From Chuhei
昭和史、最良の語り部

作家・戦史研究家であり、「文芸春秋」の編集長であったこともある半藤一利さんが、 今年(2021年)1月12日の午後、自宅で老衰のため亡くなった。90歳であった。

半藤さんは1963年に、「文芸春秋」の企画として、あの1945年の8月15日、 ポッダム宣言の受諾を決定した玉音盤による詔書の放送、そこに至るまでの大変なとき を経験した当事者の28人を集めた座談会を「日本のいちばん長い日」と題して行い、 その司会を務めた。このときはまだ、当事者だった元の内閣書記官長、首相秘書官、 外務次官、駐ソ大使、侍従、陸海軍の関係者などが存命で多くの方々を集められた。 これは、その年の8月号に掲載されたが、半藤さんはさらに取材をして、1965年に 単行本『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』を執筆、出版した。これが半藤 さんの執筆活動の原点となった。単行本は20万部、角川書店で文庫化されたものは 25万部売れたとされている。そして、その映画化は1967年版(岡本喜八監督、 製作・配給東宝)と2015年版(原田眞人監督、製作配給松竹)と2度も制作されて いるが、私が見たことを覚えているのは1967年版であろうと思う。

映画はポッダム宣言により日本の無条件降伏を迫られた当時の首相、陸海軍の閣僚、 外務大臣たちが、天皇の裁可を求めて御前会議に持ち込む緊迫した状況など迫力ある 画面が映写されていた。また天皇の言葉、会議における、各閣僚の発言などは、 半藤さんの綿密な取材により、実際に当時発せられたとされる言葉をそのままに 使っており、迫真力があった。また阿南陸軍大臣の、血が飛び散る割腹場面や、宣言 受諾に反対して反乱を企てる将校たちの様子も詳しく映写されていて、大変見応え があったように思っている。
その後半藤さんは編集者生活と並行して太平洋戦争関係の著作を何回か出していたが、 1995年「文芸春秋」を退社して、作家となり、さらに多くの作品を著し、また、 日本の近代史、特に昭和を中心に執筆し「歴史探偵」を自称するようになった。

亡くなった後、私は昔、半藤さんが「自分は昭和史の語り部だ」とテレビで語って いたことを、思いだして、2009年、語り下ろしで出版された『昭和史1926 ―1945』(平凡社)を電子書籍で取り寄せて、パソコン画面を見つめて読んでみた。

私は半藤さんより1年後の1931年(昭和6年)の生まれであり、昭和の歴史は大体 分かっているつもりでいたが、この本を読んで改めて、半藤さん独特の歴史観を知り、 多くの人を取材していることから、今まであまり語られてなかった新しい事実も色々 知ることができた。

半藤さんは日本の近代史を考えるのに「40年毎に転換点がある歴史観」という見方 をしていた。これはまず日本が鎖国状況から脱し、世界に向かって開国に方針転換を 始めた1865年(慶応元年)から40年を、日本が後進国から発展して来た最初の期間 と見る。その間、日本は明治政府を樹立し、当時の列強の国に追いつくため、富国強兵 政策をとり、日清戦争を経て、日露戦争にかろうじて勝って、なんとか列強の仲間入りを 果たすのが1905年(明治38年)である。そしてそこから、次の40年が、日本が朝鮮 半島を併合し、第一次の世界大戦に参戦、南洋諸島を委任統治領として、やがて満州事変、 日中戦争、ノモンハン事変と続き、第二次世界大戦に突入、それまで築き上げた大日本 帝国を壊滅させてしまったのが1945年である。私の読んだ『昭和史』はこの期間の 内にある。

さらに、日本が占領された空白期7年を経て、次の40年は新しい国家の建設に乗り出し、 経済大国への階段を駆け上がった。そして膨れ上がった経済のバブルが崩壊して落ち 込んでしまったのが1992年(平成4年)である。半藤さんは『昭和史』の始めに書いて いる。「日本の近代を、国つくりから見ると、作り上げたのも40年、滅ぼしたのも40年、 再び一生懸命作りなおして40年、再びそれを滅ぼす方向に進んで、何年か経ってしまって いる。いずれにしろ『昭和史』前半の時代はこの滅びの真っただ中に入る」と語っている。

