From Chuhei
 
10月25日、私は下記の講座に参加しました。岩谷時子1年目の命日に当たる日でした。
 
 
 
これはお墓ではありません。東京麻生善福寺にある「愛の讚歌」の歌碑です。
 
 
 

 

    愛の讚歌       

 

 

 

 今年の10月23日、西宮市文化振興財団主催の文化サロン講演会があって、私の家の

近くにある夙川公民館に出かけた。「作詞家を生み出す町 西宮」というテーマで、講師

は文化イベントプロデューサーの河内厚郎さんだった。

 

「愛の讚歌」「サントワ・マミ」「王様と私」などの訳詩、岸洋子の「夜明けのうた」加

山雄三の「君といつまでも」ザ・ピーナッツの「夜のバカンス」島倉千代子の「ほんきか

しら」等々の多くの作詞で有名な岩谷時子(1916〜2013)は、浜脇小学校・安井

小学校、西宮高等女学校、神戸女学院大学英文科を通して西宮の夙川の家で育った。そし

て丁度、この講演会の日は1年目の命日に当たっていた。

 

 1923年(昭和12年)国民歌謡として発表された「ラララ 紅い花束 車につんで 

春が来た来た 丘から街へ……」で始まる「春の歌」の作詞家は、喜志邦三(1898〜

1983)であった。西宮市北昭和町に住み、歌の第二節は当時西宮北口にあった市場の

情景を心において作詞したと、現在のアクタ西宮円形広場にある歌碑に書かれている。そ

して西宮市民文化賞も受賞している。

 

 西宮ゆかりの作詞家は他にも小林幸子の「思い出酒」の高田直和(1929〜2010)、

小柳ルミ子の「一雨くれば」森進一の「新宿・みなと町」などを作詞した麻生香太郎(1

952〜 )もいるが、明治を代表する詩人として有名な薄田泣菫(1877〜1945)

は西宮市分銅町に住み、安井小学校・夙川小学校の校歌なども作詞している。

 

 私は岩谷時子が、緊急に出演を迫られた越路吹雪のために「愛の讚歌」の訳詩を一夜で書

き上げたという話を大変興味深く聞いた。

 

 宝塚歌劇団出版部で『歌劇』の編集長だった岩谷時子はその後、宝塚を退団してシャンソ

ン歌手となって歩み始めた越路吹雪のマネージャーをしていた。昭和27年9月、日本劇場

でのシャンソン・ショー「巴里の唄」でトリを歌っていた二葉あき子が急に病気で休演した。

越路吹雪が代役となりエディット・ピアフの「愛の讃歌」を歌うことになったが、越路とし

ては、自分の想いを込めて表現するためにはどうしても日本語で歌いたい。一晩しか時間が

ない中で、黛敏郎からフランス語の原詩の意味の説明を受けた時子は、夜通しかけて訳詩を

完成させた。

 

 そして、出来上がった歌詞を読んだ越路は笑い出した。「なぜ笑うの?」と、時子が聞く

と「恋愛を知らないからこんな詩が書けるのね!」と答えたという話が伝わっている。しか

しながら、この時の歌詞と越路の歌は圧倒的な大ヒット曲となり、彼女を代表する生涯の持

ち歌となった。また、時子にとってはこの訳詩をきっかけとしてその後、訳詩・作詞家とし

て数々のヒット曲を手がけることになった。

 

 あなたの燃える手であたしを抱きしめて

 ただ二人だけで 生きていたいの

 ただ命のある限り あたしは愛したい

 命の限りに あなたを愛するの

 

 頬と頬よせ 燃えるくちづけ

 交わすよろこび あなたと二人で

 暮らせるものなら なんにもいらない

 なんにもいらない あなたと二人

 生きて行くのよ あたしの願いは

 ただそれだけよ あなたと二人

 

 固く抱き合い 燃える指に髪を

 からませながら いとしみながら

 くちづけを交わすの 愛こそ燃える火よ

 あたしを燃やす火 こころとかす恋よ

 

 私は、NHKの紅白歌合戦でも歌われたこの越路の歌を何回かテレビで見て聴いていたが

いつも、《甘い! 全く甘い歌だ。が、さすがに品と格調は上手く保っている》と思ってい

た。そして大変魅惑的で、しかもどこかに「崩れ」を感じさせる越路の歌う姿も、同時に強

く印象に残っていた。

 

