映画ハワイ・マレー沖海戦は円谷英二の特撮撮影技術がずば抜けていて有名になりました。
  
 
   
  
 

15年戦争と私(下) 

 

 

昭和16年12月8日、日本国天皇はアメリカ・イギリスに対する開戦の詔勅を発した。

3日後にドイツとイタリアも同時にアメリカに宣戦布告した。そして日本は連合国と言われ

ていた反枢軸の国々も敵に回すことになった。

 

 満州事変以来日本が戦ってきたのは、中華民国政府軍と八路軍といわれた中国共産党軍だ

った。が、アジア大陸で燃えくすぶっていた戦火は遂に、太平洋全域に大きく炎をふきあげ、

世界大戦に突入したのである。

 

 国民学校4年生であった私は、緒戦の戦果の放送には、確かに興奮した。報道ではハワイ

の真珠湾攻撃により戦艦5隻撃沈、3隻を大破し、アメリカの大平洋艦隊に壊滅的な打撃を

与えたとあった。マレー沖では、イギリスの不沈戦艦と言われたプリンス・オブ・ウェルス

そして巡洋戦艦レパルスを撃沈し、更にマレー半島に上陸開始し、香港を占領した。こんな

歌を友達と歌っていた

 

 起つやたちまち撃滅の

かちどき挙がる太平洋

東亜侵略百年の

野望をここに覆す

いま決戦の時来る

 

昭和17年も当初は進撃が続いた。次の歌の通りであった。私は国民学校5年生になった。

 

春真先に 大マニラ

陥して 更にボルネオも

疾風の如き 勢ひに

なびくジャングル 椰子の浜

 

六十余日の 追撃に

白梅かをる 紀元節

シンガポールを 撃ち陥し

大建設の 日のみ旗

 

南十字の 空高く

桜とまがふ 落下傘

若木の花の 精鋭が

手柄はかをれ パレンバン

 

 この年の4月18日にアメリカのドリットル隊による日本本土初空襲があった。

 

 6月のミッドウエー大海戦は日本海軍の空母4、重巡洋艦1、飛行機322、兵員3500名

を失う大敗となった。そして、これを契機にアメリカ軍の反攻が始まったのである。

 

 朝の朝礼で、学校の医務室勤務の看護婦さんが、従軍されることになり挨拶されたことがあつ

た。凛とした姿で紺色の従軍看護婦の制服に身を固め、格好良いと私は思った。傷口にヨードチ

ンキを塗ってもらい、飛び上がるほど痛かったことを思い出していた。

 

 同学年の中にも、戦死した父親を持つ生徒が増えてきた。当時、靖国神社の大祭の時には母親

とともに、「靖国の遺児」として、招待されていた。

 

 この年の12月、開戦1周年を記念して東宝映画「ハワイ・マレー沖海戦」が封切られた。こ

の映画の円谷英二の特撮セットと航空機撮影特殊技術は有名になり、映画館は連日満員、私も友

人と入館を並んでこの映画を見た。

 

 昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島から「転進した」と大本営発表があった。転進とは

この島につぎ込んだ陸軍1万三千人海軍三千五百人を失い、残りの将兵一万人を敗退させたとい

うことであった。その年の5月29日、アリユーシャン列島アッツ島守備隊2千500人が全滅

した。大きく「全員玉砕した」と報道された。「転進」は出来なかった。10月には学生・生徒

の徴兵猶予特権が停止され、「学徒出陣」となった。

 

  花もつぼみの若桜

  五尺の生命ひっさげて

  国の大事に殉ずるは

  我ら学徒の面目ぞ

  ああ紅の血は燃ゆる

 

 学校でも軍隊に入営している卒業生の講演会があった。「ごんたくれ」で知られていた石屋の息

子が立派な軍服をきて堂々と話をしたのには驚いた。交換船でアメリカの日本人収容所から帰国し

た人の講演も講堂であった。

 

 この年の11月東京で大東亜会議が開かれ、日華同盟を結ぶ南京政府代表の汪兆銘。満州国総理、

張景惠。フィリッピン大統領ラウレル。ビルマ首相、パーモウ。タイのワン・ワイタヤコン殿下。

自由インド仮政府首相、チャンドラ・ポー  ズ等が集まった。戦争の完遂をテーマとしたが、こ

の時、既に戦局は日本軍が劣勢になっていた時期であり、内容の伴わないものとなった。

 

 昭和19年の4月、私は家の近くの甲子園にあった甲陽中学に入学した。中等学校には当時、

軍現役将校配属令により、配属将校が教練を必修科目として担当していたのは分かっていたが、さ

らに戦局の厳しさと、前年に出された中等学校令により学校は完全に軍隊化していたのは想像以上

だった。校門を入るときは「歩調とれ!」、「かしら右!」と衛兵に挨拶し、天皇のご真影のある

方向に対しては「かしら中!」と礼を捧げなければならない。朝礼では「我らは陛下の赤子なり、

日夜聖旨を奉読し大御心に添い奉らん」と唱えた。「上官の命令は全て天皇陛下の命令と心得よ。

天皇陛下万歳と叫んで死ぬのだ!」と、信条を叩き込まれた。また殴って鍛えるのが当たり前であ

り、配属将校は勿論、教師からも上級生からもよく殴られた。他校の友人たちの話を聞くと、殴る

教育はどこの中等学校でも同じだったようである。

 

 この年の6月、サイパン島守備隊2万7000人が全滅、一般住民約1万人が戦死した。この島

の陥落によりアメリカ空軍の日本内地空襲が容易になった。8月、国民学校の生徒の集団疎開が始

まった。沖縄から疎開のための学童、教員、一般人が乗船していた対馬丸がアメリカの潜水艦の魚

雷攻撃により沈没、1484人が溺死した。

 