私はこれを読んで、「確かに日本の近代史の上で40年毎に転換点があって。盛衰を繰り 返してきたのは事実だ」と思った。しかし「その盛衰を、そうと決まってしまった運命的 なものと考えないで、滅びに進んでいた歴史からも教訓を学び取り、それを生かして国民も 為政者も務めるならば、流れを切り替えてよりよい方向に進むこともできるのではないか。 そのためには『昭和史』を、なかでも、起こった出来事の真実が書かれた『昭和史』を、 みんなが学び知らなければならない」とも思った。

半藤さんは『昭和史』の最初の始めの章のタイトルに

「昭和史の根底には、赤い夕陽の満州があった」
と、書かれている。私は著述を読んで昭和の初めから、1945年の大日本帝国の崩壊まで の間の『昭和史』はすべてこの言葉に集約されていると言えることが分かってきた。そして 半藤さんは、その始まりは1905年の日露戦争の勝利にあるとして、次のように書いている。

「日露戦争に勝って、日本は諸権益を得ます。一つは関東州、つまり遼東半島を清国から借り 受けて、自由に使える権利をもらいました。さらに南満州鉄道、長春から旅順までの鉄道 経営権と、安奉鉄道、国境の安東(丹東)から奉天(瀋陽)の軍用鉄道の経営権などを得ます。 そしてここが大事なところですが、権利を得た鉄道の安全を守るために軍隊を置く、軍隊駐屯権 を得ました。とにもかくにも、日本が満州の地に足を踏み入れ、軍隊を派遣するスタートになり ました」

遼東半島に日本が軍隊を駐屯させる権利を得た。この軍隊が次第に力を持ち、やがて「関東軍」 と呼ばれる、軍隊内でも強い一つの勢力になる。他にも天津軍など駐屯する軍隊が増え、アジア 大陸での戦争、満州事変、日中戦争などを次々と引き起こしてゆく原動力となる。それが大陸内 でも反日の勢力を増大させ、国際的にも批判を招く。そのことがやがて、ABCD(アメリカ、 イギリス、中国、オランダ)ラインに囲まれ経済制裁を受けることになり、屑鉄や石油の輸入が 止められる。アメリカからは中国大陸や仏印(ベトナム)からの日本軍の撤収を迫られる。 そしてさらにそれが、太平洋戦争開戦の原因につながり、敗戦に至る。

ここはお国を何百里
はなれて遠き満洲の
赤い夕陽に照らされて
友は野末の石の下

日露戦争の時に歌われたこの歌から赤い夕陽の満州という言葉がとられていると私は思った。 勿論半藤さんの『昭和史』は赤い夕陽の満州があった、だけではない。運命の8月15日に 至る様々な出来事が、詳しく書き連ねられていた。

主な章のタイトルは次の通りだった。

「満州国は日本を栄光ある孤立に導いた」
「二・二六事件の眼目は宮城占拠計画にあった」
「政府も軍部も強気一点張り、そしてノモンハン」
「なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか」
「四つの御前会議かくて戦争は決断された」
「大日本帝国にもはや勝機がなくなって……」
「日本降伏を前に駆け引きに狂奔する米国とソ連」
「堪ヘ難キヲ堪エ、忍ビ難キヲ忍ビ」
「三百十万の死者が語りかけてくれるものは」

1936年(昭和11年)私は西宮今津小学校西側にあった市立幼稚園の園児であった。

日本サクラ、満州はランよ
支那はボタンの花が咲く
花の中から朝日が昇る
アジア良いとこ、楽しいところ

私は幼稚園の学芸会の舞台で多くの園児たちと手をつないでこんな歌を歌っていた。
満州国ができて五族協和、王道楽土の花園の中で歌っていたのだろう。そこへ花園を 荒らす悪い者たちが現れる。舞台の花を倒し、つないでいる手を引きはがす。その時 軽快な音楽が高鳴り、日の丸の旗のプラカードを高く掲げた園児が登場する「日本の 兵隊さん、強い兵隊さん……」合唱隊が歌声を高める。そしてドイツのハーケンクロ イツを掲げた園児が続く「ドイツの兵隊さん勇ましい兵隊さん……」
その次はイタリアで、私がすぐにイタリアのムッソリーニらしき姿に変身して、緑、 赤、白をあしらったプラカードを持って登場した。「イタリアの兵隊さん、陽気な兵隊さん……」 そして、日本、ドイツ、イタリアで舞台から花園を荒らす悪い者たちを追い払う。そして 舞台で、3人並んで敬礼した。ドイツは右手を挙げてハイルヒットラーと叫んだ。

