神戸元町の大丸百貨店の店内放送が「今日は阪神淡路大震災の日から23年目に あたります。大変恐れ入りますが、正午の時報とともに一分間の黙祷を致しますので、 よろしくご協力をお願いいたします」と流れた。私と妻は、4階のモロゾフの喫茶 店でサンドイッチのランチセットを食べていたが、食べるのを止めて、目をつぶっ た。ウエイターも客も店内の全ての人が真面目に黙祷をしている様子であった。さ すがに神戸の百貨店だとその時思った。
「タンスが倒れ、棚から落下した色々なものが散乱する中で、あんたはいちばん最 初に、エッセーを書くといってワープロを探していたなぁ。あんな時はまずやるこ とが他にいっぱいあるのに……」 「これは今までにない大地震だと思った。あんな時、写真家だったら当然地震の状 況を写真に撮って置こうと考えることやろう。毎月エッセーを書くように、決めら れていたエッセー人間やから、あんな時まずエッセーを書きたいと思うのは、とう ぜんのことやないか」 「そんなものやろかなぁ」 平成7年1月17日、午前5時46分、上下動で身体がベッドから浮き上がって妻 が悲鳴を上げ、横揺れで万物が落下した。この日は大阪の朝日カルチャーセンター エッセー教室のエッセー作品提出日だった。当然私は作品を用意していた。甲山の 風景かなんかだった。こんな大地震に遭遇しているのに、のんびりした風景のエッ セーなど提出している場合ではない。地震の状況をまず書いてエッセー教室の皆さ んに読んでもらわなければならない。床から拾い上げたワープロはどうやら使えそ うだった。しかし、電気は停電のままではないか。携帯ラジオは阪神も阪急もJR も阪神間の交通機関は全滅と報じている。いつ、どうして大阪まで作品を届けるの か。 翌日18日、電気が通じワープロが動き始めた『タンスが飛んだ日』と題して書き 始めた。地震の時、マンション5階の寝室の西の壁にあった3段タンスの上段が宙 を飛んで、東の壁の下に転がっていた。その間にベッドが2つ並んで、私と妻が寝 ていた。タンスはその上を飛び越えたことになる。そんなことから書いていった。 エッセー教室の次の開催日は1月31日だった。本来なら提出したエッセー作品が コピーされて、文集として教室のみんなに配られて、それについての感想を述べ合 うことになる筈である。電車が動き出したら、開催日までに大阪のカルチャーセン ターの事務局まで作品を届けようと思った。 提出するエッセーは最初『タンスが飛んだ日』だけのことを書いていたが、日が経 つと色々書き加えることが増えてきた。そこで1月18日『並んで、運んだ日』を 加えた。水と食料を求めて、妻と夙川のダイエーに行く、途中4階建てマンション が倒れこんでいる。消防団の人が圧死した人を掘り出している。ダイエーは閉まっ ていた。そこで阪神西宮駅北側にあったジャスコに行く。その途中JRの列車が脱 線して傾いている。ジャスコでは店の前に机を並べて販売していたが、200メー トルにわたり人が並んでいる。2時間並んで水ボトル4個、カップラーメン4個、 切り餅袋入り2個、缶詰2個を買った。帰って浜脇中学校まで行き、給水車からの 水を30分並んでバケツに入れて、妻とマンション5階まで運んだことを書いた。 そして1月20日に『黙祷の日』を加えた。親しくしていた友人の中川君が倒壊し た苦楽園桜町の家でタンスの下敷きになって亡くなったことが、やっと通じ始め た電話で分かった。63歳だった。報道によると確認される震災の死者の数は毎日 増え、5千人を大きく。超えそうである。タンスに当たるか当たらぬは紙一重、我 が身と比べ彼の死を悼み思わず黙祷したことを書いた。 