ピロリ菌君！　君達が僕の胃の中に居つくようになったのは、恐らく６７年前日本が戦いに

負けて無条件降伏した日の前後だと思うよ。　

　君達は胃や十二指腸に炎症を起こしたりして、悪さをするが、今の上下水道が完備して生活

環境が整備された日本では、生水を飲んでも君達に感染することはありえないとされているか

らね。また、夫婦や恋人の間のキス、コップの回し飲み位では君達には感染しないからね。だ

から今の日本では、若い人たちには感染者が少ないと言われているんだ。

　僕の家が空襲で丸焼けになって、周りが一面の焼け野原になったとき、水道管もあちこちで

破裂して、濁った水が出るようになった。勿論、家の水道や井戸は跡形もなくなり、使えなか

った。僕たちは焼け残った他の家の井戸水をもらって、それを飲んでいた。「泥水すすり草を

かみ」という歌の文句があった時代だから、有難く思っていた。そんな水と共に君達は僕の胃

にやってきたに違いない。

　もっとも、その頃はピロリ菌という言葉すらなかった。誰もがあの酸性の強い胃液の中で、

君達のような細菌が生息するなんて考えもしなかった。

ところが、１９８４年になって、オーストラリアのロイヤルバース病院のウオーレンとマー

シャルという二人の医者が偶然、菌の研究中に５日間もほったらかしの培養器のなかから発見

されたのが君達だ。そしてマーシャルは自ら菌を飲み込んで自分の身体で確かめたのだ。１０

日目に胃の組織をとって調べると、炎症を起こしている胃の中にらせん菌が存在していたのだ。

それがピロリ菌と言われるようになった。

君達の正式の名前は「ヘリコバクター・ピロリ」なのだね。ヘリコはらせん形を意味するヘ

リコイド。ヘリコプターのヘリコと同じ意味だ。バクターは細菌を意味するバクテリア。そし

て、ピロりは胃の出口をさす幽門のことだ。君達はそこに居ることが多いからね。「幽門にい

るらせん形の細菌」という意味だ。

　僕が始めて胃カメラ検診を受けたのは、もう２５年も前のことだが、７年前にも県立尼崎

病院で３回目になる胃カメラ検診を受けたときに「ピロリ菌がいたら除去したい」と申し出

て、７日間薬を飲み、一定期間をおいて呼気で尿素を調べる検査をしたことがある。

ところが、君達は強かった。薬などに負けるものかと依然胃のなかに居座っていた。医師

は「除去は出来なかったですが、貴方の場合は、今すぐに除去しなくても大丈夫です。健康

保険がピロリ菌対応に完全に適用出きるように、今検討をしているようですから、それから

来られたらどうでしょうか」といった。

　しかし、健康保険の完全適用は思ったより長引いて、昨年の２月にようやく今までは胃潰

瘍か十二指腸潰瘍の患者治療に限られていたのが、軽い胃炎患者でもピロリ菌除菌を健康保

険で行うことができるようになった。

「よし！　今度こそ君達と別れるぞ！」

　今年の１月１１日、僕は勇躍、神戸の脇浜海岸道通りメディカルセンターの辻内科医院へ

行っで、ピロリ菌除菌のための胃カメラ検診を受けた。ここの検査機器は新しいと聞いたか

らだ。ところが、機器を確かめるまでもなく麻酔が効いたのか眠っている間に終わってしま

った。昔と比べ胃カメラ検診も格段に楽になったものだと感心した。そして７日間、朝晩飲

む薬は除去２度目の人に対応する効果が一層高いものを用意してもらった。僕はこの間は医

師の指示どおり禁酒を守り、きっちりと決められた時間に薬を飲んだ。

　薬を飲み終わって４週間後、呼気検査で袋を膨らませて、尿素を調べてもらった。君達ピ

ロリ菌は胃の中の尿素を分解して、アンモニアと二酸化炭素を作る癖があるのだそうだ。だ

から、君達が居れば呼気の中に炭酸ガスが排出されるのだ。膨らませた袋の中に炭酸ガスが

なければ、君達はもう居なくなったと判定される。

　２月２７日、僕は検査の最終結果を聞きに行った。医師は尿素呼気試験測定値マイナスと

記録してある報告書を渡して

「あっ！　ピロリ菌見事に排除出来ましたよ。もっとも、貴方のご年配だったら、すっきり

した感じは少ないかもしれませんね。ピロリ菌もそれほど悪さをしなくなっていましたから、

もう少しお若い年齢の方ならピロリ菌が原因で胃潰瘍や十二指潰瘍になり、それが癌になっ

たりする場合も多いのですがね」と、言った。

《そうか！　６７年も僕の胃を住処としていた君達は同じ菌でも、なかなか賢くて、ほどほ

どに悪さをするが、僕を生かしながら共存共栄を図っていたのだ。そんな永年の友？　を追

い払うなんて！　ああ！　悪いことをしたな》

　僕は「ピロリ菌君、さよなら」と呟きながら妻と２人で菌達を追悼して杯をあげた。養命

酒をピロリと舐めたのである。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（２０１４年２月２８日）