蒼氓(そうぼう)
文芸春秋社の創立者、菊池寛は芥川龍之介、直木三十五の相次ぐ死を嘆き、昭和10年、
彼らの名を残すために「芥川賞」と「直木賞」を創設した。その第1回芥川賞に選ばれた
のは石川達三の『蒼氓』(そうぼう)であった。これは、人民を意味する言葉であるが、
『氓』の字は流浪する民をあらわし、神戸に集まったブラジルへの移民する人達のことが
書かれている。
「一九三〇年三月八日。
神戸港は雨である。細々とけぶる春雨である。海は灰色に霞み、雨も朝から夕暮れどきの
ように暗い。三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道
を朝早くから幾台となく自動車が駆け上がって行く。それはほとんど絶え間なく後から後
からと続く行列である。この道が丘につき当たって行き詰ったところに黄色い無装飾の大
きなビルディングが建っている。後ろに赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・
ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是が「国立海外移民収容所」
である」
「この書き出しの文章はすごくいいぞ。本当に好きだなぁ。この本を読んだらいい」とい
って、昔この『蒼氓』の単行本を貸してくれたのは、私の従兄弟(私の父の弟の長男)の
渡利陽君だった。彼と私は小学校の同窓生であり、住んでいる家も近かった。彼は後に総
合商社ニチメンの社長になったが、平成27年10月7日、83歳で亡くなっている。そ
の彼が、戦後になってからだったと思うが、ブラジル移民を神戸港で見送った経験が有り、
その様子を私に語ったことがあった。
「もう2度と日本に帰れるかどうかわからない家族連れの人たちだからね。移民船の別れ
の様子は身にしみるよ。出航のドラが鳴るとね、プラスバンドがより高く演奏するのだが、
やがて、蛍の光の曲にかわる。船の甲板には移住者の全員が出て五色のテープを突堤の見
送りの人に向かって投げる。そのテープは細かい網目のようになって、誰がそのテープの
先を持っているか分からないようになってしまう。見送る人の中にも万歳を繰り返し叫ん
でいる人が居る。そして船はゆっくりと実にゆっくりと静かに突堤を離れてゆくのだ。テ
ープが延びはじめ、延びきったものから切れてゆく。その時、螢の光の曲が高鳴るとね、
涙が止まらなく流れ出てしまうものだよ」
先日私は、神戸メリケン波止場公園にあるブラジル移民「希望の船出」の家族の像を見た
とき、この渡利陽君の話を思い出し図書館で『蒼氓』を借りて再び読み返すことにした。
作者の石川達三は24歳の時、船賃の補助が出る「政府補助単独移民」として、950人
の移民団にまじってブラジルに渡っている。彼は作家志望だったがまだ自信もなく、渡航
したのは「若気の至り」で放浪のつもりだったと語っている。しかし彼は神戸の海外移民
収容所で集まった多くの移民志願者と一緒になって衝撃を受けた。それは国家が養いきれ
ずに仕方なしに外国に奉公にやられる人々の悲しい現実を目の当たりにしたからである。
そして、いつかこのことは書かなければならないと、心に決めたという。彼は45日の船
旅の後、日本人の農場に契約移民として入植したが、1ヶ月ほどで農場を去り、サンパウ
ロに滞在したあと、リオデジャネイロから北米を回って帰国している。帰国後紀行文『最
近南米往来記』を書き、移民政策を棄民と批判し、海外移民収容所を「国家の無力を物語
る国辱的建築物」と表現している。そのあとに書かれたのが『蒼氓』であった。
そこには移民収容所に集まった移民たちの8日間と神戸港からの移民船「ら・ぷらた丸」
の出航までが書かれている。移民志願者の中には身体検査でトラホームを指摘され、不合
