From Chuhei
 
 
私が生まれた昭和6年、満州事変が起こり,満州国が建国されました。
その当時の日本(赤で示す)と、満州(緑で示す)と満州の国旗です。
このことが、日本がやがて第2次世界大戦に突入してゆく遠因となっています。
 
 
満州国では王道楽土・五族協和(下の絵では左から漢・満州・日本・朝鮮
・蒙古の各民族)が建国理念とされました。
 
 
やがて日・独・伊三国防共協定が結ばれました。
 
 
支那事変画報と国債のポスターです。
 
 
 
15年戦争と私(上)
 
 
 戦争の名称は、その時代を映し色々と違って呼ばれることがある。例えば「支那事変」を、
今は「日中戦争」と呼ばなくてはならなくなった。「大東亜戦争」は今でも使われているが、
「太平洋戦争」または「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ人も多い。そして、もう一つの呼び方
として、「15年戦争」というのがある。これは昭和6年の満州事変に始まり、昭和20年
の敗戦に至るまで日本があしかけ15年にわたりおこなった一連の戦争の総称として、鶴見
俊輔という思想家が提唱し多くの人により使われるようになった呼称である。

 

 私は昭和6年の生まれである。「15年戦争」の経過と共に、幼年時代、少年時代を過ご

してきた。その中で私の記憶に残る「戦争」の思い出を掘り出してみた。

 

 日本が権益を持っていた南満州鉄道の線路の爆破をきっかけとして、満州事変が起こった。

現地を警備していた関東軍は、満州の各地を占領して、やがて日本の働きにより、満州国を

設立する。

 

 私が幼いとき覚えているのは、黄色を基調とし左上に4色を配した満州国の国旗である。

黄色は満州の国土と民族、赤は日本民族、青は朝鮮民族、白は漢民族、黒は蒙古民族として

五族協和を謳っていると教えられた。

 

 ところが当時、国際連盟の加盟国の多くは、満洲地域の中華民国の主権に賛同してこの満

州国を認めなかった。特にアメリカの反対は強かった。昭和8年日本は国際連盟から脱退す

るのである。この同じ年に、ドイツはヒトラー率いるナチス党が政権を握り独裁体制を築き、

軍備拡張を宣言して国際連盟を脱退する。国際的に孤立した日本とドイツは急速に接近し、

昭和11年日独で防共協定を結ぶ、そしてムッソリーニ率いるイタリアも参加し、日独伊3

国防共協定が翌年に結ばれる。満州事変のあとも、日本の軍隊は中華民国に駐屯し、「爆

弾3勇士」で知られる第一次上海事変、熱河進攻作戦と軍事衝突があった。そして、昭和12

年7月7日、盧溝橋での発砲事件により、「支那事変」が始まるのである。

 

 私はこの時、西宮市立二葉幼稚園の園児であった。幼稚園の学芸会でも、このような情勢

を背景にした劇が、園児たちにより演じられていたのである。6歳の初舞台であった。

 

 舞台では大勢の男女の園児たちが、花園の中、手をつないで歌を歌っていた。

 

 日本サクラ、満州はランよ

 支那はボタンの花が咲く

 花の中から、朝日が昇る

 アジア良いとこ、楽しいところ

 

 これは五族協和、王道楽土の花園を表していたのだろう。そこにその花園を荒らす者たち

が現れる。舞台にある花を倒し、つないでいる手を引き離す。抗日、反満州国勢力とその勢

力を支援する国を表現したのであろう。

 

 その時、軽快な音楽が高鳴り、日の丸の旗のプラカードを高く掲げた園児が登場する「日

本の兵隊さん! 強い兵隊さん……」合唱隊が歌声を高める。次いでドイツのハーケンクロ

イツ(右まんじ)を掲げた園児が続く「ドイツの兵隊さん! 勇ましい兵隊さん……」次は

イタリアである。緑、白、赤を縦にあしらって中央に模様の入った国旗のプラカードを持っ

て園児の私がここで登場した。「イタリアの兵隊さん! 明るい兵隊さん……」響き渡る歌

声に乗って、日本、ドイツ、イタリアの3人は舞台から花園を荒らす者たちを追い払う。そ

して舞台に3人並んで敬礼をした。ドイツは右手を挙げてハイルヒットラーと叫んだ。

 

 日・独・伊が正式に軍事同盟を結ぶのは、この時から3年後である。しかし幼稚園でこの

ような劇が演じられていたことは、すでに第2次世界大戦へ日本が巻き込まれてゆく流れが、

形づけられようとしていたのであろう。

 

 事変は天津、そして上海に点火し、日本政府の「戦線は拡大せず」の方針にもかかわらず

戦火は広がり、日本軍はこの年の12月13日、中華民国国民党政府の首都南京を占領する。

そして重慶に首都を移転した国民党政府の蒋介石政権はアメリカに援助を求め、アメリカは

義勇兵として戦闘機部隊などを送るのである。

 

 昭和13年4月には、日本では国民総動員法が施行され、兵力、労働力、物質、金融、す

べてを戦争貫徹のために統制し、総動員されることになった。この年には徐州や武漢三鎮で

の激しい戦いがあった。この年、小学校1年生の私はこんな歌を歌っていた。

 

肩をならべて兄さんと

 今日も学校へ行けるのは

 兵隊さんのおかげです

 お国のために

 お国のために戦った

 兵隊さんのおかげです

 兵隊さんよ ありがとう

 兵隊さんよ ありがとう 

 

