「戦艦大和」紀行(その二)

From Chuhei
左の写真は呉市海事歴史博物館の大和ひろばです。
左の写真は、江田島の旧海軍兵学校(現海上自衛隊)の教育参考館の正面階段で、東郷元帥の遺髪を納めてある3階の室に通じるものです。厳粛な階段です。

     「戦艦大和」紀行(その二) 



     呉市海事歴史博物館(大和ミュージアム)は今年(平成十七年)
    四月二三日にオープンした。館内には十分の一の大和を展示する
    大和ひろばを中心に、呉の歴史、造船技術、大和の資料などのコ
    ーナーがあり、また零式艦上戦闘機、人間魚雷回天、特殊潜航艇
    海龍の本物が展示されている場所もあった。大和ひろばは地階か
    ら三階までの吹抜けで、大和を色々な角度から眺められるように
    なっていた。
     
     私は三階までのスロープをゆっくり歩きながら、スクリュウの
    見える船底から、本当の大和では三千人が整列したという広い甲
    板、そしてなかにエレベーターが設置されていたという塔型の艦
    橋までじっくりと眺めていった。なんといっても大和の一番の特
    色は、世界最大で最強烈といわれた鉄甲弾を発射する四六センチ
    主砲を三連装で九門搭載していたことである。この砲の最大の射
    程は四二〇〇〇bといわれ、艦隊同志の水上決戦では、他国に比
    べ絶対優位を保っていた。
     
     この搭載のために、排水量は七二八〇九トン、全長二六三b、
    最大幅三八・九bが必要となった。最初から大きな艦を目指した
    わけではなかった。そのため最大速力は二七ノットにとどまった。
    その他に副砲十五・三a三連装六門、高角砲十二・七a二連装二
    四門、機銃二五_三連装一三二門、十三_連装一六門があった。

    《正に浮かべる城だ! 戦争の生んだ芸術作品ともいえる。しか
    し、最後は三千人を特攻死に巻き込んだ。無残極まりない!》私
    は感慨深く、展示されている大和を眺め続けた。
     
     不沈艦ともいわれたのは、艦の主要部はすべて厚い甲鉄で囲ま
    れていた。そして、被弾により生じた破孔からの浸水を、最小区
    画に食いとめ、最新鋭の技術を駆使して、注排水を行い、浮力と
    復元力を保つ機能があった。

    《こんな戦艦を四隻も作ろうとしていたんだなぁ! 当時の国家
    財力の多くをここに注ぎ込んだのだ。当時日本は必死で軍縮条約
    による遅れを取戻そうとしていたのに違いない》
     
     大和は一号艦と呼ばれていた。二号艦は同型の戦艦武蔵である。
    昭和十七年八月、三菱長崎造船所で竣工した。昭和十九年十月レ
    イテ海戦で魚雷と爆弾攻撃を受け沈没した。乗組員二三九九人中
    生存者四九〇人のみであった。三号艦は途中で戦艦から航空母艦
    に変更された信濃である。昭和十九年十一月横須賀のドックで竣
    工。僅か十日後に呉への回送途中敵潜水艦の魚雷四発を受けて沈
    没。七九一名が戦死した。そして、四号艦は呉造船所で計画され
    ていたが、中止となった。
     
     私は三階のテラスから大和を見下ろして、この戦艦の最後の情
    景を思った。
     
     大和は米軍機三八六機の波状攻撃を受け、確認されたものだけ
    でも、魚雷一〇、爆弾六、至近弾無数をあびた。砲塔は吹き飛び、
    美しかった甲板は血と硝煙でどす黒く茶褐色に変わった。「焦げ
    たる爛肉に、点々軍装の破布らしきカーキ色のもの付着す 脂臭
    紛々」吉田満もその情景を書いている。
     
     多くの兵員を艦内に閉じ込めたまま、「総員最上甲板!」の号
    令が発せられる。これは総員退去と同じ意味である。大和は二度
    の大爆発を起こして遂に沈む。

     昭和二十年四月七日、十四時二三分である。そして重油の海に、
    放り出された兵員達が漂流していた。「細雨降りしきる洋上に、
    重油、寒冷、機銃掃射、出血、鱶とたたかう」吉田の記述である。
     
     同行した駆逐艦八隻のうち、残った四隻がロープを艦側より垂
    らして救助しようとしたが、吉田によると「三本垂れ下がりたる
    ロープ何れも泥油にちぬられて光る。群がる手もひとしく油にま
    みれて光る」そして「一本の手首、辛うじて1人の体重を支うそ
    の足首に武者ぶりつく者」「一本の手首は二人の体重を支うるに
    堪えず」「纏いつく腕をなぐり返さざるべからず」とある。また、
    辺見じゅんは大和生存者の八杉康夫上等水兵の取材から次の様に
    書いている。


    「『私は軍国少年だった』と八杉は言っている。国に対する忠誠
    心に何の疑いも持たず、特攻で死ぬことも怖れなかった。不沈艦
    大和は、彼の矜持であった」そして八杉の言葉で、「戦争がどん
    なにすさまじいか、酷いかを私が見たのは、あの沈没した日だっ
    た。血みどろの甲板や、吹きちぎれ、誰のものか形さえとどめな
    い肉片、重油を死ぬかと思うほど飲んだ海の中での漂流、我勝ち
    に駆逐艦のロープを奪い合う人々、私は、醜いと思った。このと
    き、帝国海軍軍人を自覚していた人が果たしてどれだけいただろ
    うか。死ぬとは思わなかった。殺されると思った」と、語られて
    いる。
     
