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原節子さん、幻のエッセー

             

 

 

平成28年12月6日の朝日新聞に、「原節子さん素顔のエッセー」という見出しで次

の記事があった。

「昨年95歳で亡くなった原節子さんが終戦翌年、雑誌に寄せたエッセーが確認された。

満員電車の光景などを通じて、新生日本のあるべき姿を提言する内容。原さんのエッセー

は珍しく、42歳で引退後、表舞台から姿を消した神秘的な大女優の素顔が浮かぶ貴重な

資料だ」 そしそのエッセーは。12月発売の文芸誌「新潮」1月号(新潮社)に掲載さ

れる、とあった。

 

 原節子さんの映画出演は、彼女が14歳の昭和10年からだが、昭和6年生まれの私

が原さん出演の映画を見たのは先の大戦中、昭和17年の「ハワイマレー沖海戦」がは

じめである。真珠湾を攻撃する海軍予科練習生出身の隊員の姉役である。更に昭和18

年の「決戦の大空へ」も土浦海軍予科練習生たちの外出時に集まる倶楽部となっている

家の娘役で弟を励まして志願させる。同じ年に見た「望楼の決死隊」では朝鮮の国境を

守備する警察隊の主席警部補の妻である。氷の鴨緑江を渡って攻めてくる匪賊(共産

抗日ゲリラ)に銃を執って戦う。戦争が終わった後の昭和21年「わが青春に悔いなし」

は大きく変わって、京都帝大の滝川事件(時の政府が滝川法学部教授を赤化反政府教授

として強制罷免、それに他の教授・生徒が反対し抵抗したが弾圧された)を背景に教授

の娘を演じた。結婚相手として同棲していた教授の教え子だった反戦運動の活動家はス

パイ容疑で捕らわれ獄中で死亡、その実家の農家に嫁として入るが「スパイの家」とし

て、作物を荒らされるなど周りからの迫害を受けるなか、毅然として生き抜いてゆく。

そして、昭和24年の「青い山脈」は服部良一作曲の主題歌でも有名だが、青春映画ら

しい明るい女性英語教師を演じている。この映画はその後何回も作られているが、私の

見たのは最初のこの年のものである。同じ年の「晩春」は小津安二郎監督の作品。父と

娘の静かな生活のなかで、自分の結婚の話に父を気遣う娘を演じている。

 

 原節子さんの出演作品は100以上あるなかで、私の見たのはこの6作品であるが、

それでも、戦中から戦後にかけて、その時代の雰囲気を充分に表現しているそれらの

映画の中の彼女の演技を思い出すと、私の人生の経験とも重なり、懐かしさと親しみ

をいつも感じさせる大女優であった。彼女は独身を通したことから、「永遠の処女」

ともいわれ、昭和37年「忠臣蔵」の大石の妻役の出演を最後にその後は一切のマス

コミの取材を断り、外部の人と会うことを避けていたので、神秘に包まれた伝説の美

人女優ともなっていた。

 

 そんな原さんのエッセーをぜひ読みたいと私は早速近くの本屋に行ってみたが、こ

の文芸誌はなかなか見つからなかった。やっと西宮北口阪急ガーデンズのブックファ

ーストで購入した。

 

 このエッセーは立教大学の石川巧教授が九州の火野葦平資料館館長の坂口博氏から

見せてもらっていた雑誌「想苑」のページを手繰る中で偶然見つけられたものであっ

た。そしてこの雑誌は昭和21年に福岡県久留米市の金文堂出版部が発行したもので

あり、武者小路実篤、羽仁節子、吉田絃次郎、村岡花子など当時の有名人への依頼原

稿のほか、火野葦平、吉岡卓二、原田種夫、東潤などの「九州文学同人」が名を連ね

ている。そのなかで原節子さんのエッセーは「手帖抄」という題名がつけられ、5つ

の話が原稿用紙5枚分程で書かれていた。その最初の話。

 

「省線電車。ものすごい混雑。赤ん坊の泣き声と怒声罵声。ぼうとなるほどの人いき

れ」そんな中で、突然生暖かい液体が膝から足首にかけて流れるのを感じた。押され

て来た婦人の背の赤ん坊のーである。赤ん坊は激しく泣き出す。「やかましいぞッ!」

「泣かぬ子と替えてこいッ!」「うるさいッ、降りろッ!」「と、突然『黙れ!うる

さければ貴様が降りろ。母親の身にもなってみよ。心で泣いてるぞ!』軍国調に云え

ば、その声は三軍を叱咤する烈々たる気迫に満ちてゐた。一瞬、車内はシーンと静ま

ってしまった」次の話。

 

