From Chuhei
老人とスマホ
老人は若いときに読んだヘミングウェイの『老人と海』という小説を思い出しました。
これはヘミングウェイがノーベル賞の受賞を決定づけたとされた作品です。キューバの
老いた漁師がメキシコ湾の沖合で巨大なカジキをロープの先の鈎針にかけるのですが、
相手が巨大なため老漁師の小さな船に引き上げられず、相手の急激な引きに、両手に傷
を負いながら3日3晩海の中で戦い続ける物語です。老漁師が一人で苦闘する姿が克明
に書かれていました。
老人が苦闘したのは、新しく買ったスマホの使い方だったのです。海で巨大魚と戦った
漁師の老人とは大分違いますが、簡単にあきらめずに、戦い続けるその姿に自分を重ね
て『老人と海』を思い出して、一人で苦笑していたのでした。
老人は平成20年からAUの携帯電話を使っていました。カシオの製品ですが515万
画素の広角カメラが付いた当時としては最新のものでした。同時に妻も同じAUの京セ
ラ製で字が大きく見やすいという製品を使っていました。メールのやり取り、写真、電話
による連絡などが中心だったのですが、メールの字の打ちこみもパソコンの方が使い
やすく、写真もニコンの小型カメラの方が早く操作が出来て、次第に外出した時に携帯
電話として使う以外には老人も妻もあまり使わなくなっていました。
平成31年の初めにAU(KDDI)から重要なお知らせという手紙が来ました。それは
2年後の3月末をもって、第3世代の携帯電話向けサービスの提供を終了するという通知
でした。第3世代とは世界基準を満たしている携帯電話で、アナログの第1世代、デジタ
ルの第2世代から進化してきたもので、今でも多くの携帯電話に使われていますが、さら
に高速で周波数帯域のある次の第4世代に対応した機器に移りつつあります。結局は、ガ
ラケーとも呼ばれる従来の携帯電話はやがて使えなくなりますから、もっと高速で多機能
化した、スマホに乗り換えて下さいという意味だと老人は受け止めました。
そこで平成31年の2月の初め西宮北口阪急ガーデンズのジョーシン電器に妻と二人で、
スマホに切り替える相談に行くことにしました。最初に出てきた店員はNTTドコモでし
た。AUの店員は来客中でしばらく待ってほしいとのことでした。ソフトバンクの店員も
いて、みんな同じ狭いカウンターで対応していました。AUの店員が来るとまずはネット
で老人と妻の携帯電話の経歴を調べるらしく本人確認の運転免許などの提出を求めてき
ました。老人はすでに運転免許は返上していましたので、運転経歴証明書を見せました。
昔に比べて携帯の相談もなかなか難しくなったものだと思いました。店員は証明により
老人の年齢が80歳台後半で妻が前半と分かるとスマホを使って何をされますか、と聞
いてきました。
老人は電話、メールのほか、キヤシュレスのお買い物、おサイフケータイや、夫婦互い
の居場所が分かるGPSなどもしたい。しかしそれらの使用頻度は少ないはず。毎月の
使用費用は今のガラケー以上には払いたくない。そしてスマホの機器は一時払いで払う、
と答えました。
店員は色々計算していましたが、スマホにするとどうしても、毎月の使用費用は高く
なる。一つの方法としてガラホにしてはどうか、今より少しは高いが、かなり毎月の
費用は抑えられるといいました。
え、ガラホ、老人は今まで聞いたことがありません。それはガラケーとスマホの中間的
な機能を持つ機器ですが、見かけは全く従来のガラケーと変わりません。電車の中でも
周りでも、ガラホを使っている人など見たことがない、と妻がいいましたので、ガラホ
案は却下しました。後タブレットを使う案など色々ありましたが、AUのスマホに切り
替えると今ガラケーに払っている毎月の費用は2倍半から3倍ぐらいにはなりそうなの
で、その日は何も決めずに帰ることにしました。帰り際に店員がいいました。
スマホに切り替えるとき、ご家族がおられたら了承を取っておいてください。勝手に
切り替えさせられたと、ご家族から苦情が出たことがあります。
やれやれ、スマホを持つだけでも大変だと老人は思いながら、あまり使わないのに高い
毎月の費用は勿体ないので、格安スマホを考えてみることにしました、格安スマホには
大手携帯会社のサブのところと、独立しているところがあります。例えば、「Qモバイル」
はAU(KDDI)系ですが、「Yモバイル」「LINEモバイル」はソフトバンク系です。
ケイ・オプティコムの「mineo」や、「楽天モバイル」「イオンモバイル」などは独立
系です。格安スマホが安くできるのは、大手会社のように金のかかる自社回線を持たず、
大手3社から回線網を借り受けているからです。そこが弱点でもあるわけですが、楽天
モバイルのように今年の10月からは自社回線に移行を表明しているところもあります。
老人は格安スマホに切り替える決心をしました。
平成31年2月27日、老人は妻と神戸三宮のセンター街を歩いて見つけた楽天モバイ
ルショップで、スマホにするとどれぐらいの費用になるか尋ねました。月額基本1480
円のかけ放題プランというのがあるが、老人の場合は月額基本1600円の3・1GB
プランに、最初は850円プラスして1か月だけかけ放題にして、老人だけはそれに50
0円プラスして電話サポートを付けるのが一番良いということでした。機器はシャープの
AQOUSにしました。アンドロイド端末で細かい使い方はよくわからないところも
ありましたが、妻と相談してそれに決めました。
そして、2軒隣のAUの店で今まで使ったガラケーを解約しました。一台当たり3000
円の解約手数料を取られましたが、今までのポイントが溜まっていたとかで、4000円