日・独・伊が正式に三国同盟を結ぶのはこの時からまだ4年後の1940年(昭和15年)で、 半藤さんの記述でも、この三国同盟は、アメリカ、イギリスとの対決を招き、再び世界大戦 の引き金を引くことになるので、アメリカの軍事力をよく知る、海軍の上層部からも強い反対 があったことが、詳しく書かれている。私が幼稚園の舞台でイタリアになったこの昭和11年 の時点では日独で防共協定を結んで、イタリアもそれに参加する意向を示していたに過ぎない。 しかし幼稚園の学芸会でも、すでにこんな三国同盟を思わせる劇をしていたことは、当時の 日本にはかなり三国同盟に期待する空気も強かったのではないかと私は思っている。

1941年(昭和16年)、12月8日、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告した。 欧州は戦場化していたが、ドイツもさらに、アメリカに宣戦布告し、イタリアも続いて、第二 次世界大戦が勃発した。国民学校4年生だった私は、緒戦の戦果にこんな歌を歌っていた。

起つやたちまち撃滅の
かちどき挙がる太平洋
東亜侵略百年の
野望をここに覆す
今決戦の時来る

半藤さんも当時の国民はこの時、万歳、万歳の叫び声をあげていた、と書いている。また 評論家の中島健蔵、小林秀雄、亀井勝一郎、作家の横光利一などの、緒戦の勝利に対する 喜びの声なども記されている。

しかし、連勝はつかの間、逆転されて戦局は危急となる。私は中学に入り、次のような 歌を歌っていた。

花もつぼみの若櫻
五尺の生命ひっさげて
国の大事に殉ずるは
我ら学徒の面目ぞ
ああ紅の血は燃ゆる

そして、中学2年になるとすぐ学徒動員となり工場で働く、その時1㌧爆弾の爆撃を受ける。 そして運命の1945年(昭和20年)8月15日の1週間前の8月5日深夜、西宮の南部 一帯を焼け野原にした大量油脂焼夷弾空襲の火の雨の中を逃げる。私の家は焼失した。
半藤さんもこの年の、3月10日の東京大空襲の時は中学3年生。一人で猛火の中を逃げて、 中川で手を差し伸べて引き上げようとした人に、逆に水中に引き込まれ、死にかけた体験を 持っている。

『昭和史1926―1945』の結びに半藤さんは、歴史はしつかりと見て、学ばなければ ならない。その教訓として、日本の指導者は戦争に対する国民的熱狂に流されてはいけなかった。 そして、危機を迎えたとき、もっと理性的な方法をとらなければならなかった。さらに エリートだけの小集団、例えば参謀本部作戦課では絶対的権力を持ち他からの情報を無視 するなど、小集団主義の弊害があった。として、「政治的指導者も軍事的指導者も根拠なき 自己過信に陥っていた。その結果まずくいったときの底知れぬ無責任があった。これは昭和史、 戦前史と言うだけではなく、現代の教訓でもある」と書かれている。

半藤さんは晩年の著作『橋をかける人』の終章「遅咲きの物書き、〝歴史の語り部〟となる」 で次のように語っている。
「よく『歴史に学べ』と言うが、その前に正しく歴史を知ること、『歴史を学べ』のほうが 今の日本人には正しいと思う。自分の人生は「漕ぐ」。(半藤さんは東京大学の漕艇部のとき にひたすらボートを漕ぎ続けた経験がある)昭和史も漕ぎ続けてきた。飽きずに一生懸命に 漕いできた。毎日毎日漕いでいると、あるとき突然ポーンと(歴史の真相が)分かること がある。だから続けることが大切だ」

徹底的な当事者への取材、史料に基づくち密な検証によって戦争が続いた昭和のことを 語り続け、深く教えてくれた半藤さんは、改めて「昭和史最良の語り部」だった、との思いが 一層深く私の心を占めた。そして、私が半藤さんの没年と同じ90歳になっても、歴史は 学び続けなくてはならないと、心に誓った。

(2021年2月26日)

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宙 平
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