1月21日は、阪急電車が西宮北口から大阪方面へは動くようになったと聞いて、 香櫨園から歩いて、動いた電車に乗り風呂と洗濯のため妻と2泊の予定で千里山線 山田駅の近くの親類へ行った。被災地と全く違う温度差、閑静な住宅地、レストラ ンは家族ずれが食事を楽しみ、温かいコーヒの香りがする。倒壊地獄から天国に来 たようだと『天国を感じた日』を書いた。 当時は提出エッセーには字数の制限があったので、書いたエッセーのそれぞれの 『日』の話を縮小し、日記風にして一篇にまとめ、『激震・私の日記より』として、 阪神電車が甲子園から大阪まで開通するのを待って、カルチャーセンターに提出し た。 この時教室で配布される、提出のエッセー作品の文集はしばらくの間、地震関連の 作品が多かった。そして程度の差は違っても、地震の体験をした人が多かったので、 提出作品を中心に地震の話を語り合った。 水道もガスも止まったままの日が1月の末になっても続いていた。自衛隊が家の 近くの香櫨園小学校の校庭に野戦風呂を作ってくれた。私はエッセー『校庭の中の 温泉』を書いて提出した。この時香櫨園小学校は避難所になっていた。一時2千人 が教室や体育館にあふれた。そしてこの学校の校区内だけでも児童6人を含む1 31人が亡くなっている。 テント風呂は校庭の西隅にあった。入口には「新町(群馬)第十二後方支援隊」と あり新町温泉と書いたのれんがかかっていた。男湯が3時から開かれるということ で既に数人の人が並んでいた。自衛隊員が入り口を開け、入ると脱衣場の奥にパイプ を組み合わせて防水布で囲った3㍍四方の湯船があった。自衛隊のトラック上のガ スバーナーで沸かした湯を管でその湯船に送り込んでいた。もうもうとした湯気の中 で、被災者の人たちの表情がほぐれ、上気した顔をほころばせていた。 家の北側の阪神高速道路が地震で崩れ、高架の道路が取り除かれると、なんと家の北 テラスから甲山が真正面に手に取るように見えるようになった。3月初め、私は甲山 に招かれているように、地震の後の神呪寺や山の状況を見に出かけてエッセー『仏性 ヶ原』を書いた。神呪寺の石段を上ってゆくと、石灯籠の上部が石段の真ん中にのっ かかっていた。上の境内から円盤のように飛んできたのであろう。本堂の屋根は傾い ていて、入れなかった。不動堂や休憩所は全壊して跡形もなかった。私は寺の裏道か ら甲山に登った。激震の走った地帯、甲山を中心に西から東、そして回り込んで北を 一望した。この状況をあの神呪寺を創建した真井御前の如意尼が見たらどう思うだろ うかと思った。そして、山頂からの下り径を仏性ヶ原に向けて辿ることにした。その 山径を下っていたが、突然、径が途切れた。その先は絶壁になり、左の深い谷に黄色 の土砂が幅広く落ち込んでいた。仏性ヶ原の一部が崩れていたのだ。あぁ、ここが大 地震による地滑りで、下の12戸が埋まり倒壊して34人の死者を出した仁川百合野 町の現場なのだ。私はその報道記事を思い出した。その時私の足が震えだした。私は 震えの止まらない足を引きずりながら、山径を戻り始めた。 この年の6月26日。やっと、阪神電車が全線開通した。最後まで残っていた御影―西 灘間の高架線路が復旧したからである。私は早速、香櫨園から三宮まで乗って『阪神砂 漠』の題でエッセーを書いた。阪神電車の車窓から見える両側は多くの家が倒壊して、 無残な姿を晒していた場所だが、あれから160日がたって家の残骸が皆撤去されると、 白い空き地となって、砂漠のようにずっと広がっていた。この時のこの時期、私はこの 風景を阪神砂漠と呼んで、いつまでこんな状況が続くのかと思っていた。 この年の11月、西宮市シルバー人材センターから、えびすさんの総本山西宮神社を囲 む大練塀の、地震で落ちて泥にまみれていた屋根瓦の汚れ落とし、という仕事の依頼が 来た。