From Chuhei
 
昔、球審は亀の甲羅のようなアウトサイドプロテクターを前に構えて使っていました。
今は服の下に着込むインサイドプロテクターを使っています。福井さんは正確な判定
のために、アウトサイドプロテクターにこだわり、使い続けられたプロ野球審判員でした。
   
  
   審判のマスク越しから見た野球人生
 
    ―野球審判員 福井宏さんー
 
 
 
 西宮市東高校の中にある「なるお文化ホール」の木曜講座で、元プロ野球審判員、福井宏さん
の「マスク越しから見た野球人生」という講座が、9月29日(木)にあり、私も参加した。
 
 講師の福井さんは、出来るだけ聴衆に質問を投げかけ、聴衆からもそれに答えてまた反対に質
問するという、大変活気のある講座で会場も盛り上がった。

 

 そこで私は、インタービユウ形式のエッセーにして、聴いたことをまとめてみることにした。

 

「木曜講座で頂いた冊子のご経歴によると、福井さんは1938年4月のお生まれで、196

2年、セ・リーグ審判部に入局され、プロ野球審判員としてご活躍されました。その間、セ・

リーグ審判副部長もされ、通算試合出場数は3360試合、日本シリーズは10回、オールス

ター5回、審判員を務められました。1998年に退職されましたが、その後四国アイランド

リーグ、関西独立リーグなどでも審判を務められました。現在でも全神戸の軟式野球16リー

グの審判部長をなさっておられますほか、兵庫還暦野球連盟、西宮スーパースターチームで野

球を楽しんでおられます。本当にお元気ですね」

 

「いやどうも、ところで、こちらから質問しますが、貴方は今回の木曜講座の以前に、私の名

前を知っていましたか。正直に言ってください」

 

「いや、全然知りませんでした。済みません」

 

「ハッハッハッア、謝ってもらうことでは全くなく、私は、知っておられない方が嬉しいので

す。審判は野球の試合が正しく円滑に進むように陰で支える者なのです。正しく円滑に進んで

いると審判に注目されることはありません。判定に問題の多い審判は試合の中で注目され要注

意審判として有名になることがあります。良い審判は有名にならない方が良いのです」

 

「恐れ入ります。福井さんは正しい審判するためとしてセ・リーグでは最後まで球審の時、ア

ウトサイドプロテクターを使っておられたそうですが、私のような古い時代の野球フアンには、

球審が盾のように前に構えるあのプロテクター姿は実に懐かしく思います。しかしあの亀の甲

羅のようなプロテクターは、今の時流に合わない古いものなのですか」

 

「私はプロ野球審判で球審を700試合以上勤めましたが、最後まであの亀の甲羅のようなア

ウトサイドプロテクターにこだわり使い続けました。1980年代半ば日本球界でも服の下に

着込むインサイドプロテクターを推奨する動きが始まりました。ごてごてした防具を持たない

方が動きやすく、スマートに見えるという理由でした。が、内外角のストライクゾーンをかす

めてくる球を指一本分幅のレベルで見分けるには、五角形の本塁のとがった所の真後ろに体で

立つのが一番いいのです。球が当たった時の痛さはインサイドプロテクターの方がはるかに大

きい。だから一球ごとに立ち位置を変えて、無意識に球を避けながら判定するので、どうして

もアウトサイドプロテクターにくらべて、狂いが出やすいのです。私はこのことを主張し続け、

アウトサイドプロテクターで通し続けていたのですが、定年まであと4年という時に、リーグ

事務局から台湾への技術指導出向を打診されました。これは私が頑固に古い型のプロテクター

にこだわった結果で引退勧告だと、受け止めたのですが、結局、承諾しました。台湾では審判

としても285試合に出場しました。いま、インサイドプロテクターになってしまったのも時

代の時流なのでしょうね」

 

「今、指一本分幅のレベルで見分けるとおっしやいましたが、ストライクか、ボールかを実に

微妙な差で見分けて、決める。これは大変な集中力と熟練の経験が必要なのではないですか」

 

「一つの試合で、両チームの投手が投げる球数は、あわせておよそ300球です。ここから明

らかにストライク又はボールと判定できるものを除くと、ベース四隅をかすめてくるぎりぎり

の球数は二割相当の60球と言われています。そしてそのまた二割の12球ほどが、審判の力

量が問われる実に微妙なコースを通過する球です。その12球、プロ野球ベテラン審判で、間

違うのはどのくらいと思いますか」

 

「さあ、人にもよると思いますが、半分の6球ぐらいですか」

 

「脂の乗った全盛期の審判なら3球は間違えません。もし5球間違えたとしたら、その審判は

下手だといわれても仕方がないのです。間違いといっても、お客さんは勿論、投手や打者にも

判定がつきにくい、指一本分、そのまた半分の幅に投じられるコースの球です。それをきっち

り判断出来るようになるには最低10年はかかります。

 その上ジャッジした後、即座に間違ったかどうか自覚できるには……、そうね、もう4、5

年は必要でしょう。一人前にジャッジが出来るようになるにはだから14,5年はかかること

になるかな。それがプロ野球の審判の技術です。よく高速の球が止まって見えると言われます

が、私の経験でもそれは本当です」

 

「そんな厳しいプロ野球の審判にどうしてなられたのですか」

 