 昭和14年5月12日、ソ連軍との間にノモンハン事件が起こる。9月16日に早くも和

平交渉し停戦しているが、ソ連軍の圧倒的な戦車・装甲車群の前に甚大な死傷者を出し、日

本軍が惨敗したのが実態であった。

 

 私は小学校2年生、8歳であったが出征兵士を見送ることが多くなった。私の家の近くに

は、福應神社があり、今津の地区の召集兵はここにお参りして、駅へ向かう。神社の境内に

幟旗を持った人や、軍服を着た在郷軍人が集まり始めると、私もここに駆けつけた。ある時、

私が召集兵に近づくとカレーの匂いがした。《この人は好きなカレーライスをたらふく食べ

てきたのだな》とそのとき思った。拝殿であいさつがあり、万歳をしたあとみんなで阪神久

寿川駅まで送ってゆくのである。時には歌を歌って歩いて行った。

 

わが大君に召されたる

 生命光栄ある朝ぼらけ

 讃えて送る一億の

 歓呼は高く天を衝く

 いざ征けつわもの日本男児

 

 そして、戦死した兵士の遺骨が白い布に包まれて帰ってくることがあった。同級生の父親の

遺骨の時は、クラスの全員が彼の家の近くの道に並んだ。先頭の楽隊が葬送の曲を流し、遺骨

を抱いた同級生のあとには親類縁者、在郷軍人が続き、大日本国防婦人会のたすきをかけた人

たちや、近所の人が総出で迎えた。私は次のような歌を歌っていた。

 

 父よあなたは強かった

 兜も焦がす炎熱を

 敵の屍とともに寝て

 泥水すすり草を噛み

 荒れた山河を幾千里

 よくこそ撃って下さった

 

 しかし、このような丁重な葬送は、やがてその後戦死者が増加してゆくにつれ行われなくなっ

ていったように思う。

 

 昭和15年9月、小学3年生の私は母方の伯父に連れられて西宮北口のスタジアムで当時とし

ては珍しいアメリカンフットボールの試合を観ていた。その時「日本軍は本日仏印に進駐いたし

ました」と場内放送があったのをよく覚えている。その後仏印進駐記念として、ゴムボールが小

学校で全員に配られた。平和進駐ではあったが翌年も南部の仏印に進駐は行われた。アメリカは

日本に対し経済制裁をかけ続けていたが、このことは、アメリカの強硬姿勢を一層招く結果とな

った。

 

 すでにこの時、国内では戦時体制は強化され、男はすべてカーキ色、5つボタンの国民服を着

ないと非国民あつかいされかねなくなっていた。学生の長髪、女子のパーマネント、華美な服装

化粧はすべて禁止。そして「ぜいたくは敵だ!」という看板が町のあちこちに立った。

 

 この年、英語で表現することは出来なくなり、学校でも「ドレミファソラシド」は「ハニホヘ

トイロハ」に代わり、野球でも「セーフ」は「ヨシ」、「アウト」は「ダメ」というようになっ

た。芸能人の洋風の名前は和風に改めさせられた。そして、砂糖やマッチ、味噌、醤油、木炭な

どの生活必需品が切符制度となった。隣組制度が強化され、日常品の配給が隣組単位となり、隣

組に入らなければ生きられなくなった。

  

 とんとんとんからりと隣組

 格子を開ければ顔なじみ

 廻して頂戴回覧板

 知らせられたり知らせたり

 

 とんとんとんからりと隣組

 あれこれ面倒味噌醤油

 ご飯の炊き方垣根越し

 教えられたり教えたり

 

 すでにこの時ヨーロッパではドイツがポーランドに侵攻して、これに対してイギリス・フラン

スが宣戦、第2次世界大戦が勃発していた。そして、この年ドイツ軍はパリを占領したのである。

私は子供ながら、さらに大きな戦争にドイツの同盟国の日本が突き進んで行くような予感を感じ

ていた。私に限らず誰もが感じていたらしく、じつに重苦しい雰囲気が日本全体を覆って漂って

いた。

 

 昭和16年4月1日、小学校は一斉に国民学校とその名を変えた。私は4年生、10歳の時で

ある。

 

 この年、お米が遂に配給制となった。6大都市では大人一人当たり一日2合5勺の計算で米穀

通帳が各家庭に配布された。やがて、これが2合3勺、そして2合1勺と減っていったのである。

その後、殆どの食糧、酒、衣料などは全国で配給制となった。私は育ち盛りだったので、食事の

時は「もっと食べたい!」といって母親を困らせた。今思うとこの頃から、父も母も食糧調達に

は、並々ならない苦労をしてくれていたのだと思う。

 

 日本とアメリカの国交調整交渉は4月頃から続けられていたが、以降毎月、そして殆ど連日の

激しい交渉の末、11月ハルノートと呼ばれる最終案が提示された。日本側はこれを最後通牒と

判定した。支那・仏印から日本軍が完全撤退すること、重慶政府以外の権力を認めないこと、日

独伊3国同盟の解消、を求めるのがその骨子であった。

 

 満州事変に始まった戦争の火は、最初は小さな紛争であり、「限定的」「不拡大」と言われな

がらも反対に、燃え広がり続け、多くの犠牲者を出し、そのためにも今更撤退できなくなってい

た。そしてとうとうここまで来てしまった。戦争は始まると止まるところなく拡大してゆく、そ

して終わるのは大変難しいものである。

 

 12月8日、午前7時、私はラジオから次の放送を聞いた。

 

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表、帝

国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 

                        (平成26年6月24日)

 

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宙 平 

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