夙川の文学散歩


西宮市の甲山の麓から香櫨園浜に流れ下る夙川に桜の季節が来ると、多くの人たちが集まってくる。阪急「夙川」・JR「さくら夙川」・阪神「香櫨園」、それぞれの駅の周辺も華やかに活気づく。 

 香櫨園に住み、いつも夙川の堤で散歩やジョッキングをしている私は、この季節に人が集まってくると、「ここは桜の名所だけでなく、多くの文人たちがこの周辺に住み、夙川を愛し、その作品の舞台ともなったところですよ」と語りかけたくなってくる。 

 そんなことで、まわりが桜に埋もれた一日は、夙川ゆかりの文人たちに思いをはせて、散歩に出発した。

阪神香櫨園駅から南へ、43号線の下をくぐり夙川左岸へ出ると、歩行者専用の川添橋が見えてくる。この周辺は絶好の花見の場所である。酒蔵通りを越えると、桜のトンネルが続く、それが終わったところあたりに堤から石段を下がって葭原橋がある。昭和八年に架けられた橋で劣化が進んだため、今年2月から3月まで、補修工事が行われていた。その工事の説明板の横に「この橋は村上春樹さんのエッセー『ランゲルハンス島の午後』に登場する橋です」と書かれていた。

 作家村上春樹は橋の近くの香櫨園小学校を卒業し、芦屋市立の精道中学に通っていた。このエッセーには、昔の話として「中学に入った春、生物の最初の授業に教科書を忘れて家まで取りに帰らされたことがあった」とあり、「僕の家と学校のあいだには川が一本流れている。それほど深くない、水のきれいな川で、

そこに趣のある古い石の橋が架かっている。バイクも通れないような狭い橋である」と書かれている。そして家から学校に戻る途中、この橋を渡り、川岸の芝生に寝転んで空を眺め「もう一度走って生物の教室に戻る事なんて出来やしない。1961年の春の温かい闇の中で、僕はそつと手を伸ばしてランゲルハンス島の岸辺に触れた」で結ばれている。 

 ランゲルハンス島は普通の島ではない。膵臓の中にあるインスリンを分泌する細胞群のことである。発見者の名前に由来して呼ばれている。村上の作品は「平易な文章と難解な物語」といわれている。このエッセーにも作者の感性がよく現れている。 

 ここからさらに南へ、臨港線を渡ると御前浜(香櫨園浜)である。ここには6百メートル位の白砂が残っている。谷崎潤一郎の作品『卍まんじ』はこの海辺にある2階建がヒロインの家に設定されている。弁護士の妻である園子は、絵の仲間光子と知り合い、この家に招き、モデルになった光子の美しい裸の体を見て、愛の衝動を感じ深みに落ちるという女性同士の同性愛がテーマである。が、夫も光子を愛し、別の男性問題もあり、それこそ卍状態になる。十数年位前までは、作品に書かれたと思はれる家も残っていたが、今はマンションになっている。 

 同じ夙川河口近くに妾宅を設定したのは、織田作之助の作品『六白金星』である。主人公の楢雄は中学校に入った年に、香櫨園の海岸で兄から「俺たちは妾の子やぞ」と教えられる。彼の星、六白金星は父の九紫火星との相性は大凶であり、母の四獄リ星とも合わない。そして、どこか屈折した人生を送る。 

 夙川河口右岸にある、西宮回生病院は野坂昭如の『火垂るの墓』に出てくる。主人公中学3年の清太は、神戸大空襲で瀕死の状態の母をこの病院に運ぼうとしたが、息をひきとってしまう。4歳の妹を連れて西宮の親戚の家に厄介になるが、次第に冷たくあしらわれるようになる。清太は妹と夙川の堤防を通って、香櫨園浜に水浴びに行く。野坂の実際の体験でも、空襲で2人きりになった妹を栄養失調で失くしたのは事実で、彼は回想で「汗疹と、虱で妹の肌はまだらに彩られ、海で水浴させたこともある」といっている。私も同じ年輩である。空襲体験で孤児になりかけた者として、この作品を読むと自然に涙がにじんできて止まらない。 

