From Chuhei
その後の昭和一桁エッセー交流

昨年の11月に発行されたエッセー集『中之島の風』の一冊を、私は昭和一桁生まれ同 士のエッセー交流をしていた小西忠彦さんに郵便レターパックで送った。

この本のなかに私(昭和6年生まれ)は忠彦さん(昭和2年生まれ)とのエッセーに よる交流のことを書いた作品「昭和一桁同士のエッセー交流」を載せていた。

今ではほとんどの人が知らないが、戦時中に阪急西宮北口駅のすぐ西南に「西宮航空園」 があった。そのことを書いた私のエッセーを、Webでみられた次女の方を通じて、昔 その航空園の隣にあったグライダー製作所の仕事をしておられた忠彦さんが知って、手 紙と自筆で原稿用紙に書かれたエッセーが私に送られてきた。そして、昭和一桁生まれ 同士のエッセー交流が始まった、という話であった。

『中之島の風』に載せた私の「交流」のエッセーはすでに、他の仲間にはメールで送り、 またe-silver西宮のホームページにもアップしていたが、忠彦さんはインターネットの 環境ではなかったので、私が「交流」のエッセーを書いていたことも知らせておらず、 送った本を読まれて、初めて知られることになる。私は忠彦さんのエッセーに書かれた、 マレー沖海戦を体験された警察での同僚の方の話、加藤隼戦闘隊の黒江少佐と思える方 の話、戦後、日本人で韓国空軍少佐になった方の話、などをそのまま断りもなく少し 要約して載せていたので、送った本について、どんな反応が返ってくるか、少し気に なっていた。

本を送ってから、2週間後忠彦さんからの封筒が届いた。最初に長女の方からの手紙が あり、7月に、父(忠彦さん)は転倒し、くも膜下血腫の手術を受けていたという知らせ があった。しかし今は元気を回復し、地元の介護施設で元気に暮らしている。そして私の 送った本を受け取って大変喜んでいる。家族で読んだところ、そのなかにまだお会いした ことがないという文章があったので、写真を送ったとあり、忠彦さんが元気になられて、 ご夫婦で写っている写真が同封してあった。西宮に住んでおられて忠彦さんに「航空園」 のことを書いた私のエッセーを伝えた次女の妹は今、東京で暮らしています、ともあった。

そして、忠彦さん直筆の手紙には、今、高松のリハビリホームで老化回復の訓練をして いる。送ってもらった『中之島の風』は大変立派な本で有難く読ましてもらっている。 その本の「交流」のなかに忠彦さんのエッセー原稿を披露してもらって恐縮している。 そしてうれしいことに、地元高松の四国新聞社文芸部の「随筆」に応募したところ、 第二席で入賞して新聞に全文が発表されたのでそのコピーを送ったとあって、令和元年 11月4日の新聞切り抜きが送られてきていた。

これは四国新聞がテーマを決めて400字詰原稿用紙3枚の自作随筆を募集していたもの で、この時のテーマは「記念日」というものであった。このテーマで応募して忠彦さんは こう書いていた。

「92歳の人生を送ってきましたがふり返ってみて、特に印象に残る出来事と言ったら 終戦記念日です。当時私は、九州は久留米市の西部一四八部隊(旧久留米歩兵連隊)の 徴兵年齢繰り下げ組、数え歳十八歳の初年兵で入隊中でした」

終戦間近には毎日、対戦車肉弾特攻隊員として木製の戦車を、めがけて、一兵士が敵戦車 一台と相討ちする目的の特別の訓練があり、当時の上官は、お前らにはこの作戦が一番ええ、 しかしこんな訓練のことを手紙にも書いたら一発で軍のブタ箱入りだから気を付けるように、 と脅されていたという。

そして敗戦となり、久留米貨物駅での作業中、巡察将校とのトラブルになるのだが、その あとは「交流」のなかの「隼戦闘隊こぼれ話」に続いていくのである。しかしトラブルを 納めたのは少佐の元隼戦闘隊長とあるだけで、黒江少佐という名前は応募随筆には出て こなかった。

この作品の選者の評もこの新聞には載っていて「敗戦直後の貴重な記録として掲載させて いただく。戦争末期、兵士一人が敵戦車と相討ちする訓練を受けていた。戦後の混乱のエ ピソード、作者には走馬灯のような思い出」とあった。

私はこの作品から、先の大戦末期の日本で、本土決戦が叫ばれ軍人は勿論、国民の男も女も 少年も少女も、国民義勇兵役法による国民総玉砕といえるような体制に向かっていた時期が あったことを思い出していた。
海軍の兵士は一人一人爆薬を抱いて海に潜り、迫ってくる敵の船舶に体当たりする。陸軍の 兵士は蛸壺と呼ばれる壕を掘ってそのなかに潜み敵戦車と相討ちする。国民は義勇兵となって、 竹やりをもって敵兵にぶつかってゆく。そんな訓練が各所で行われていた。特攻隊も最初の うちは、神よ、崇高な魂の持ち主よ、と讃えられていたが、特攻機も燃料も兵器も対抗する方 策もなくなってくると、一人一人が肉弾でぶつかるより仕方がなく、特別攻撃は特別でなくなり、 玉砕が当たり前となっていった。そんな狂気のような総玉砕への流れが止まったのが、終戦で あった。私には忠彦さんが、人生で「特に印象に残る出来事」は終戦記念日だと言われている 本当の気持ちが、伝わってきたように思った。

