西宮にあった越水城跡の想像図のイラストです。
地域情報誌『宮っ子』286号に伊藤太一さんが
書かれたものです。
大社小学校敷地南東角にある越水城趾の碑です。
下記は瓦林家の居城があったといわれる日野神社の参道です。
小清水の湧く城
西宮にも昔、立派な城がありました。今は、桜谷町の大社小学校南東角に「越水城趾」
の碑がありますが、これは以前この下の旧西国街道沿いにあったものです。
旧西国街道のこの付近は小清水と呼ばれ、きれいな水が湧く泉がありました。今でも
東ン所、西ン所といわれる清水の湧く場所が残っています。このことから「こしみず
(越水)城」と呼ばれるようになりました。
この越水城は、永世一三年(一五一九年)この地の豪族、瓦林正頼によって築城され
ました。西宮の街を見下ろす尾根の先端の小高い丘の上にあり、その天守閣は信長が、
安土城築城の折に参考にしたと言われるほど、壮麗な近世的城郭の原型を留めていまし
た。しかしながら、築城より四九年後の永禄一一年(一五六八年)にその信長によって
開城され、やがて取り壊されました。
その間、この城の城主は瓦林正頼の後に幾人か変わっていますが、最初築城した正頼
はこの城を中心として、今の西宮に城下町を作ろうとした様子がうかがえます。――そ
のような彼は当時、西宮の殿様として、西宮の町の人々とどんな関わりがあったのだろ
うか?――こんなことに興味をもった私は、彼と架空のインタービュウを試みることに
しました。
この様な場合は城の趾をインタービュウの場所に選べれば一番良いのですが、今は殆
どが住宅街とマンションになってしまっています。そこで私は瓦林家ゆかりの地である
西宮の日野神社境内に行ってみることにしました。梅田へ向かう阪急電車が神戸線西宮
北口を発車して、武庫川へさしかかろうとする時、北側の車窓から、神社の鳥居と深い
森が見えるあの場所です。
この日野神社は、南北朝時代(一三六一年から一三六二年)に土豪の瓦林弾正左衛門
が当時ここにあった瓦林城内に、城の鎮守と一族の守護神として建てられたものと言わ
れています。今、ここには鬱蒼とした広葉樹が生い茂って、神社の社叢となっています。
そして、この森は兵庫県指定の天然記念物です。
私が訪れたのは七月でしたが、森に囲まれた参道に入ると、ひんやりとした風が身体
を包みました。そこに「瓦林城址」と書かれた比較的新しい碑が立っていました。さら
に進み拝殿に詣でた私はその裏へ回り込みました。阪神大震災で被害を受けた奥の本殿
は、まだ再建されておらず、大きな石が本殿跡に立っていました。高い木の森の中にあ
るのであたりは薄暗く感じられました。私はその大きな石の前に立ち呼吸を整えました。
周りには人の気配は無く、風の渡る葉音が、かすかに耳に響いていました。
大げさな話しですが、私はあのハムレットが一三世紀のデンマークのエルシノア城の
防壁の上の高台で亡父の亡霊と会い、過去の事実を確かめる場面を思い出していました。
あの時は甲冑に身を固めた亡霊が現れるのですが……。
ところがこの時、私の前にイメージとして現れた西宮の殿様、瓦林正頼は昔の装束こ
そしていますが、鎧や兜など着けていない若々しい青年の武将でした。私はおもわず声
をかけました。
「越水城の殿様、瓦林正頼さまですね。私はそのお城のことや、その時西宮の人々はど
うしていたかを確かめたくて、貴方を呼び出したのです。貴方はこの場所、この瓦林城
にも居られたことがあるのですか」
正頼の朗々とした声が響きました。
「私も瓦林家の一族としてここで居住していた時期があった。瓦林家の先祖は元、三河
の在で足利尊氏の家来だったが、その足利家・細川家などと西へ移り、そして、瓦林家
はこの武庫川右岸一帯を治め、この瓦林城を本拠としたのだ。私の代となるとこの地の
開墾・冶水・興産がすすみ、おりしも栄えつつあった西宮神社周辺を中心にした町方の