 ところが、この歌はエディット・ピアフの作って歌った原詩と少し違う所がある。

 

 ピアフは、相思相愛の仲であったが妻子を持つマルセル・セルダン(プロボクサー)との

恋に終止符を打つためにこの詩を書いたと言われている。原詩には岩谷時子訳にはない「あ

なたが私に望むならば、月を取りにゆく……、大金も盗みにゆく……、祖国を捨て……、友

も捨てましょう」と、いうような激しい背徳の恋に突き進む言葉も含まれている。そして、

この激しさこそ、ピアフの想いを歌うシャンソンの真髄だと、原詩に忠実な永田文夫の訳を

岸洋子や美川憲一がその後、歌うようになった。また、美輪明宏は自ら訳した日本語の

歌詞をセリフとして吟じたあと、フランス語の原詩で「愛の讚歌」Hymne a l'amour)を

歌っていた。

 

 今年の7月18日、NHKの連続テレビ小説『花子とアン』を見ていた私は物語の進行し

ている途中で、この作品のナレーションを担当していた美輪明宏がほかの一切のセリフを止

めて、自分の訳した日本語の「愛の讚歌」を最後まで4分間歌い続けるのを聴いた。

 

 ドラマは主人公花子の友人、「白蓮」の名で知られる歌人蓮子が恋のため駆け落ちしょう

とする場面だった。花子に出産の祝いを届けるという偽りの理由で、出かけようとする蓮子、

そこへ石炭王の夫、加納伝助が現れて自分も行くと言い出す。蓮子の恋人の帝大生宮本龍一

はすでに、喫茶店ドミンゴで待っている。どうするか蓮子? その時電話が入り、伝助は急

に訪問客に会わねばならないことになり「しようがない。花ちゃんとこはお前一人で行って

こい」となる。

「あなた、ありがとうございました」と出かける蓮子、何も知らない伝助は大げさな、と笑

っている。夫や友を裏切り恋人のもとに駆けつける蓮子! ここから美輪明宏の歌う声が響

き続けるのである。

 

高く碧い空が 落ちてきたとしても

海が轟いて 押し寄せたとて

貴方がいる限り 私は恐れない

愛する心に 恐れるものは無い

 

 貴方が言うなら この黒髪を何色にでも

 貴方が言うなら たとえ地の涯て 世界の涯ても 

 貴方が言うなら どんな恥でも 耐え忍びます 

 貴方が言うなら 愛する国も 友も捨てよう

 

 いつか人生が 貴方を奪っても

この愛があれば それでしあわせ

死んでも あの空で 苦しみも何もなく

とこしえに歌おう 愛を讃える歌

 神よ 結び給え 愛し合う我等を

 

 テレビ画面では、来ることのない友を待つ花子、蓮子を待ち続ける龍一、そして、花子へ

の出産祝いを置いたまま出かけている蓮子におかしいと気づく伝助、などが映し出される。

そしてドミンゴで見つめ合う蓮子と龍一、外の路地で熱い抱擁を交わす場面で、テレビ小説

のこの日の回は終わった。私の耳の奥には背徳を物ともしない激しい「愛の讚歌」がその日

一日、鳴り響き続けていた。

 

『花子とアン』の脚本を担当した中園ミホは最初からこの曲を駆け落ちのシーンに使おうと

決めていた、と語り、美輪明宏は「すてきな詩でしょう。私が原詩に忠実に訳して歌ったの

があれ……」と言っている。

 

 それでは、岩谷時子の訳詩はあれだけ人気を博したのに、本当のエディット・ピアフの日

本語訳とは言えないのか?

 

 私はあの訳詩はピアフの詩から、愛を交わす喜びを汲みあげて、岩谷時子と、越路吹雪と

で高らかに歌い上げた独自の日本版「愛の讚歌」だ、と思っている。

 

 1994年(平成6年)7月8日、日本人初の向井千秋女性宇宙飛行士は、宇宙船内にこ

の岩谷・越路のCDを持ち込んでいた。

 

 宇宙空間に浮かぶ青い惑星地球は、「愛」によって生まれ、育まれ、種をつなぐ生命体に

満ち溢れている。この愛の光に包まれた球体の地球が暗黒の背景の前に輝きを放つのを見る

時、響き渡る曲そして歌は、やはり、岩谷・越路のあの「愛の讃歌」がふさわしいと、私も

思うのである。

                    

                     (平成26年11月10日)

 

 

 

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 宙 平

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