「二等車の中で。その列車が大阪に近づいてくると、一人の青年が座席のビロードの

布をナイフで切り取って、自分の靴を磨き始めた。並んでかけてゐる若い女の人は、

ただほほえんでゐるばかり」次の話。

 

「省電の中で。若い娘さんが座席にかけてゐた」その前に乳児を抱いて立っていた若

い母親に「どうぞ、抱っこさせてください」と手を差し伸べた。すると隣りにかけて

いた紳士が「抱いてあげる親切があったら、席を譲り給え、君は若いンじゃないか」

と怒鳴った。「娘さんは真っ赤になった。『では、お言葉に甘えまして。すみません

わねえ』若い母親はさも嬉しそうに乳児を娘さんに与えた。娘さんはホッとしたよう

に若い母親を見上げてほほえんだ」「紳士は『善』を知っていると云えよう。けれど

も『善』を行へないたぐいであろう」そして、次の話。

 

「先ごろある会社で「ミス・ニッポン」を募集した。容貌容姿の美が条件の全部。

勿論商業政策でしかない」本当は人間として申し分のない人を選ぶことは、金儲け

にならないので一度も企画されたことがない。しかし、朝日新聞の健康児の表彰は

幾分この企画に似通うものだと思う。「容貌容姿の美しさを主条件とするNO・1

を選ぶといふことは、文化の水準を高めるいとなみとは云へない」そして最後にま

とめて……

 

「敗戦前の日本人は、日本人自身をおめでたいほど高く評価していた。日本人は世

界で最も優秀な民族であると考へ、自惚れていた。ところが敗戦は、その日本人を

ひどく自卑的にし、今ではあべこべに日本人は全くなってゐないという声が、はん

らんしてゐる」「欠陥の多い日本そして日本人ではあるが、自卑してはいけないと

思ふ、日本人はあくまで日本人である」「めいめいがなんとかして一日も早くお互

いに愉しく生きてゆけるように仕向けようではないかといふ心になって、手近な自

分の周囲からその実現につとめなくてはいけないと思ふ」「それが大きく結集して

はじめて日本全体が住みよく明るい国として育って行くのだと思ふ」「敗戦後わた

しはいつもそんなことを考えずにゐられない険しい世相の中に生きながら、日本人

の誰もが自分とこの祖国を正当に再認識してほしいと念ふのである。日本再建はそ

こからだとわたしは云ひたい」

 

 私はこのエッセーを読んだとき。敗戦によって、日本人の生活も心も荒れすさん

でいたあの時代、有名な大女優が身動きのできない程の満員電車に乗り、赤ん坊に

おしっこをかけられるような生活体験をしていたことに驚いた。しかし、このエッ

セーと同じ「新潮」1月号に載った石井妙子さん(ノンフィクション作家で「原節

子の真実」の著者)の記事「躍動する原節子の魂」によると、彼女はトップ女優で

ありながら、絶対に自動車は使わず、電車と徒歩で撮影所通いをすることを自分に

課した人だったとある。電車の中ではいつも文庫本を読みふけり続けた。また付き

人をもたぬ女優であった。通常、女優は付き人に荷物を持たせ、お茶を入れさせ、

身の周りの世話をさせる。また当時でも運転手付きの自家用車で、あるいは進駐軍

の将校に送り迎えさせる女優たちもいたが、原さんはそんな映画界の風潮を嫌悪し、

電車の行き帰りも常に一人、なるべく市井の人と同じような生活をしたい、しなけ

ればいけないと考えていたようである。

 

 私はそのような彼女の日常を知って、このエッセーを考えると、大女優でありな

がら自分一人で体験したことを、率直にそのままに、そして彼女自身の思いを一人

の日本人として書き綴った当時の彼女自身の素顔そのものを表現した文章だと思う。

色々な役柄を演じられた原さんの本当の姿と考えを知る上では大変貴重なエッセー

だとも思った。

 

 敗戦後のあの時期、私も大阪で夕方明かりのつかない満員の市電に乗っていたとき、

2・3人の若い女性のグループが大きな笑い声を上げた。「何がおかしいのか、静

かにしろ!」男の声が怒鳴りつけた。すると「そうだ黙れ!」と数人の怒声が続いた。

笑い声は止まった。皆な日本が敗けてすべて周りが深刻な状況の中で、笑い声を聞く

と腹がたつのだろうと、私は思った。また、復員した傷痍軍人は電車の中でもお金を

集めていた。確かにこのような電車の中の出来事からでもあの当時の荒れすさんだ世

相の一端を感じ取ることができた。

 