人々の守護もするようになった。
一方かつての同輩であった細川家は、私の時代には管領家として天下の幕政を完全に
掌握していて、全盛時代だったのだ。そこに細川高国と細川澄元の戦いが起こった。こ
れは単に細川家の家督争いと言うよりも、このときは天下の覇権をかけた戦いだったの
だ。そして、二人とも細川家の養子だった。
この戦いでは、瓦林家は京都にいた高国側についた、そして高国も西の守りとして、
我々に期待して、なにかと支援してくれるようになった。と、言うのは、この時相手の
澄元は細川家の本拠地阿波で勢力を固め京都に攻め上ろうとしていたからだ」
「そこで、お城を作ることになったのですね」
「そうだ。永正八年(一五一一年)私は芦屋に高尾城を築いた。ここは正に天下の険
で山城としては最高の場所ではあったが、少し瓦林家の管轄地より西へ入りすぎたので、
灘五郷のなかに、この城に反感を持つ勢力がありそれが、澄元側の播磨赤松家の軍勢と
結び攻撃してきた。城の南、芦屋河原などで激しく戦ったが、大軍に囲まれ、補給が続
かなくて一旦城を明け渡して撤退したこともあった。結局、高国の軍勢の助けにより取
り戻した」
「そして、永正一三年(一五一六年)越水城を築かれたのですね。なぜあの場所を選ば
れたのですか」
「単に西方から攻め込んでくる軍勢を阻止するだけの城ではなく、管轄する地元を守護
し、地元から支えられる城を作らねばならないと思った。地元を見通せる適地としては、
昔、観応二年(一三五一年)の戦で足利尊氏が陣取ったと言われる小清水の小高い丘が
良いと思い決めたのだ。それにここには、きれいな清水の湧く泉があった」
「後の世の記録には、築城の様子を『毎日五拾人、百人シテ堀ヲホリ壁ヲヌリ土居ヲツ
キ矢倉ヲ上ケレハ鍛冶・番匠・壁塗・大鋸引、更ニヒマコソナカリケリ』と書かれてい
ますよ」
「有難いことに、この時は、地元の百姓衆はじめ、町方の人達も本当によく協力してく
れた。そこで、城周辺にも外城や屋敷を作り一族郎党を居住させ、町を守らせることに
した。そして、越水城から真っ直ぐ南下して浜辺に至る八丁畷筋(札場筋)を作った。こ
れは城からの大手筋として、海上運送と直結して各地との交流を深めれば、町を一段と
繁栄させることになると信じていたからだ」
「確かに、城が出来てしばらくの間は、貴方にとっても、地元の人達にとっても平和な
ひと時がありましたね。貴方は公家の三条西実隆に歌道を学んだり、連歌師宗祇を城に
招いたりしていました。しかしそれもつかの間、永正一六年(一五一九年)澄元の大軍
が兵庫に上陸し、進撃を続けて、越水城の北にある鐘の尾山に陣を構え、一万余騎で城
を取り囲んできましたね」
「そうだ、あの年の一一月二一日から翌年の二月二日まで、毎日、毎日激しい戦いが続
いた。取り囲んだ攻め手は、三好・海部・久米・川村・香川・安富など名だたる阿波と
讃岐の領主達の軍勢だった。それが城の周りの広田・中村・西宮(神社付近)・蓮華畑
(森具付近)などに陣取って攻め込んできたのだ。わが方には、弓の使い手も多く、特
に一宮三郎という弓の名手は、近づく敵を確実に片端から打ち倒していた。寄せ手の連
中もこれには恐れおののいていた。
一二月二日には、応援のため京を出発した高国が池田城に入ったという報があった。
そしてやがて、高国側の軍勢が東側から寄せ手を取り囲むように陣を敷いているのがわ
かった。一月には高国側の伊丹衆が、中村口に攻め込み中村の陣を奪い返した。城の中
からも大手門を開き雀部兄弟が打って出て、敵の武将を倒した。しかし兄弟も傷ついて
死んだ。このように激しい戦いがさらに続いたが、この頃から兵糧が尽き始め、負傷者
も増え、勢いが落ちてきた。私は安倍の蔵人と相談して、二月三日に再起を期して一族
郎党と共に城を開け、囲みを切り抜けて尼崎へ脱出することにしたのだ」