「私は佐賀県伊万里商業高校の高校球児で、甲子園出場を目指していました。卒業後、親和銀

行に入行しそこでも銀行野球部で活動していましたが、甲子園で野球にかかわるには審判員な

ら出来ると思うようになりました。銀行に退職届を出し、セ・リーグ審判部の入局試験を受け

ました。受験者32名中2名しか採用されません。しかし1962年度は特別に3名が採用と

なり、その後厳しい研修を受けました。今、セ・パ両リーグ統一審判制となっていますが、当

時は一年間の交流制度があり、パ・リーグの審判もやりました。今、日本のプロ野球審判は7

0名、記録員20名、指導員7名がいます」

 

「球審をなさっていて、今まで実に多くのピッチャーの投げる球を判定してこられたと思いま

すが、その中で印象に残る選手はありますか」

 

「多くのピッチャーそれぞれ特徴があり難しいですが、挙げるとなるとやっぱり江夏豊、それ

も阪神時代の全盛期の江夏ですね。彼のコントロールの良さというのは、ストライクでもボー

ルでも、たまたまそのコースに来るのではなく、ちゃんと本人の意思で投げ分けていた、とい

うことなのです。幅、高低ともギリギリに投げられるピッチャーを『ストライクゾーンの四隅

を使える』というのですが、それを全球続けられる制球力は誰にでもありません。数少ないそ

れができた選手でしたね。

 1973年8月30日、だったかな、私は江夏がノーヒットノーランを達成したゲームの球

審を務めています。相手は中日でした。中日の松本幸之も良い球を投げて、ピッチャー二人共

交代はしないで、0対0のまま11回まで来たのです。そしてそこでピッチャーの江夏がなん

とホームランを打って試合が終わるのです。江夏のホームランはインコースやや高めのまっす

ぐスライダー気味の球、これは覚えています。それをライトのラッキーゾーンに打ち込んだ……。

あんな選手はまあ、江夏以降もう現れんのと違いますか」

 

「それではバッターで印象に残る選手の話を聞かせて下さい」

 

「よくバッターがボールを見逃したあと、審判に声をかけていることがあるでしょう。あれは、

球種なり、コースを確認しているのです。「今のはカーブかスライダーか」とか「今のはどれ

くらい離れていたのか」とかね。それが一番的確で上手く聞いてくるのが、落合博満でした。

彼ぐらいのレベルになると「ボールどれくらいか」と聞いてきます。ボールの幅半分の差でス

トライクなのかどうなのか、それとも4分の1の幅の差なのか、それくらい落合のレベルでは

ストライクゾーンはきっちり出来上がっているのです。だからボールだと悠々と見逃し、スト

ライクだと思えば悠々とヒットにできる。その典型、最もそのことに優れていると私が感じて

いたのが落合でしたね」

 

「今まで、された判定でトラブルことが、あったでしょうね」

 

「1991年6月29日、ナゴヤ球場中日対巨人戦、中日が2点を先に取り、迎えた2回表、

巨人はランナーを一塁に置いて村田真一が、ライトポール際に大きな飛球を放ちました。その

時、一塁塁審を努めていた私は大きく手を回したのです。ホームランです。ところがライトを

守っていたライアルは血相を変えてファウルだとアッピールし、星野仙一監督も勢いよく飛び

出してきて抗議を始ました。審判4人で協議を始め、私はボールの最後の一瞬は打球が見えな

かったことを正直に言って、主審に確認してもらい訂正しました。言い訳はしませんでした。

当然巨人の藤田元監督が抗議に出てきました。11分の中断がありましたが、ファウルの判

定は覆らず、村田は打ち直して三振に倒れ、この試合は6対0で中日が勝ちました。これは私

の苦い思い出ですが、こんなミスは一年に一度するかしないかです。また球審の時のボール、

ストライクの判定では一試合一球程度の誤審しかしない自負がありました。そして常に正しい

判定を目指して、勇気と決断を持って進んでいました。時には『耐え難きを耐え忍び難きを忍

ぶ』ことが必要なこともあります。塁審をしている時に怒声とともに、観客席から、ばらばら

と十円玉を投げつけられたこともありました。それを拾ったら『それをどうするんや』とまた

声がかかりましたよ」

 

「そんな大変だけれども大切な審判のお仕事を長年続けてこられて、今のお気持ちはどうですか」

 

「私は九州の高校球児の時から常に、関門海峡を越えて甲子園に来て野球にかかわりたいとい

う思いがありました。そして審判になった時も、その時までの審判員はプロ野球経験者だけを

採用していましたから、プロ野球あがりに負けるものかと頑張ったのです。また甲子園球場は

私には世界一に思える素晴らしい球場でした。どんなことがあっても甲子園球場にかかわれる

仕事をしたい自分の選んだ覚悟の道だ、引き下がってなるものかと突き進んできました。その

ようなことで、プロ野球審判員の仕事を全うすることが出来たと思っています。

今は憧れていた甲子園球場の近くに家を持ち家族とともに暮らしていますが、地元の兵庫県・

西宮市などの野球チームで活動を続けられることは、有難いし、楽しいことです」

 

「お話をお聞きして、一貫して公正で冷静な目と心を保つべく、精進を積み重ねてこられまし

た福井さんの野球審判員人生に感銘を受けました。私は一つの修行の道、審判道とでも言うも

のがあるように、改めて認識しました。これから野球を見るときは選手だけでなく、審判の方

々にも注目したいと思います。また、良き判定をするには一層の体力と気力が必要なのですね、

それもよく分かりました」

 

「その通りです。私はマスターズ陸上を70歳で始め、100メートル14秒27を記録、7

1歳で14秒90を記録しています。昨年は77歳で100メートル15秒79でした」

 

「ご無理なさらないように……。今日は大いに元気を頂きました。有難うございました」

        

                             {2016年10月25日}

 

 

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宙 平

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