From Chuhei
昭和一桁同士のエッセー交流
それは平成24年の秋だった。私は突然、西宮の甲風園に住んでおられる高橋睦美さん
という方からの手紙をもらった。郵便による手紙ではない。私の属している西宮市シル
バー人材センターの事務所に直接届けられたのだった。宛名も私の本名ではない。私の
ハンドルネーム「宙平」宛となっていた。
私は人材センターのパソコン同好会のホームページ「e?silver西宮」に毎月、エッセー
を、作者名「空色宙平」で載せている。平成17年8月、パソコン同好会がホームペー
ジを初めて立ち上げた時、会長だった吉川さんが、私が毎月エッセーを書いていること
を知って、「ぜひとも、ホームページにエッセーを載せてほしい」と依頼されて以来、
そのハンドルネームで掲載を続けている。
高橋睦美さんの手紙は、香川県さぬき市に住むお父さん(昭和2年生まれ)に、昔西宮
北口の西宮球場の中にあったグライダー製造工場に勤務していた頃かけていた厚生年金
保険を受け取るようにとの連絡が入った。睦美さんら家族は全く今までそんな話は聞
いたこともなく初耳だった。お父さんの小西忠彦さんの話では、西宮北口には「航空園」
という広い総合航空施設があって、そこのグライダー場で、作ったグライダーを飛ばし
ていた。その北隣にも第二工場があり、ソーラーという種類のグライダーを作っていた。
と、いうことを最初に書かれていた。
そして、そんな今では全く想像もできない風景に、香川県にいる父親に伝えるなにか
繋がることはないのかなと、睦美さんがインターネット検索してたどり着いたのが「宙平」
のエッセーだった。睦美さんはお父さんに「ネットで『航空園』のことが書かれたエッ
セーを出している人がいるよ」と印刷して郵送したところ、お父さんは大変よろこばれた。
そして「宙平」と称する人に当時の西宮北口のことを知る者が香川県にもいるよ、と伝え
てほしいとの手紙を送ってこられた。睦美さんの手紙にはこのお父さんの手紙も添えられ
ていた。とにかく、シルバー人材センターに託しておけば、「宙平」である私に届くだろう
と考えて持参されて届けられた手紙だった。
シルバー人材センターからの電話により私は手紙を受け取り、睦美さんと電話で連絡する
ことが出来て、私も本名を名乗り、お父さんの小西忠彦さんに返信を郵送することが出来た
のだった。そしてその後、エッセーの交流が忠彦さんとの間で始まったのである。
私のエッセーで忠彦さんに読んでもらったのは、最初は平成20年6月脱稿の『少年―
大空への憧れ』だった。これは空を飛ぶことを夢見て、先の大戦中を過ごした私の日々を、
少年という一人称で書き綴ったもので、少年が「西宮航空園」を訪れ、グライダーの訓練
を見たり、模擬操縦士適性検査を受け、展示軍用機の操縦かんを握ったりして、大空への
憧れを燃え上がらせるのだが、最後はアメリカ軍の進攻により、日本の大空でも日本の航
空機が自由に飛ぶことなど出来なくなり、空飛ぶ夢は絶たれる話である。
次いで読んでもらったのは、平成23年2月脱稿の『浦島太郎の哀しみ』であった。これも、
「e-silver西宮」のホームページで宙平のエッセーを実際に読まれた人の話が中心になる。
大阪市立常盤小学校の同窓会で招かれた恩師(私と同じ昭和6年生まれ)が、昔西宮北口
にあった「航空園」のことを誰か知らないかと話をされた。誰も知らなかったが、岩田さん
という女性がインターネット検索をして宙平の『少年―大空への憧れ』のエッセーを見つけ
コピーして恩師に届けた。やがて人材センターを通じてこの元先生から私に手紙をもらった。
その手紙には元先生が岸和田の小学生だったころ、記憶に残り忘れられないのは西宮北口の
広場で実物の色々な飛行機の展示を見たり、中に乗り込んだりしたことだった。そしてその
思い出を共有するために同年配や飛行機好きの仲間に機会あるごとに尋ねても、「そんなこと