 回生病院の病棟に続いて西に七階建のマンション「香櫨園ロゼマン」がある。5階の501号は、作家小田実の住まいであった。彼はベトナム反戦運動に参加活動したことで有名である。阪神淡路大震災の時、彼はこのマンションの部屋で「万物落下」の中に埋もれたが、被災者に対する公的支援を求めた「市民立法」運動に力を尽くし、平成7年11月、被災者生活再建支援法改正案は衆議院で可決成立した。 

 さて河口を後にして、香櫨園駅へ戻る。その手前、川の右岸川西町は閑静な屋敷街であるが、『闘牛』や『氷壁』の作品で知られる井上靖は『あした来る人』の主要人物、実業家梶大助の自宅をここに設定している。登山家、カジカの研究者、デザイナーなどが、それぞれ明日の夢の実現に努力する過程で、梶が繋がってゆく。井上靖は新聞記者時代左岸の川添町に住んで、夙川になじんでいた。 

 国道2号線までは桜は少なくなるが、川沿いの松並木が美しい。さらに北上するとJR線をはさんで、再び両岸は桜で埋まる。 

 昭和8年から9年までさらに昭和11年から19年まで夙川に住んでいた、『日本沈没』などで有名なSF作家小松左京は、この付近の夙川界隈は幼時から少年時代をすごしたところだけに実に懐かしいと語っている。

 

 明治34年、公孫樹下に立ち夕日を浴びながら

 

あゝ日は彼方、伊太利の

七つの丘の古跡や

圓き柱に照りはえて……

 

 と雄大な詩を発表した薄田泣菫は、昭和の初めには夙川近くの分銅町に住んで、その家を「雑草園」と称し、ここで18年間病と戦いながら、随筆を書いていた。私は学生時代、この詩を声に出して朗読したものである。 

 右岸にある片鉾池周辺は明治40年の初め大遊園地香櫨園の中心地だった。その後、アララギ派の歌人中村憲吉がこの池の畔に住んでいた。 

 阪急夙川駅の手前の羽衣橋から、夙川カトリック教会の尖塔が見える。夙川のシンボルとして、県の景観形成重要建造物に指定されている聖堂は今年10月で80周年を迎える。今は耐震工事中で尖塔付近も工事の足場が組まれている。この聖堂は作家遠藤周作が洗礼を受けたところである。彼の追悼記事の中に稲田神父の話として周作が、子供の頃教会の塔から、小便したのにはまいったとある。作品『砂の城』には甲山や甲東園が出てくる。 

 そして、阪急の線路をくぐり、堤の階段を上ると、こほろぎ橋が見えてきた。ここから大井手橋、苦楽園口橋、北夙川橋と続くあたりは、夙川絶好の「さくら道」である。今までの桜の時期は屋台が並んでいたが、今年は出店が規制されていて、純粋に花と緑と流れを楽しめる。 

『恋のバカンス』や『君といつまでも』また『恋の季節』等の作詞、また『愛の讃歌』『サン・トワ・マミー』『ラストダンスは私に』などの訳詩で有名な岩谷時子は、この近くの安井小学校の第一回卒業生、西宮高女(市立西宮高校)を経て、神戸女学院を昭和14年に卒業した。その回想で「夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい叙情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命にみちびいたのではなかろうかと、今でも思うことがある」と語っている。

 夙川と中新田川との合流部分には飛び石があり、この付近、桜の時期は写真の絶好の撮影スポットとなっていて、飛び石の上でカメラを構える人が絶えない。 

 平成2年『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞し、『博士の愛した数式』でも読売文学賞を取り映画化もされた作家、小川洋子は苦楽園の在住である。さらに上流近くにある越木岩神社の「泣き相撲」の情景などが『原稿零枚日記』に登場する。 

「さくら道」は阪急電車が夙川を渡る路線の手前まで続く。 

 私は満開の桜の気と夙川ゆかりの文人たちの作品に込められた様々な想いを、こころ一杯に吸い込んで、帰途についた。 

                          (平成24年4月17日)

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:★:cosmic harmony
      宙 平
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