私は会員仲間2人とともに作業して、エッセー『瓦の汚れ落とし』を書いた。こ の神社の大練塀は重要文化財に指定され、塀の上に屋根瓦がつき、有名な京都蓮華王院 の太閤塀、名古屋熱田神宮の信長塀とともに日本三練塀に一つに数えられてきた。行っ てみると境内の隅に落ちた瓦が山のように積まれていた。その数一万枚、平瓦はじめ丸 瓦、巴模様、唐草模様などの種類があった。そのうち再び使えるものを、金属ブラシと たわしで汚れを落とし磨いていくのだが、これは思ったより大変な作業だった。瓦にへ ばりついている壁土や泥は固くてすぐには落なかった。こすると土ぼこりが立ち込めて マスクや手袋をしていても、顔も手も真っ黒になった。朝の9時から午後4時まで働い て、15日間ですべての瓦を磨き終えなければならない。寒い日が続いて、私も、全部 仕上げるのは無理だ、ギブアップだ、と思った。しかし、他の二人の会員は黙々と何も 言わず働いていた。昼の休憩の時、私が「この仕事は大変だ」とぼやいたところ、会員 の一人が「こんな神社の復旧の仕事が出来るのは有難いことですよ。がんばりましょう よ」と前向きの答えが返ってきた。そして「えびすさんは福の神だから、こんな仕事を すればきっといいことがありますよ」と励ましてもらった。なるほど神社の奉仕活動と 考えれば良いのだ。自分の願いを込めて瓦を磨けばきっと良いことがある。 「地震はもういや、福よこい」 「福の力で暗い出来事、吹きとばせ」 「けがれを落として、福もらおう」 こんな文句を口の中で、呟きながら瓦の汚れを落としてゆくと、楽しくなってきて、 磨き終えた瓦が美しく輝いて見えた。その後応援の会員の参加もあったが、落ちて積 まれた瓦を磨き終え、練塀もその瓦屋根も見事に早く復活した。 震災から1年たって、兵庫県が震災対策事業として、被災者に提供する仕事の依頼が、 西宮市のシルバー人材センターを通じてあった。一つは震災で県外に転宅した人達に 対して毎月「県民だより」を封入して送る仕事であった。もう一つは県の管轄する甲 山森林公園の全ての施設の管理と施設台帳の作成であった。私はその仕事に参加して、 エッセー『震災対策事業』を書いた。この森林公園は西宮市甲山の山麓に広がり、面 積77ヘクタールにも及ぶ、最初は4人で2人が1組となり、週2日、9時から12 時までの3時間、公園内を巡回して、図面に、ベンチ、灰皿、外灯、拡声器、健康器 具、飲水手洗、案内板、止水散水栓、道標、WCなどを書き入れて、その傷みや汚れ 具合も書き加え、それを公園事務所でワープロに記録していった。そして、傷みの激 しいものから修理やペンキ塗りをしていった。公園内には険しい上り下りもあったが 歩くことの好きな人には、すばらしい自然の中での楽しい仕事だったろうと思う。後 には3組編成、6人が参加するようになった。私もこの仕事ではじめて震災のことを 忘れ、仲間と楽しく働くことができた。この仕事は4年4ヶ月続いて終了となった。 23年目の震災の日をきっかけに、当時私が書いたエッセーを読み返すと、忘れて いたことも思い出し、当時私が感じたことや、考えていたことが改めてよみがえった。 我々の住む大地は常に動いており、時には激しく振動するのは当たり前のことである。 だからこそ、地震とはいつ起こるかわからないものである。急に振動が起こっても、 おどろかず、冷静に対応して命を守ることが大切だとエッセーを読み直して再認識した。 そして、大きな破壊があっても、それを乗り越えみんなで力を合わせて進んでゆくことに、 すばらしい生きる喜びが生まれ湧き上がることを、自分が書いたエッセーを読んでみて、 改めて今更ながら知ることが出来たのである。