 原さんのエッセーはこのような出来事から、日本人そのものに想いを寄せる。戦時

中優秀な民族だと自負していた日本人。そして今、なってないという声がはんらんし

ている日本人。だが自卑してはいけない。めいめいが愉しく生きてゆけるよう自分の

周囲から実現を心がけよう、と呼びかけている。

 

 彼女がこのエッセーで「日本人」を意識して書いているのは、彼女が16歳の時出

演して昭和12年に封切りされた日独合作映画「新しい土」の背景もあるのではない

かと私には思われる。当時のドイツはヒットラーの率いるナチスドイツである。彼ら

はゲルマン民族こそ最も優秀なアーリア人種で世界を支配する民族であるという、

考えにたってユダヤ民族などを迫害するのである。そのドイツが日本とは防共協定を

結び、やがては同盟国になる。ドイツ側でも日本は同盟国にふさわしい優秀な民族で

あることを、この国策映画で示す必要があった。そして、アーノルドファンク映画監

督が日本にやってきて、まだあまり知られていなかった原節子さんを主演女優に選ぶ

のである。当時出演を推薦された有名女優は多かったのだが、ファンク監督は日本民

族を代表する女優として、原さん以外にないと譲らなかった。この映画はドイツでも

高い評判となり、ヒットラー総統もこの映画を見た。原さんもこの時ドイツに渡り、

大歓迎を受け、ゲッベルス宣伝相に面会している。

 

 この映画は今、YouTubeなどで見ても安芸の宮島が突然家の庭に現れたり、

阪神電車のネオンの文字が東京の夜の街を彩ったり、おかしなところが一杯あるが、

風景や山の撮影は流石に美しい。ドイツ帰りの男主人公に婚約を破棄され、火山に

飛び込み自殺をしかけた彼女がその男主人公に助けられ「新しい土」(満州国)で、

生きる話である。が、原さんはこの映画撮影を通じ、当時の日独両国に強い民族意

識があったことはよくわかっていたことと思う。

 

 もう一つはこのエッセーが書かれるに至った動機として考えられるのは、原さん

の義兄(姉の夫)、熊谷久虎映画監督の存在である。もともと、地味な学校教員志望

だった原節子さんを映画界に引き入れたのは熊谷夫婦である。昭和14年熊谷監督の

映画「上海陸戦隊」や昭和16年「指導物語」には原さんも出演している。このエッ

セーを見つけ出した石川巧教授の「日本人を叱る原節子」によると、この熊谷監督は

国粋的な思想のもとにユダヤ人謀略説を唱える思想団体スメラ学塾の芸術部門で活動

した人物である。そして終戦の前後にわたり、「九州独立運動」の構想の実現に奔走

していたとされる。この独立運動に関わっていた火野葦平らの「九州文学」のメンバ

ーに原さんを紹介してエッセーを雑誌「想苑」に掲載するように依頼できるのは熊谷

監督以外に考えられない、とある。

 

 原さんとしては、このような義兄のことを充分に知っていた上で、精一杯率直に自

分の考えをエッセーに表したものと私は思う。

 

 永遠の処女ともいわれ、神秘的な大女優とされていた原さんだが、石井妙子さんの

「原節子の真実」によると、彼女は普通に恋愛も多くしていた。その中で本気に結婚

を考えていたのは、東大卒の脚本家清島長利さんとの恋愛であった。だが、原さんと

の恋愛がもとで清島さんは映画会社を追われ、生涯、原さんに配慮してその恋愛を否

定し続けた。

 

 彼女は芸能人・大女優であることに未練はなく、女優の原節子を捨てて、本名の普

通の人、合田昌江に戻ろうとしていたのだと石井さんはいっている。そして、彼女は

常に膨大な読書をし、学問と思想、人間の人格を重んじる生活態度をとっていた。エ

ッセーの容貌容姿の美しさだけで、「ミス日本」を選ぶことは、文化水準を高めるい

となみとは云へない、という言葉にもそれは感じられる。  

 

このエッセー「手帖抄」は「合田昌江の真実」を表した、たった一つの作品に違いない。

        

                           (平成29年1月15日)

 

 

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宙 平

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