「戦艦大和」紀行(その一)

From Chuhei
呉の大和ミュージアム展示の戦艦大和です。細部にわたり正確に作られています。
左は尾道日立造船内で、『男たちの大和』撮影のため原寸大に作られた戦艦大和のロケセットです。
左は呉の海上自衛隊で、見学のため私の乗り込んだ護衛艦「あさぎり」の本物の76ミリ速射砲です。
  「戦艦大和」紀行(その一)
             
 
 昭和二十年四月七日、戦艦大和は沖縄特攻に向かう途中、米航空機
部隊の攻撃により東シナ海に沈没した。乗組員三千三百三十三名、戦
死者三千余命である。
 
 私は昭和二十七年の頃、最後の大和に少尉として乗艦していた吉田
満の『戦艦大和ノ最後』を読んで、三千人の特攻の事実を知った。私
が印象に残っていたのは、帰還することのない特別攻撃であることを
知らされた大和艦内で、特攻死の意義づけをめぐり論争する若い将校
らに臼淵大尉が諭すくだりである。
 
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじすぎた」
「敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか」
「俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさ
に本望じゃないか」
 
 今年(平成十七年)の四月、私は呉に呉市海事歴史科学館(大和ミ
ュージアム)がオープンして、十分の一大の大和が展示され、その他
の資料と共に多くの人を集めているという話を聞いた。また尾道では、
原寸大の大和の映画ロケセットを公開しているらしい。私は戦艦大和
の面影を求める旅に出かけることにした。
 
 九月十一日、新神戸から呉までの切符を買って、福山で乗り換え、
尾道で途中下車した。ロケセットへは、船で向島まで渡らなければな
らない。渡船を動かしているおじいさんに
「大和のロケセットに行く」といったら、渡船代金が含まれて安くな
る、ロケセット入場券を五〇〇円で売ってくれた。六分で向島に着き、
日立造船所の正門を入った。ここから構内のシャトルバスに乗り、ロ
ケセットのあるドックまで行くのである。
 
 バスを待っていると、続々と人が集まってきた。若い女性が多いの
には驚いた。皆、浮き浮きした雰囲気で「どちらから来られましたか」
と声をかけ合う。「姫路から」「三次から」、私が「西宮から」と答
えると、家族ずれのおじさんが私に「お見かけしたところのご年配か
らして、大和に乗っておられた方ですか?」と聞いた。「とんでもあ
りません。私は大和が沈んだ時は中学二年生、十四才でした。海軍の
志願兵は、十六才以上でしたからね。しかし戦争末期には、数え年十
四才で「特別年少兵」として募集するようになり、大和にも当時十五
才の方が乗っておられたようですね」
 
 九時になって、最初のバスが来た。セットの前で降りると、すぐに、
菊の紋章のついた、艦首の下に案内された。やがて艦体を回り込んで
側から甲板に上がった。
 
 このロケセットは、映画『男たちの大和』を撮影するために、六億
円をかけて、大和の全長二三六bのうち、艦首から一九〇bの部分が
原寸大に作られた。この映画は女流作家辺見じゅんの同名の原作をベ
ースにしている。第三回新田次郎文学賞を受けた作品である。私も読
んだが、これは実によく調べられたノンフィクションであった。三年
余の取材を通じて大和の生還者から一一七名の消息を確認し、証言を
引き、文献に当たり、男たちの世界をありのままに描いている。大和
の沈んだ東シナ海の海底にまで潜水艇で行ったというから、徹底して
いる。そして、この映画は今年十二月十七日に封切られる。
 
 ロケセットとはいえ、さすがに広い前部甲板や、三連装の機銃座と
か、二連装高角砲座などのそばにいると、私が本当の大和に乗艦して
いるような臨場感があった。艦体越しに眺めた尾道の町と山の緑は新
鮮で、大和が入港しているようにも感じた。
 