格となり、妻と5人の子供とも悄然と荷物を背負い、坂道を下って去ってゆく家族もいた。
また詐欺・拐帯(かいたい)容疑で刑事に捕縄をかけられ逮捕され、拘束されてしまった
人がいて、その女房は泣き崩れていたが、やがて3人の子供を連れて坂道を下っていった。
それを見て「日本を逃げる気でいたべな」という人もいた。
作品のなかで中心として書かれているのは佐藤・門馬という秋田県出身の家族である。佐
藤家は姉と弟、門馬家は年老いた母と息子二人、そして門馬家長男の勝治は佐藤家の姉お
夏と形の上だけの結婚をしているのである。移民は満50歳以下の夫婦を核とした家族で
構成されていないと渡航補助費が出ないので、当時このように仮の家族構成を作って移民
する人達が多かったのである。実のところお夏には地元に好きな人がいてあまり移住をし
たくなかったのだが、強く移住を望む弟に言い出せないまま、故郷を後にしてきた。そし
て、弟とは「一年もしたら、仮の結婚は解消して日本に帰る」という約束をしていた。し
かしながら、渡航すると日本に帰るのもそう簡単なものではないことが、次第にわかって
くる。そしてお夏は地元にいる人のことを思い、どうするか苦しむが、やがてその後、自
分の運命を受け入れていくことになる。弟の孫市は門馬家次男の義三に徴兵を逃れるため
に移住をするのではないかといわれ、愛国心を疑われたとして、渡航は止めると自棄を起
こしたが、副監督に説得されて元に収まる。
彼らの多くは農村において、貧乏に苦しみ、故郷を捨て日本を家族ぐるみで離れる決心を
した人達であった。最初この収容所に集まってきたときは、風の吹き貯まりにかさかさと
散り集まってきた落葉の様な寂しさと不安に沈黙してきたが、日が経つにつれてお互いを
知り合い次第に心強くなって,落葉の身を忘れ、自分は海外雄飛の先駆者で、無限の沃野の
開拓者のように幻想するようにもなったのである。
移民取り扱いの海外興業会社から派遣された移民監督がやって来て、ブラジル語の講習会
が開かれ、腸チブスの予防注射なども何回か打たれ、収容所の前の移民用品廉売店で作業
服やその他必要物も買い整えた。そして、最後の日は講堂に集められ、船のベッド番号が
渡され、注意事項の後、900人余の移民が「海外渡航発展移住者諸君、万歳」と万歳を
三唱するのである。その間にも肺炎で臥せっていた子供が一人死んでいったという現実も
書かれている。そして出発。大きい荷物はトラックで船まで運ぶが、移民たちは肩に荷物
を担ぎ一団となって坂道を下り、海岸通りに出て第三突堤を目指した。そこには大阪商船
の巨大な汽船「ら・ぷらた丸」が停まっていた。パスポートの査定をして、タラップを上
がるともう移民たちは降りることは出来ない。日本の土を踏むことは出来なくなったのだ。
お夏は、皆が見送りの人と投げたテープで結ばれているデッキから、反対側に行って故郷
の好きな人に宛てた「3年たったら帰ります。帰らなければ、他の人をお嫁にもらってく
ださえ。私は諦めます」という、出さなかった手紙を欄干から投げすてた。3年も待って
もらえる筈もなく、これからどうなるか分からず、今では出しても何もならないと思う手
紙であった。
やがて、怒涛のような万歳の合唱が沸き起こり、楽隊が鳴り始めた。突堤に並んだ小学生
たちが日の丸の小旗を打ち振って歌いだした。
行けや同胞海超えて
南の国やブラジルの
未開の富を拓くべき
これぞ雄々しき開拓者¦
小学生たちが力一杯歌うなか、船は静かに岸を離れ始めた。延び切ったものからテープが
切れてゆく。船は岸を離れると方角をかえはじめた。孫市は姉のお夏がいないのに気がつ
いて探し始める。そして、階段を駆け下り居住室のベッドの陰で声を上げて泣いているお
夏を見つけた。船のエンジンの音が響いて、「丸窓の外の舷側に砕ける波の音がざッざッと
高く聞こえてきた。速力が加わったのだ」
