From Chuhei
今年2010年8月15
日、甲子園球場では高校野球、第二試合明徳義塾と興南
の対戦前に12時7分から
1分間、戦没者に対しての黙祷が行われました。
私はその時3塁側アルプス
席で、夏帽子を胸に黙祷しました。(NHKテレビ画面)
終戦後も甲子園球場はアメ
リカ軍に占領されていました。(甲子園歴史館)
銀傘のない戦時中の甲子園
球場です。(甲子園歴史館)
スポーツと戦争
「戦争は人を殺 す。スポーツも戦いだが、戦いが終わると握手して仲良くなれる」ベルリン
オリ
ンピックのマラソン競技で優勝した孫基禎さんの言葉である。
孫
さんは1912年、今の北朝鮮新義州生まれ、1936年のベルリンオリンピックには、
日本
代表として出場した。
私
が孫さんのベルリンでの活躍を見たのは、1940年日本で封切られた映画「オリンピア」
の中
である。私が小学校3年生の時であった。この映画は「民族の祭典」「美の祭典」と分か
れて
上映され、1938年国際映画祭の金賞に輝き、不朽の名作とされている。監督は女流レ
ニ・
リーフェンシュタインで、オリンピック祭典の美の極地を追求したものと言われた。
私
は大阪難波高島屋の前の南街劇場で観た。日本での映画の人気は最高に達し、劇場は超満
員だった。
記
憶に残っているのは、マラソン競技で先頭を走る孫さんに欧米人の選手が並びかけるとこ
ろで
ある。孫さんは軽く手を上げ、会釈をする。友好の気持ちと余裕が感じられるこんな場面
に、
私は引き付けられて、胸を躍らせた。
このベルリンオ
リンピックでは、49の国と地域が参加し、日本は金6、銀4、銅8とメダル
を取
り大いに活躍した。この時の競泳女子2百メートル平泳ぎの決勝は「前畑がんばれ!」を
連呼
する白熱したラジオ放送で有名である。そして、この時の閉会式では次のオリンピック開
催地
1940年、東京で会いましょう、ということになった。
しかし戦争はこ の年の東京オリンピックを開かせなかった。1939年ドイツはポーランド
へ侵
攻し、第2次世界大戦が勃発し、日本も中国との戦線拡大を収拾出来なかったからである。
孫
さんの行動のように、戦いであってもオリンピックは、参加者同士の友情を深める。しか
し戦
争では、相手を憎み、相手を殺し、他民族との差別を助長する。ベルリンオリンピックを
開催
したヒットラーは、期間中はユダヤ人の迫害や、有色人種の差別発言を一切抑えていたが、
戦争
が始まると、それが以前にも増して激しくなった。そして戦争が進んで行くにつれ、オリ
ン
ピックが出来た時代というのは、遠いはるかな昔の夢の世界となっていった。
私は甲子園近く の今津町に生まれた。子供の頃、球 場とその付近はスポーツとレジャーの理
想郷のように思っていた。
当時の全国中等 学校優勝野球大会の開催の時、甲子園球場は人の波に囲まれた。私はある夏
の
日、従兄弟たちと球場で食べた激辛のカレーライスの味とカチ割り氷をはっきり覚えている。
子供
の遊びとしては野球で有名な中学校の名前の入った「ベッタン(メンコ)」があった。海
草中
学・平安中学・中京商業などがあったことを覚えている。
球
場から南西側にかけては、有名な甲子園テニスクラブがあり、整備されたテニスコートが
並ん
でいた。また浜甲子園には、甲子園南運動場がありラグビーなどの試合が行われていて、
父と
観戦に行ったことがある。さらに浜側には浜甲子園阪神パークがあり、水族館や鯨の池が
あっ
た。その東側の鳴尾には競馬場やゴルフ場もあった。
その甲子園にも
戦争の影がさし、1941年(昭和16年)から全国中等学校優勝野球大会は
中止となった。そ
して、この年の12月8日に日本はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。
1943
年に入ると、海軍の鳴尾飛行場が浜甲子園阪神パークや鳴尾競馬場などを接収して建
