焦土の雨
アメリカ軍の油脂焼夷弾の空襲により一つの街が焼失した直後には、必ず雨が降った。それは黒い煤を
含んで急に激しく焦土とその周辺を叩きつけた。そして、あっけなく数分で上がった。
昭和20年8月6日の未明、私はその雨の音を、逃げてきて、もぐりこませてもらった国道2号線付近の
防空壕の中で聞いた。
《この音は、たしかに本当の雨だ! 今までの焼夷弾の一斉落下音と違う》
油脂焼夷弾が空を覆って落ちるときは、激しい豪雨のような音がした。見上げると、まるで大規模な打
ち上げ花火の直下にいた。
一機のB―29は1520発の焼夷弾を38発毎にまとめて収束弾に詰め込んでいる。それが130機そろって、西
宮の街の甲子園から夙川までの間を海辺から山側へかけて一斉に落としていったのだ。収束弾はそれぞれ
地上70メートル上空で空中分解する。その時ナパーム剤の入った油脂焼夷弾が空中で散らばり、弾の尾翼
の役目をする麻製のリボンに火がついて花火のように広がり、ザーと大きな落下音が響く。
中学2年生の私はこの落下音と花火の下を、福應神社の前の今津社前町の自宅から、阪神電車の路線を
超えて、久寿川に沿って走って逃げてきたのだ。
「敵機は西宮を攻撃中!」と何度もラジオが連呼したのは、8月5日の深夜12時近くだった。父、母、姉、
弟との5人で家を出て神社近くの防空壕まで行った。「このままでは、危ない! 北へ逃げよ!」父の言
葉に私は飛び出した。気がつくと、家族とも離れ一人で走っていた。川向こうの公設市場が炎を上げてい
た。私の周りに無数の火が突き刺さり始めた。私は停めてあったトラックの下に潜り込んだ。そのトラッ
クにも弾が当たって、炎上した。這い出して再び走った。その後から火と音が追ってきた。
雨が上がると、私は礼をいって防空壕を出た。夜が明け始めた田圃道をまだ煙のくすぶる市街地に向けて
歩いた。私はハットして立ち止まった。小型爆弾が直径3メートル位の穴を開け、その周りに5、6人が防空
頭巾をかぶったまま死んでいた。《子供もいるようだ。逃げる人たちを殺傷するため、こんな爆弾まで使っ
たのか!》私ももう少し遅ければやられるところだった。
焼け野原になった街に出ると、黒焦げの死体が、散乱していた。人間の形がようやく炭になって残ってい
るようだった。私の家跡は、すぐに分からなかった。土蔵の蔵も直撃を受けたのか崩れて焼尽くされていた。
私が焼けた家の跡にたどり着いた頃、8月6日8時15分。広島では新型の爆弾(原子爆弾)が落とされ
ていた。この後の雨は場所により1時間以上降り、強い放射能を含み「黒い雨」と呼ばれた。被爆被害を広
げる恐ろしい雨だったのである。
そしてこの日、油脂焼夷弾で街が焼失し、焦土に雨が降った街は、他にもあった。佐賀、前橋、今治であ
った。
いや、この日だけでない。昭和20年8月になって、八王子、富山、長岡、水戸、6日以降でも八幡、福山、
熊谷、伊勢崎と続いた。このような焼夷弾爆撃以外にも、艦砲射撃や艦載機の機銃掃射、そして長崎の原子
爆弾、大阪砲兵工廠の1トン爆弾群による猛爆撃など至るところで弾丸が降り注いでいた。
アメリカ軍が主要な軍事施設を中心にした標的爆撃作戦を、焼夷弾による日本の都市の無差別焦土化作戦
に変更したのは、グアムに赴任した第21爆撃集団カーチス・ルメイ司令官の立案によるものとされている。
東京、大阪、名古屋、神戸などを焼き払ったあとは、地方の中小都市が標的となった。昭和20年6月半ば
から、7月までに焼失した地方都市は、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、岡山、佐世保、
門司、延岡、呉、熊本、宇部、下関、高松、高知、姫路、徳島、千葉、明石、清水、甲府、仙台、堺、和歌
山、岐阜、宇都宮、沼津、大分、桑名、平塚、福井、日立、銚子、岡崎、松山、徳山、津、青森、一宮、宇
治山田、大垣、宇和島と続いていた。
これらの都市では西宮と全く同じく、住宅密集地帯の大部分が火の海となって、焼滅すると大量の煤が舞
い上がり、上昇気流が発生して雲ができて激しく雨が降った。そして、その雨と共に、膨大な数の犠牲者が
生まれ、残された多くの人たちの涙が流れた。
油脂焼夷弾の収束弾は、戦争末期には38個内蔵から48個に増えた。やがてこれはクラスター爆弾として、
収束した200個以上の小爆弾をばらまくようになり、湾岸戦争やイラク戦線でも使われた。不発弾も多くそ
の犠牲者も多いことから、国際的に禁止条約を結ぶ動きがあり、日本は署名しているが、アメリカ・中国・
ロシヤなどの軍事大国はまだ署名していない。
また日本の住宅を焼き尽くすのに用いられた油脂弾に充填されたナパームは、ナフサとパーム油を混合し
たもので極めて高熱を出し広範囲に広がる。これはナパーム弾として朝鮮戦争やベトナム戦争でも使われ、
戦場の荒野を消火不能の焦熱地獄とした。
今年も梅雨の季節が終わりに近づくと、激しい雨の降ることが多くなってくる。ザーとベランダを強く叩
きつける雨の音を聴くとき、私の耳にはいつも65年前の焦土の雨の音がよみがえってくる。次いで、空一面
に広がって迫ってくる火の点いた焼夷弾の落下音を思い出し、身震いをするのである。
(平成22年6月28日)
■■◆ 宙 平
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Cosmic Harmony
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