見たことも聞いたこともない」「何かの勘違いや」位の返事しか返ってこなかったので、淋しく
哀しい思いをしていた。しかし、岩田さんから届けられた私のエッセーを読んで、今までに
あったうれしいことの何十倍何百倍も感激し、大粒の涙を流しながら、これで人生の終支度が
出来そうですと、岩田さんに伝えエッセーを何回も拝読した、とあった。私はこの話を中心に
して、私が育った古い西宮の今津のことなどを語っても、誰も知らない淋しさを感じたこと、
など書き加えて『浦島太郎の哀しみ』というエッセーの題名にしたものであった。
これらのエッセーを読んで頂いた小西忠彦さんの手紙には、航空園のことはよく覚えていて
本当に懐かしい。そして娘のいる西宮には60数年ぶりに行ったことがあるが、まさに浦島太郎
そのもので、昔のことを話しても、全然通用しなくなった哀しみは本当によくわかるとあった。
そして小西忠彦さんからエッセー『老兵は死せず』が送られてきた。原稿用紙3枚に自筆で
書かれ、それを、きっちり折りたたんで封筒に入れられていた。忠彦さんはその後、召集令状
により久留米の陸軍歩兵第48連隊に入隊されたが、復員後は警察官になられた。
その時親しかったM警部補の話をエッセーに書かれたものであった。といっても警察の話では
ない。あのアメリカ、イギリスとの開戦初頭、ハワイ真珠湾攻撃に続いて、行われたマレー沖
海戦にM警部補は、当時22歳の海軍一等兵曹として攻撃機を操縦して魚雷攻撃をしていたと
いうエッセーである。
昭和16年12月10日朝、海軍が進出していた仏領インドシナの航空基地に出動命令が下った。
イギリスの戦艦プリンスオブウェールスと巡洋戦艦レパルスを中心とした艦隊が、東シナ海を
遊弋中。これを攻撃せよとの命令であった。日本のマレー半島上陸部隊を運んだ船団を攻撃する
のが敵艦隊の目的であった。日本の攻撃機84機が飛び立った。その中の魚雷装備をした攻撃機
を操縦していたのがM一等兵曹だった。その話によると敵艦からの激しい対空砲火があり、壮烈
な戦いとなって、緊張の連続であったという。味方機がプリンスオブウェールスに突っ込んで
いくのが見え、彼の機も魚雷を発射させた。魚雷が次々命中し、さしもの不沈戦艦も海の底に
沈んで行くその断末魔の姿を見たという。レパルスにも攻撃したのは覚えているが、激しい対空
砲火をかわすのが精一杯であった。が、とうとうレパルスも撃沈した。しかし、味方の攻撃機も
3機撃墜されていた。M一等兵曹はその後、少尉に任官されたが、終戦後は故郷で百姓をした後
警察官となり、警部補として定年まで勤めた。そして再び百姓に戻り晴耕雨読の中で「老兵は死
せず、静かに消えさるのみ」と口癖のように言っていた。
このエッセーを私に送ってこられたのは、平成24年12月であったが、忠彦さんがこのエッセー
を書かれたのはこの時よりさらに10年前で、その時お元気であったM元警部補もこの世を去られ、
淋しい限りであると追文に書かれていた。
そして、平成27年10月に『70年目に語る隼戦闘隊こぼれ話』が忠彦さんから自筆の原稿用紙
で送られてきた。これは戦時中映画にもなり「エンジンの音、轟々と隼は行く雲の上……」という歌
で有名な加藤隼戦闘隊長の右腕と言われていた黒江保彦少佐と思われる人に、終戦後1か月ぐらいの時、
忠彦さんが、まだ陸軍歩兵二等兵として作業中、ちょっとしたトラブルを収めてもらった話であった。
久留米貨物駅構内で20人くらいの新兵たちと積み荷を降ろしていた時、久留米師団の騎馬巡察の大尉
と中尉が、「お前らは敬礼もしないのか、規則をなくした敗残兵か、全員そこへ並べ」と怒鳴り、全員
ピンタを取りかねない状況となった。その時飛行靴を履いた将校ズボンの男が忠彦さんに事情を聴いた。
そして事情を話すと「戦争に負けたのに、まだそんなことを言っているのか」と言って、風呂敷から、
航空少佐の階級章のついた軍服と帽子を取り出し、身に着けると、あわてて敬礼をする巡察将校に答礼