第1回芥川賞受賞作品はここで終わっている。が、石川達三は受賞後に、第2部として
『南海航路』で渡航船の45日を書き、更にブラジルに入ってからの生活を第3部『声な
き民』で書いて、今では『蒼氓三部作』と言われている。
最終的に、お夏は仮の結婚をしていた門馬家の長男の勝治からの再度の結婚申し込みを受
け入れ、門馬家の年老いた母と弟、佐藤家の弟孫市共々、ブラジルの土に根を下ろし住み
着きたいと思うようになって行くのである。
私は『蒼氓』を読んだあと、神戸山手の山本通りにある「海外移住と文化の交流センター」
へ行った。昭和3年に完成した「国立移民収容所」であった建物をそのまま使って、1階と
2階部分は移民に関する資料の展示があるミユージアムとなっていた。海外移住の歴史を3
期に分けた年表があり、移住先で使った農具や、渡航時、日本から持参した道具などもあっ
た。また移住者の記念写真、証言映像、出航前のセンターでの生活や、出航時の風景の紹介
もあった。
私は2階の当時の様子を示すためにベッドを並べた部屋の中のテーブルの展示に、『蒼氓』
の書き出しの直筆原稿があるのを見つけた。そして、改めて石川達三がこの建物で過ごし
このベッドに泊まった昭和5年当時の状況について考えた。私が生まれた年の1年前に当
たる。この時政府は強く移民を奨励し、移民援助策を打ち出していた。この国立移民収容
所を建て、船賃を負担するほか、郷里から神戸までの交通費と収容所の宿泊費を無料にし、
さらに移住のための支度金も支給するようになった。それは日本内地の人減らしが必要だ
ったからである。
ブラジル移民が始まったのは、明治41年「笠戸丸」により、コーヒ農園などに働きに行
ったのが始まりであるが、アメリカへの移住が難しくなってきていたのも原因とされてい
る。元々日本の食料自給率には限界があり実際に人口が増えると餓死者が出たこともあっ
て移民はどうしても必要と考えられていた。そして、当時から日本の人口は5千万人が限
度と言われていた。昭和5年の日本の人口は6千4百45万人で今の人口の約半分である
が、それでも政府は「海外へ雄飛を」を旗印に一人でも多くの移民を募っていた。
この当時の状況とその背景は大きく変わってはいるが、今でも移民の問題は世界的な大き
な問題である。ヨーロッパでは移民受け入れ如何が各国のEU離脱問題にまでなり、アメ
リカファーストを唱えるトランプ大統領は移民受け入れを拒否し移民法の強化することを
政策としている。日本では食料自給率は依然として低いが、今は輸入食料に依存し、生産
年齢人口の減少から移民をもっと受け入れるべきかどうかが問題となっている。そのよう
な状況の今であるからこそ、明治以来昭和48年まで移民船による日本からのブラジル移
住がおこなわれていた事実は知っておく必要があると私は思った。しかしながら、立派な
展示にもかかわらず、交流センターの見学者は私以外この時、誰もいなかったのは寂しい
ことであった。
交流センターを出て、私は「移民の坂」を元町へ向けて下った。神戸の人たちはかって
出航する時、移民の人たちが集団で坂を下った、鯉川筋に通じるこの道を「移民さんの坂」
と呼んでいる。この道には黄色い花を咲かせるブラジルの「イベの木」が道沿いに植えられ
ている。そしてJR元町駅東側にある交番はブラジルの荘園の建物をイメージしてコロニア
ル風に建てられている。ここまで坂を下ってきて私は突然気がついた。「JR元町駅が出来
たのは昭和6年だ。『蒼氓』に書かれている昭和5年{1930年}の三ノ宮駅とは実はこ
の今の元町駅のところにあったのだ。この場所こそ当時の三ノ宮駅だったのだ。三宮神社も
近かった」私は駅の東口に立ち、多くの移民が通った波止場に通じる鯉川筋の南の先を眺め
て、日本を去って移住した人達のことを思い感慨にふけった。
(平成30年4月22日)