     大きな窓からの、夕方の光がこのミュージアムの大和を照らし
    ていた。次々とを訪れる人々は引きもきらず、大和を取り囲んで
    いた。
     
     私は、「銘酒大和」や「サブレー大和」、「大和羊羹」「海軍
    コーヒ」「海軍カレー」などを売っている売店をひやかした後、
    ミュージアムを出て、呉駅近くのホテルに入った。
     
     翌日、呉の桟橋から江田島の小用港に連絡船で渡った。さらに
    バスに乗って術科学校前で下車した。旧海軍兵学校、今の海上自
    衛隊第一術科学校・幹部候補生学校を見学するためである。私は
    九月十二日の十時三〇分の組に参加した。(平日は一日三回、十
    時三〇分・十三時・十五時)三〇人ぐらいの見学者がいた。自衛
    官のOBという人が元気よく説明を始めた。最初は、海上自衛隊
    の学校のことだったが、構内の建物の案内に入ると、ほとんど旧
    海軍兵学校の話しとなった。見学者の中にも兵学校に在学したと
    いう人や、祖父が兵学校を卒業したという若者もいた。兵学校時
    代からの主な建物は、御影石で作られた大講堂、赤レンガの生徒
    館、旧海軍関係の資料を展示してある教育参考館などであった。
     
     特に教育参考館は写真撮影禁止で帽子をぬいで入るよう説明が
    あった。私が館内に入ったその時、はっ! と昔の記憶がよみが
    えった。戦時中に見た、昭和十八年の松竹映画『海軍』の場面だ
    った。それは、正面入口から真っ直ぐに三階へ通じるこの教育資
    料館の絨毯を敷きつめた階段を、主人公谷真人が静かに上って行
    く姿であった。白鞘の短剣をつけた第一種軍装に身を正し、三階
    正面の東郷元帥室の前までいくと、直立不動のまま尊崇の念を込
    めた姿で頭を少し下げるのである。谷真人は真珠湾を攻撃した特
    殊潜航艇乗組の横山少佐がモデルであり、映画の原作者は獅子文
    六(岩田豊雄)であった。
     
     私も同じようにして階段を登り、東郷元帥の遺髪を納めた室の
    前で思った《日本海海戦の東郷元帥の事跡が、海軍にとって如何
    に大きなことだったか計り知れない。それが戦艦主義を生み、や
    がては、戦艦大和の特攻へとつながって行ったのではないだろう
    か?》
     
     対米英の緒戦、真珠湾攻撃やマレー沖海戦で日本海軍自身が、
    艦隊攻撃について航空機の優位性は充分に証明していた筈であっ
    た。だが、兵学校卒業生の成績の優秀者はまず戦艦勤務になった
    と言われている。

    《艦隊中心主義の流れを変える。この難しさは、今でもダムや高
    速道路中心主義を変える難しさに通じるなぁ》

     また昭和十五年に締結した、日・独・伊三国同盟に大反対して、
    大戦への流れを食い止めようとしたのは、兵学校二九期卒の米内
    光政、三二期卒の山本五十六、四二期卒の井上成美の三人トリオ
    だった。《十五年戦争の進行は、彼等をしても抑えられなかった
    のだなぁ。そういえば、あの『戦艦大和の最後』に書かれていた、
    臼淵大尉は兵学校七一期卒で二十一才。優秀士官だったらしい》

     吉田満によると、大尉は日頃から、「世界の三馬鹿、無用の長
    物の見本―萬里の長城、ピラミット、大和」といっていたそうで
    ある。あの「敗れて目覚める」という言葉の中に万感の思いがあ
    ったに違いない。彼は大和の副砲射撃指揮所の指揮官として、大
    和最後の日、爆弾で砲塔ごと吹き飛ばされ戦死している。
     
     教育参考館では、他に兵学校出身者の特攻隊員の遺書などもあ
    った。しかし大和についてのものはなかった。海軍では大和の沖
    縄突入は、特攻でありながら、正式に特攻と認めていないのであ
    る。だから亡くなった方の二階級特進もなかった。ただ館の前に、
    大和の主砲砲弾、高さ一、九五b・直径四六a・重量一、五dが
    飾られていた。
     
     帰りのバスの中で、一人で来ていた五〇才位の見学者の女の人
    と話しをした。前日の旧呉鎮守府の見学でも見かけた人だった。
    お父さんが海軍兵学校七六期の修了者で、その後呉の海上自衛隊
    に勤めた。したがって、彼女は呉で生まれ育った。今は川崎に住
    んでいるが、昔を懐かしんでやってきたということだった。私は
    江田島、小用港から船で広島宇品港へ、彼女は呉に戻って大和ミ
    ュージアムヘ、と手を振って別れた。

     
☆★☆★☆★☆★
  宙    平
    cosmicθharmony
    ☆★☆★☆★☆★