 私はすぐに尾道の駅に戻り、三原から呉線を回って呉駅に十一時五
〇分に着いた。大和ミュージアムに行く前に、大和が建造されたとい
うドックを眺め、海上自衛隊の基地から本当の自衛艦に乗ってみたか
った。日曜日の十三時(他十時、十四時、十五時もある)に無料で乗
艦の公開をしているからだ。案内所で教えられたとおり、三番乗場か
ら市バスに乗り「潜水隊前」へ向かった。途中、戦艦大和が建造され
たドック跡を見下ろす高台を通った。今は石川島播磨重工のドックと
なっているが、当時は呉海軍工廠造船部で、昭和十二年十一月に起工
して、進水したのは昭和十五年の八月である。徹底した機密保持のた
め、工廠を見下ろす道路沿いには、当時は目隠しの塀が作られていた
といわれている。私がバスから眺めたドックの壁には大きく「大和の
ふるさと」と言う文字が読み取れた。
 
 潜水隊前でバスを降りると、海岸沿いの遊歩道があり、そこから右
の桟橋には、四隻の海上自衛隊の潜水艦が間近に眺められた。少し戻
って、海上自衛隊の正門を入り、受付で「艦艇公開の見学に来ました」
というと、奥の桟橋まで行くようにいわれた。横の岸壁には輸送艦
「しもきた」が接岸していた。長さ一六〇b、高さ三五b以上あるだ
ろう、近くで見るとかなり迫力がある。ほかに護衛艦が8隻ほど停泊
していた。奥の桟橋の前では、案内の自衛官が、机の前に立っていて、
住所氏名を記入するようにいわれた。
 
 四〇人位の見学者が集まって、時間がくると桟橋を進んで、汎用護
衛艦「あさぎり」に案内された。白い制服の若い自衛官が数人並んで
出迎えてくれた。女性自衛官もいた。「あさぎり」は全長一三七b・
全巾一四・六b。排水量三五〇〇d で、今は練習艦として使われて
いる。艦首に七六_速射砲があり上甲板に二〇_機関砲がある。あと
は対潜水艦用のアスロックランチャー。魚雷発射管、そして、四連装
のハープーンミサイルと八連装のスパロウミサイルを搭載している。
 
 案内の若い自衛官は「練習用のミサイル弾の値段が高くて、なかな
か練習できません」といっていた。値段は直接聞けなかったが、普通
のミサイルで、一発四千万円から六千万円、対空邀撃ミサイルで、一
発一億二千万円、長射程距離ミサイルになると、一発六〇億円といわ
れる。
 
 ふと戦艦大和の建造費のことに思いを馳せた。大和は当時の金で、一
億一千七五九万円で建造された。、現在に換算して二六〇〇億円といわ
れる。当時の国家予算の三パーセントに当たった。しかし、現在でも
「こんごう」級イージス艦で、千二百億円位の建造費がかかるとされて
いる。日本の防衛予算は年間五兆円、今でも、世界のなかで有数の軍事
費支出大国である。
 
 見学を終り、すぐにバスで「総監部前」まで行き、旧呉鎮守府、今は
海上自衛隊総監部の庁舎建物の公開参加を申し込む。「ヒトサンヨンゴ、
から受付を始めます」自衛官は海軍式に説明する。十四時からは四名の
見学者がいたが、ここは煉瓦作りの古い建物(明治二二年呉鎮守府開庁)
を外部から眺めるに留まった。ここから旧海軍練兵場跡の広場の横を北
へ向かうと、旧鎮守府長官官舎のある入船山記念館があった。木造平屋
建ではあるが、洋館と和館がつながっていて、洋館部の内部の壁には
「金唐紙」が使われていた。今は国の重要文化財に指定されている。
 
 さぁ! これから、いよいよ呉の桟橋ターミナルの横にある大和ミュ
ージアムへと向かう。私は旧呉海兵団の大きな敷地(現海上自衛隊教育隊)
の横を通りながら、あの『戦艦大和の最後』の特攻に際して語られた。
「敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるのか」という
言葉を思い出していた。
 
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 宙    平
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