設さ
れた。甲子園球場のすぐ東南までが軍用飛行場となった。1944年には、陸軍暁部隊が
甲子
園球場西北にあった甲陽中学に駐留し、球場のアルプススタンド下室内プールも陸軍の音
波研
究所となり、南運動場の建物にも暁部隊が入っていた。
私
も甲陽中学では軍隊と一緒だった。校門に衛兵が立ち、入門する時は他の生徒と組んで整
列し
「歩調とれ!」と号令をかけて「かしら右(左)!」で敬礼した。
1945年には、私達の学年も学徒勤労動員となった。クラスによって行く所が違った。甲
子園
の内野スタンドや外野スタンド下には、軍需兵器の部品を作る旋盤工場などが入っており、
そこ
で働くクラスが多かった。が、私のクラスは阪神電車尼崎車庫工場に配属になった。
こ
のように、スポーツの理想郷甲子園が、たちまち陸海軍の一大軍事施設となった。これは
空襲の標的にされやすいことにもなる。
6
月9日の爆撃では、鳴尾飛行場に続く川西航空機製作所はじめ付近の工場は建物の大半を
破壊
される被害を受けた。この時、甲子園球場には爆弾が落ちなかったが、その後、たえず襲
来し
てきていた艦載機の機銃掃射を受けていた。その弾痕あとが残る鉄の門扉が、球場の改装
までは残っていた。
1945年8月5日夜から6日の未明にかけて西宮市の住宅地帯を焼き尽くす広範囲の焼夷
弾空
襲があって私は弾雨の中を走って逃げ、家は全焼した。街には黒焦げの死体が転がってい
た。
甲子園球場も、その一帯にも油脂焼夷弾が降り注いだ。甲子園に住んでいた私の友人は家
族や
付近の住民と球場に逃げ込んだが、たどり着くまでに直撃を受けて倒れた人、焼死した人
々も
多かったと語っていた。
私はすぐに親類の家に寄寓し、そこから動員先
の尼崎車庫工場に行った。その時、甲子園球
場の
跡片付けを命じられ、空襲直後の球場内に入った。
私はその時のことをシルバーインターネット同
好会の「e―silver西宮」ホームペー
ジ
エッセー集に投稿していた。そのエッセーが神戸新聞の記事になったこともあったが、それ
が今
年8月NHKテレビ、ニュースウオッチ9のシリーズ「戦跡は語る」―戦時下の甲子園の
知ら
れざる歴史―の放送取材を受けるきっかけになった。
2010年8月15日、高校野球の甲子園球場は超満員だった。私はNHKの記者
とともに3
塁側
アルプススタンドに入って、第一試合、報徳と福井商業の対戦が終わったとき、私の席を
確保
してもらった。次の試合明徳義塾対興南の興南側だった。終戦記念日のこの日、戦没者に
対し
ての1分間黙祷の時間がある。正午が決まりであるが、この日は丁度第2試合の始まる前
12時7分に始まった。選手は一列に並び、観客は一斉に立ち上
がって目をつぶった。カメラマ
ンだ
けが、下から私を写していた。
「戦
時中の甲子園とくらべて、今どう思われますか?」試合が始まって記者がマイクを出して
聞い
てきた。
「あ
の空襲の後の球場には、グランド全面一杯に油脂焼夷弾が突き刺さっていました。銀傘も
なく
まるで廃墟でした。野球なんかもう出来ないのかと思いました。
今、選手も懸命に野球をやり、みんな応援も懸命にやっている。すばらしいことです。しか
し、
これは平和だからこそ出来るのです。このことを知ってほしいと思います」と私はいった。
放送は8月20
日NHKテレビ午後9時、ニュースウォッチ9で私の姿と声が全国に放映された。
戦争があれば、野球大会は出来ない。勿論オリンピックも開けない。テロが頻発しても出来
な
い。スポーツの大会は正に平和が生み出したものなのである。
甲子園球場は終戦後もアメリカ軍に占領され、野球大会が出来るようになるのは、
1947年
のことである。
(2010年9月11日)
■■◆ 宙 平
■■■ Cosmic Harmony
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