私は入賞された応募随筆を読んだ感想を書き、令和元年5月に書いた従軍看護婦の方たちの証言 を中心にしたエッセー「火筒の響き追い迫る」のコピーを一緒に封筒に入れて送った。

そして、再び忠彦さんから封書が届いた。返信と四国新聞の切り抜きと原稿用紙に手書きされた エッセーのコピーが入っていた。まず返信には「読ませていただいた『火筒の響き追い迫る』は すばらしい一編だと思いました。婦人従軍歌は私の姉がよく歌っていて、私も良く覚えていて 思わず口ずさみました。従軍看護婦の方たちの証言や語りの内容は絶やすことなく未来に語り継 いでいかなくてはならないものです」と、あった。

そして令和元年7月15日の四国新聞の読者のページ「こだま」に掲載された作品『大串にいた空母』 が切り抜きで入っていて、これが掲載されたときは多くの人から電話をもらった、ご覧いただければ 幸いですとあった。

これは、あの終戦時、日本の航空母艦はほとんどが沈没して使い物にならなかった。そこで、油輸送船 「しまね丸」を改造して本土を守る「護衛空母」として神戸の造船所でほぼ完成させていたが、空襲が 激しくなりこのままでは危ないと思い、さぬき市大串半島の沖に疎開させた。艦上に樹木を置いて一見 島のようにしたが、みやぶられ空爆され沈座したものの沈没はせずじまいで、まるで弁慶の立ち往生の ようにそのままの姿で残っていた。

忠彦さんは地元の駐在所に勤務していた関係で空母「しまね丸」の最後の解体を見守った。今では数少 ない解体目撃者の一人となった。現在は現場近くに説明板があり、その横にかつての無線マストが、警 鐘台として使われていたものが残っている、という話だった。

私はこの話から、第二次世界大戦の最大の航空母艦だった「信濃」のことを思い出した。大型戦艦大和型 として、計画された「信濃」は大型空母に改造設計され、昭和19年11月28日、空襲を避けるため、 未艤装のまま横須賀から呉へ回航される途中、紀伊半島潮岬沖合で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。 竣工から沈没まで、わずか10日間の艦の命であり、出航してからはたったの17時間での沈没で、世界 の海軍史上最も短い軍艦の活動歴となった。勿論戦時中は極秘とされたが、戦後報道され、私は生存者の 著作を読んでこのことを知った。

「しまね丸」にせよ「信濃」にせよ、空母としての活動は全く出来ないまま消滅してしまっていることは、 戦争末期、制海権も制空権もアメリカ軍に奪われて、断末魔にあえいでいた、当時の日本の姿をそのまま に表していると私は思った。

そして封筒に入っていた忠彦さん手書きのエッセーは400字詰原稿用紙1枚と5行に書かれていた。 タイトルは「今は亡き半島出身の戦友を偲びて」とあって、忠彦さん17歳の時赤紙召集を受け、久留米 の西部一四八部隊に入隊したとき、朝鮮半島から同じ赤紙召集で来ていた同じ年の、金という少年と戦友 になった。二人とも旧制中等学校を卒業していて、幹部候補生の受験資格をもっていたので仲良しになり、 二人とも軽機関銃の射手に選ばれた。ともに受験しよな、と約束していたが終戦となった。

金君は新設される韓国軍の士官学校入学の話がまとまり、忠彦さんは警察官になると再約束をした。その 後金君からは少尉に任官したとの手紙が来た。忠彦さんも香川県警の警察官になり駐在所勤務をしている と返事を出した。その後、文通が途絶え、彼の友人の話では、朝鮮戦争で戦死したとのことだった。

金君は同じ朝鮮民族同士の戦いで大事な命を亡くしてしまった。まことに惜しい人物を亡くしたと思う。 今の韓国の対日本、対アメリカの対応にひびが入っている状況では、金君は天国からさぞ、嘆いていると 思う。と、このエッセーは結ばれていた。

昭和一桁世代が戦時中、国民学校でならった地理には朝鮮半島に13道の行政区画があった。例えば京畿道、 全羅北道、慶尚南道などだった。道は北海道の道と同じ、都道府県を表すものだった。これらの道を故郷に もつ人は国民学校のクラスにも数人はいた。私はみんな同じ国民と思っていたし、別に違和感もなく つきあっていた。半島の13道が、植民地などとは思ってもみなかったし、誰もそんなことは言わなかった。 忠彦さんのように同じ軍隊で戦友となって幹部候補生の受験を目指すことを約束することも、不思議では なかった。終戦が二人の運命を変えた。私は日本列島の国も朝鮮半島の国も、兄弟のようなものだと思って いる。兄弟喧嘩は何時もしているが、根本では繋がっていて、支え合わなくてはならないのである。

忠彦さんのエッセーは先の大戦中か終戦時に自ら体験された事実を、そのまま率直に、伝えたいという熱意 を込めて原稿用紙に書き記しておられる。その事実を読むと、それに関連して私が過去に忘れ去っていた体 験や、聞いた話や昔読んだ記事や本の、記憶の断片が、私の頭のなかを駆け巡る。それがまとまってくると、 それが私のエッセーを書く原動力となってくる。

令和2年の正月、今年も忠彦さんから年賀状が届いた。満年齢92歳、なお書き続けられておられるパワー に対し、88歳の私がどこまで文通で戦争関連のエッセーを書き続けられるのか。それでもなんとかして、 出来る限りエッセーの交流を続けられることを願っている。

(令和2年1月4日)

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宙 平
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