を返し、建物の陰に将校たちを呼んで5分位話をすると、巡察将校の大尉が「勘違いをして大きな声を
出して済まなかった。作業を続けてくれ」といって去って行った。航空少佐に、引率の上等兵が「お名前
をお聞かせください」と言うと、「わしは死に損ないの飛行機乗りじゃ。皆に名乗れるものではないが縁
と命があったら、またお会いしましょう」と言って去って行った。その後、忠彦さんはあの航空大佐は加
藤隼戦闘隊の大幹部で鹿児島出身の黒江保彦大佐に違いないと思い、調査をした。娘さんにインターネット
でも調べてもらったら、人相特徴骨格が忠彦さんの記憶と一致した。その後分かったことは、この方は鹿
児島の伊集院町に帰郷した後自衛隊に入隊し、47歳の時石川県小松基地の空将補であったが、越前海岸
に夜釣りに出かけ大波に巻き込まれ亡くなっていた。
私はこのエッセーを読んで、昔良く歌った「加藤隼戦闘隊の歌」を久しぶりに口ずさみ、終戦により
あの強固な軍隊組織が崩壊していった色々な場面を思い出していた。
続いて同じ平成27年12月に自筆原稿用紙で送られてきたのが『ある元空軍勇士の述懐』であった。
これは忠彦さんが、警察官の時、交通事故主任として交通事故を起こした初老の男を取り調べていたところ、
本人の経歴の所で、この男は沖縄が本籍の日本人であるのに「私は韓国空軍の大尉だった」と言ったこと
に始まる。その話によると彼は沖縄に生まれ地元の小学校高等科2年を卒業して、陸軍少年航空兵に志願
して合格、航空学校を経て航空隊に配属され、陸軍航空軍曽となった。先の大戦で南方戦線に派遣され、
アメリカの戦闘機と空中戦を展開し3機を撃墜するなどの戦果を挙げた。終戦前に内地に帰還し本土決戦
に備えていたが、終戦で除隊となった。復員局で調べてもらったところ、自分の両親兄弟は沖縄戦の犠牲と
なりこの世にいなかった。闇市の商人などしてその日を暮らしていたある時、ある韓国人のブローカーから、
「韓国空軍の将校として迎えたい」という話が持ち込まれた。彼が戦闘機乗りで実績のあることも調べられ
ていた。そして彼は韓国に渡り韓国空軍の少尉に任官し、航空学校の教官をしていたが、朝鮮戦争が勃発した。
彼は空軍大尉となり、北朝鮮のミグ戦闘機と何回も空中戦を戦ったが、自分の操縦の腕を信じ生き残ってきた。
朝鮮戦争が終わると、韓国にいた日本人の娘と結婚し、韓国空軍を退役し日本に帰ってきた。その後日本の
航空会社にパイロットとして就職したが、50歳で退職し、今は高松市に住み、小さな商売をして家族7人
で暮らしていると語った。
私はこのエッセーには驚いた。あの朝鮮戦争では、日本の海上保安庁の部隊が機雷の掃海をしていたことや、
仁川上陸の操船要員として日本の船員が従事していたことは聞いていたが、韓国の空軍将校として戦って
いたのは聞いたことがなかったからである。忠彦さんは終戦当時、かなり多くの日本の元航空兵が韓国空軍
に入隊していた、と、その男は語っていたとして、韓国空軍を育てたのは日本人だったと、このエッセーを
結ばれていた。
私は小西忠彦さんのこの3篇のエッセーから「これだけは、どうしても書いておきたい。書き残して伝えたい」
という強い気迫がひしひしと心に伝わってきて、圧倒された。そして原稿用紙に自筆で、書き連ねられている
文字には、文章に立ち向かう真剣な気持ちが表れていた。
このエッセーと手紙の交流以外、私は小西忠彦さんとはお会いしたことも、電話で話をしたこともない。また
エッセーもその後送られて来ていない。「お元気ですごしておられるのかなぁ」と少し心配していたら、平成
31年の元旦には、忠彦さんから年賀状をもらった。同じ昭和一桁生まれとしてひと安心した。
(平成31年2月28日)
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宙 平
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