相当の充電器をもらいました。
買ったスマホにはすでにSIMカードがセットされ、初期設定も、インターネットへの
接続もされていましたが、いざ使うとなると老人は、はたと戸惑ってしまいました。操作
が指で画面にタッチして行うので、その力加減が分からないのです。目の前に老人と妻の
スマホ2つ並べて試してみました。電源を入れて出た最初の壁紙の画面をスワイブ(指先
を滑らせる)すると、丸い形のアプリが一杯ついた画面が出て、そのアプリの中から電話
を選んでタップ(軽くタッチ)すると、店で入れてくれた妻のスマホの電話番号が出ます。
その電話番号の上をまたタップすると、妻の名前の入った画面が出て、妻のスマホが鳴り
ました。鳴った妻のスマホの画面に出たマークをスワイブすると、やっと電話が通じる
ことが出来ました。電話を切るときは両方の画面に出ている赤い電話のマークをタップ
するとよいのです。老人は何遍もタップとスワイブを繰り返しました。すると、何とか
電話は分かってきました。妻もタッチパネルは初めてなので、後でゆっくり覚えてもらう
ことにしました。次いで老人はインターネットを活用するには何から取り組めばよいか
聞こうと思い、サポートのアプリマークをタップしました。その時電話に出たサポート
の人はWI‐FIの設定がまだなら、まず設定したほうが良いといいました。そして、
今使っているWI-FIネットワークの記号と数字がスマホの設定アプリのWI‐FI
の中に現れるので、それをタップしてその暗号化キーを打ち込む必要があるともいい
ました。
ここからが大変でした。この時老人はいつも使っているパソコンのネットワークのWI
-FIの暗号化キーをなぜスマホに打ち込まねばならないのか良く分かっていなかった上
に、画面タッチで文字や英数字を打ち込む経験が全くなかったからです。サポートによる
と暗号化キーはパソコン用の無線ルーターに張り付けられている筈だからそれをまず見
つける必要があります。老人は隣の部屋の机の下にある無線ルーターの置いてあるところ
に潜り込みました。
小さな字で書かれたネットワークの英数字は15桁で3通りありましたから、その暗号化
キーも13桁で3通りありました。老人は机の下でサポートの声を聴きながら、スマホの
小さな枠に13桁の英数字を打ち込み始めました。そのままフリックしてください。とか、
上にスワイブして離してください。など、右へ、左へ、下へスワイブしながら文字を打ち
込みました。やっと打ち込んでWI‐FIネットワーク枠を見ると、「パスワードを確認し
てもう一度入力してください」と出てつながりません。「3通りあるから他を試しましょう」
とサポートがいうので、老人はまた他の13桁を再び打ち込んだのですが、それもつながり
ません。「もう一度他をやります」老人は再々度の挑戦を始めました。時間も一時間近くたち、
目が疲れ、タッチする指の動きも鈍ってきました。そのときふと思い出したのが、小説
『老人と海』で苦闘する老漁師の姿なのでした。
結局、その日はWI‐FIにつながりませんでした。サポートも長い時間付き合って
くれたのですが、とうとう「近くの楽天モバイルショップで、接続を確認してもらって
下さい」といってサポートを打ち切りました。
翌日、老人は梅田の楽天モバイルショップに行き、なぜつながらないか聞きました。店員
は「インターネットにはつながっていますから、契約の月当たり3・1GBで使えます。
メールのアカウントも設定されています。心配いりません」といいました。それでも老人
はなんとしてもWI‐FI接続はあきらめずに設定しておきたいと思いました。そして
次の日、今度は使っているパソコンから、ネットワークを調べ、その暗号化キーの13桁
を間違わないように、紙に大きく書き出して、じっくりと落ち着いて打ち込んでゆきまし
た。するとなんと、その1回の打ち込みでWI‐FIのスマホへの設定が出来たのでした。
これが出来ると電波が一層自由に使えるので気分が楽になりました。老人は妻のスマホにも
設定し、ユーチューブから妻の好きなフォレスタの合唱している歌をインストールしました。
これで妻のスマホの楽しみが一つできました。妻はまだ慣れないパネルタッチには抵抗が
あるようですが、写真とか、レストラン探しなど、スマホでできる楽しみを少しずつ増や
していけば、そのうち離せなくなってゆくだろうと、老人は考えています。
老人はメモ帳・電卓・QRコード・乗換案内・コンパス・歩数計・GPSで居場所確認
できる「見守り」・オサイフケイタイ・ペイペイ・英語翻訳、などをインストールしました。
そして、これからはこのようなアプリを極力使って生活していこうと心に決めました。
近頃電車の中でスマホを見ている人が増え,時には一つの車両の中で7割以上の人が
スマホを手にしていることもあります。老人は今までみんな何をしているのだろう、
と思っていました。あれはみなゲームをしているのだ、という人がいました。しかし
色々なアプリがあることを知った今は、必ずしもゲームだけではないことが分かって
きました。スマホはすでに使う人の生活のために必要なものになっていたのでした。
そして、老人の頭の中にあつたスマホの印象は大きく変わってきました。スマホは若い
人たちの遊びや、おしゃべりのための器械だけではなく、老人やスマホを持つ老人たち
を見守り、行動を助け支援する本当の生涯の親友だったのです。
(平成31年3月28日)
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宙 平
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