「城が落ちると、澄元側は一気に京へ向かって攻め立てましたね。尖兵の三好方は京へ
戻った高国をさらに近江まで追い詰め、澄元は伊丹城に入りました。貴方は尼崎から堺
まで逃れ、そこで退勢を挽回しようとされていました。しかし高国は近江の佐々木方の
支援を得て再び、大軍と共に京に戻ったのですね。そして、三好方や澄元軍を追い落と
すと、高国は京で力を持つようになり、なんと、貴方に「与敵通達之儀」(澄元に通じ
ている)という理由で切腹を命じるのですね。貴方が堺から船を仕立て、伊丹城から神
崎川を下って海に退こうとしている澄元を攻撃し、澄元は逃がしたものの、多くの敵を
討ち取って、それを高国に報告したばかりですのに……。これはどういうことだったの
でしょうか?」
「これこそ、戦国のならい、澄元側の謀略なのだ。澄元は堺で力をつけつつある私を大
変恐れた。そこで私が澄元と通じている証拠を無理に作り上げ、誰からか解らぬように
手を回し、私を消そうとしたのだ。私は別に切腹を恐れはしなかった。しかし、やがて
また時が来れば西宮とその周辺を守り、越水城を中心に地元の人々と共に平和な城下町
を作ろうと思っていただけに、残念なことだった」
「この切腹の話しを聞いた当時の洛中の人達はこんな落首を作り広めました。
洛中に今年は種々の大ばやし 河原(瓦)ばやしぞ興はさめけり
当時の京の人達にとっても、この切腹は納得できないものがあったのですね」
「町方の人達が、本当のことを感じていてくれていたことは、有難いと思う」
「この切腹時の永正一七年(一五二〇年)一〇月以降、越水城は、短期間のうちに目まぐ
るしく城主が入れ替わります。澄元側の三好氏が入城した後、天文二年(一五三三年)瓦
林の一族と一向一揆の衆が奪回しますが、一年後には三好軍が取り戻し、三好長慶が居城
とします。しかし再び瓦林一族の瓦林三河守が取りかえします。その後また、三好側の篠
原長房が攻めて城主となります。この時、宣教師ルイス・フロイスがこの城にやって来た
とされています。京都で布教出来るよう将軍にとりなしを頼みに来たのですが、この時の
記録がポルトガルやローマ法王庁に残り、越水城や西宮という地名が当時のヨーロッパに
伝えられています。さらに信長の奉じる足利将軍義明の命を受けた和田惟政が入城します。
そしてやがて、信長の近畿平定によって、一国に一城のみ残し他の城は取り壊す方針と
なり、越水城はじめ、瓦林城も廃城となってしまいました」
「私の切腹の後も、瓦林の一族は何度も何度も越水城を取り戻そうとしてくれてはいたの
だな、果たせなかったのは残念なことだ」
「貴方の築城のときには、大変協力した西宮の町方の人達も、城主の入れ替えが激しく、
その都度の攻防戦に飽き飽きするようになります。町方の人々にとって、町を守ってくれ
る城は有難いのですが、それが在るために戦乱にまき込まれるような城は迷惑となってき
ました。そしてやがて、信長の天下を予想して、金銭(戦費の援助)を信長の軍門に届け
るようになります。信長も西宮の町を庇護しました。西宮はやがて、戎社門前町・港町・
商売の町として発展していきます」
「その話しに、時代の大きな流れを感じる。しかしあの美しい清水の湧く城を造り、そこ
で、城主となった時は、私にとって最上の日々であった。もって瞑すべきだと思っている」
いっしか、瓦林正頼のイメージは消え去って、私は誰もいない日野神社の奥の本殿あと
に佇んでいました。折からの夕方の日の光が、森の木々の葉を通して、私の回り一杯にこ
ぼれてきらきらと輝いていました。
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<○> ─−‐- - - - - - - -
∨ 宙 平Cosmic
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