆく
「老衰死」はコロリ死といえないのか。私はNHKオンデマンドで、『老衰死穏やかな最期を迎
えるには』(NHKスペシャル2015年放送)をみて、考えてみることにした。
それは東京・世田谷区にある特別養護老人ホーム芦花ホームの話だった。ここでは平均年齢90歳
の高齢者100人が暮らしている。ここの石飛幸三医師は、老衰死は年々急増している、我々の体
はいずれ限界を迎え、治せないこともある、として亡くなる前の人のほとんどが一週間前から食事
をとらなくなるという。2年前によく食べていた老人は、食べているにも関わらずだんだん体重が
減るようになった。これは最後に向かう人が発する合図なのではないか、とも語った。そしてこの
芦花ホームで、食事をとれなくなって一週間、しかし延命措置をせずに安らかに老衰死された中村
イトさん。そして、話すことが出来なくなったが、苦しむことなく平穏に自然体で老衰死された
井川栄子さんの様子を映像で厳粛に見ることができた。死が迫った老衰高齢者の場合、脳の機能が
低下してゆき、多くの人が最後の数日は痛みに苦しむことなく亡くなっているという説明もあった。
私は平均生存年齢を超えた高齢者の安らかな老衰死は人間の本来の自然な死に方だと思った。
自然に食事をとれなくなった期間寝ていても、安易に「コロリ」という言葉にこだわって、
コロリ死かどうか、などというべきではない。あえていうならば、これは段階的なコロリ死である。
と私は結論付けた。
色々とピンピンコロリについて考えてきたが、私自身の望む死に方は明確に書いておいた方が良い
と思うようになった。
私は私の考えているピンピンの定義の範囲において、ピンピンと生き続けたいと思っている。
しかしそれが出来なくなった時は、段階的になってもコロリ死を望んでいる。そして死ぬときは
苦しむことなく、穏やかに明るく、めでたく死にたい。
しかし実際どんな形で死に直面するかわからない。老衰して意思を十分に伝えられなくなる場合
もある。そこで私はこのエッセーと同時に、次のリビングウイルを書いておくことを決めた。
私のリビングウイル
―終末期医療・ケアについての意思表明書―
私は今まで、ピンピンと生きてコロリと死ぬことを願って生きてきました。元気に自立できる状況
を保って生き、それが保てなくなって、回復の見込みがなくなった時は、無理に命をながらえる
ことなく、自然にあっさり死を迎えたいという思いでいます。
そこで、私が終末期になり、意識を失うような状態になった時、あるいは呼びかけには応じても、
意識は朦朧としている状態になった時は次のようにしていただきたいので、ここに、私のリビング
ウイルを書き記しておきます。
私が自分の力では水も飲めず、食べ物も食べられなくなったら、無理に飲ませたり、食べさせたり、
点滴や栄養補給をしないでください。そして、鼻管を入れたり、胃瘻(いろう)をしたりは、
絶対にしないでください。私が自分の力で呼吸ができなくなっても、人工呼吸器をつけないでください。
万一、人工呼吸器がつけられている場合でも、一旦、電源を切っていただき、私の自立呼吸が
戻らなかったら、人工呼吸器を取り外してください。そうなったら、昇圧薬も輸血も人工透析も
血漿交換などもやらないでください。
しかし、私の身体に痛み、苦しみが見える状態にあるとき、それを緩和していただける治療処置だけは
ぜひお願いいたします。
私の終末期ケアのために努力をしてくださっている、お医者さん、看護師さんや医療・介護スタッフ
の方たちには、心から感謝しています。どうか私の意志を尊重してくださるようお願いいたします。
私はこのリビングウイル、終末期の医療・ケアについての意思表明書を、エッセー『ピンピンコロリと
リビングウイル』と共に書きました。エッセー作品でもありますが、この「私のリビングウイル」は本物
であり、書面として私が今後身に着けて携行するものです。そして清明な意識の下で、内容を十分に理解
している状態で書いています。これはまた、多くの仲間の人たちにエッセーと共に読んでもらって、
それぞれの感想をお聞きしたものであり、私の本当に願っている意思を表明したものであることに間違い
ありません。
令和元年7月7日
自筆署名
(令和元年7月7日)