 10月、神風特別攻撃隊が出動した。この攻撃の後も、生還を期さない特別攻撃は終戦まで続く

のである。

 

  無念の歯がみこらえつゝ

  待ちに待ちたる決戦ぞ

  今こそ敵を 屠らんと

  奮い起ちたる 若桜

  

この一戦に 勝たざれば

  祖国のゆくて いかならん

  撃滅せよの 命うけし

  神風特別 攻撃隊

  

 

 甲子園の甲陽中学には突然、陸軍暁部隊が駐留してきた。この部隊は陸軍で船舶・舟艇を担当し

ていたが、敵の舟艇の動きを水中音波でとらえる訓練などをやっていたようである。井口基成・牧

嗣人という有名な音楽家もこの部隊の将官待遇で音感教育に参加していた。校門には陸軍の衛兵が

立ち、柔剣道場は兵舎になり校庭には炊飯場が建って、私はすでに軍隊に入ったように感じていた。

 

 昭和20年に入るとアメリカ軍はフィリッピンに上陸。そして、2月に始まった硫黄島の激戦で、

日本軍守備隊20129名が玉砕、この時はアメリカ軍の戦死・戦傷者は28686名と守備隊を上

回った。3月になると東京・大阪に大空襲が始まった。そして、4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に

上陸を開始するのである。この頃から南の戦線では日本軍の組織的戦闘が出来なくなり、夜になると

小人数で仕掛ける「切込隊」攻撃が行われるようになった。

 

  命一つと賭け替えに

百人千人斬ってやる

日本刀と銃剣の切れ味知れと

 敵陣深く 今宵また往く

 斬り込み隊

 

 

 4月に私は中学2年生になり、学徒勤労動員令により、軍需工場で働くことになった。どこの工

場へ行くかはクラスによって違った。他のクラスは軍需工場へ行ったが、私のクラスは阪神電車の

尼崎車両工場で働くことになった。「甲陽学徒隊」という腕章を巻いて工場に通った。

 

 食料状況はさらに悪くなった。米の配給は7分づきから、小石の混じった玄米になり、それを家

で1升瓶に入れ棒でついて精米するようなことをしていたが、それの配給も殆どなくなり、海宝麺

という味のない海草や、満州大豆のときもあった。勤労動員先での昼食も、この大豆だけの弁当が

多くなった。

 

 6月には、国民義勇隊法が制定され、全国民の15歳以上、60歳以下の男子、17歳以上、4

0歳以上の女子を国民義勇戦闘隊に編入することを決めた。本土決戦、一億総玉砕体制の決定であ

った。 

 

 鉄の暴風といわれていた沖縄戦は6月23日、日本軍9万人一般人9万2千人が戦死、アメリカ

軍も1万1千人が戦死して終わった。

 

 東京・大阪の大空襲以後、日本列島は正に空襲列島となった。動員先の尼崎では1トン爆弾が真

上に落下してくる響きにおびえた。武庫川の河川敷では艦載機の機銃掃射を受けた。大都市への度

重なる空襲の次には、180の中小都市が油脂焼夷弾爆撃の指定都市になり、6月下旬以降は、ほ

とんど毎夜のように焼夷弾が降り注いでいた。私の住んでいた西宮には、8月5日夜から6日未明

に130機による住宅地帯への本格的な火の雨の洗礼を受けた。予めビラが撒かれ爆撃予定都市が

指定され、その通りに攻撃された。西宮も指定されていた。私も家族も燃え上がる街中を逃げた。

家は全焼し、焼け野原には黒焦げ死体が転がっていた。

 

 8月6日、広島に新型爆弾が投下されたという報道があった。原子爆弾だった。8月8日、ソ連

が宣戦布告して、満州・朝鮮・カラフトで一斉進撃を開始した。8月9日、長崎に原子爆弾が投下

された。

 

 8月15日、親類の家に身を寄せた私は、父と家の焼け跡に来ていた。近くにいた人が、「日本

が負けたらしい」と伝えた。父は「天皇陛下の重要放送が正午にあつたからなぁ!」といった。私

は《空襲は本当にもうないのか?》と思った。新聞は「戦争終結の大詔渙発。四国宣言(ポッダム

宣言)受諾」と一斉に報じた。日本軍は無条件降伏したのである。

 

 日本内地への攻撃はこの時で終わったが、カラフト、千島、その他外地の一部での戦いはまだ続

いていた。15年戦争の終としては、9月2日、降伏文書調印の日を考えても良いのではないか、

と私は思っている。

 

 15年戦争の結果は日本国の内外に対して、計り知れない犠牲を伴う惨禍となった。単に死傷者の

数字や言葉だけでは語り尽くせない。しかし、私は長く続いたこの戦争により、かろうじて得たもの

として、次の二つがあると考えている。

 

 一つは日本が降伏した時点では「もう戦争をやってはならない」と殆どの日本人が思ってほぼ意

思統一ができたことである。これが、憲法の「戦争の放棄」に繋がったことは間違いないと思う。

 

 二つ目は「我國の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある」とする統率権下で、既に組織が硬

直化していた帝国陸海軍を解散することが出来たことである。急峻な山地や補給を考慮せず、多くの

兵士を死に追い込んだインパール作戦や、空の護衛なく沈められるために、3000人の兵員を乗せ

て出撃させた戦艦大和の事を思う度、私はその想いを強くする。

 

                          (平成26年7月21日)

 

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宙 平

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