From Chuhei
スターリンの北海道への占領を
防ぎぬいたあの8月の日々

75年前、昭和20年8月15日、中学2年生の私は、10日前の8月5日深夜から 6日朝にかけての、西宮空襲による一面の焼け野原のなかの我が家の焼け跡に、 父といた。

昼過ぎに、顔見知りだった近くに住んでいた友達のお父さんが、焼け跡を歩いてきて 「変な噂を聞きましたか、日本が負けたという……。今、甲子園にいる暁部隊に本当 かどうか、聞きに行こうと思っていますんや」といった。父は「今日の昼、天皇陛下の 重要放送があるということだった。多分負けたのかもしれない」とぽっつりといった。

その日、空襲で家が焼けたため、寄寓していた千里山の親類の家に帰るのに、阪神電車 で梅田に着くと多くの人が、新聞を買い求めるのに群がっていた。新聞には「帝国 ポッダム宣言受諾」とか「聖断降る 四国宣言受諾」という言葉が大きく出ていた。 私はこの時初めて、ポッダム宣言という言葉を知った。

ポッダム宣言は昭和20年7月26日にイギリス首相、アメリカ大統領、中華民国主席 の名において日本帝国に対して発せられた、日本への降伏要求の最終宣言だった。日本 軍隊の無条件降伏を求め、降伏後の日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びに 我々の決定する諸小島に限られなければならないとしていた。ソビエト連邦のスターリン 元帥はすでにこの時、日本に対し参戦する意向を決めていた。が、7月21日に原爆実験 の成功の知らせを知ったアメリカ大統領トルーマンは、原爆投下により、ソ連の参戦が 無くても日本を最終的には降伏させることができると考えて、この時点で、ソ連抜きの 3か国でポッダム宣言を発したのだった。アメリカにはどうしてもソ連抜きで日本の 降伏を勝ち取りたいという思惑があり、ソ連には日本の降伏する前に日本に宣戦して 攻め込み、最終的に南樺太・千島列島・そして北海道を領土として確保したい。とする 戦略があって、すでに激しい冷戦が始まろうとしていたのである。

7月27日、日本はポッダム宣言を受けたことは発表したが、その回答を見送った。 それを「黙殺」と報道された。この言葉は「拒否」ともとられ、スターリンが日ソ中立 条約を破棄し、ソ連を頼りに和平工作を進めようとしていた日本を突き放して、対日宣 戦布告をして満州、朝鮮北部、南樺太、千島列島に攻め込む口実になった。8月6日、 広島に原爆投下。8月8日、ソ連、対日宣戦布告、ポッダム宣言発令国に加わる。8月 9日未明、ソ連極東軍が満州に攻め込む。長崎に原爆投下。8月14日、日本政府 ポッダム宣言受諾。8月15日、玉音放送。天皇が日本国民にポッダム宣言受諾を告げた。

私はソ連を含む四つの国の降伏要求宣言を日本が受諾したので、とにかくこれで一応 戦闘は終わった。空から爆弾を落とされたり、機銃掃射をされたりすることは、もう ない、夜には明かりをつけて、ゆっくり寝られる。と、思ったことは事実である。

ところが、スターリンは戦闘が終わったなどとは、考えてなかった。これから日本本土 の占領が始まる。日本本土にソ連の占領地をどれだけ確保できるか、が、彼の勝負だった。

ソ連軍は8月11日から南樺太に侵攻を開始し、日本の国境警察隊は陸軍部隊とともに、 ソ連軍を迎撃して戦っていた。また8月13日には国民義勇戦闘隊(6月24日に発布 された戦闘教令)の召集も行って戦いに参加していた。8月15日が過ぎても、ソ連の 侵攻地区ではなお戦闘が続いていた。

8月16日、スターリンはアメリカのトルーマン大統領に書簡を送り、留萌―釧路以北の 北海道をソ連が占領することを要求した。そして、すでにその時より以前に、北海道に上陸 の命令書を出していたことは、ソ連崩壊後に公開された公文書に残されている。トルーマンは この要求を拒否するが、スターリンは無視、その後南樺太のソ連歩兵軍団に、北海道上陸の ための船舶の用意を指示している。

この8月16日、日本の大本営は、各方面軍に戦闘行動の即時停止を命令。自衛目的の 戦闘行動も8月18日午後4時までには終了するように指示を出した。

その8月18日、早朝の午前2時、千島列島の最北端の島、占守島にソ連軍が上陸を開始し 侵攻してきたのである。この報告を受けて、札幌にいた第五方面軍司令官の樋口季一郎 中将は、戦争が終わっている筈なのに、なお攻め込んでくるソ連軍に北海道占領を目指 している恐れを感じた。ここは自衛のため、やむを得ず侵攻を何とか食い止めねばならない、 と判断して「断固反撃に転じ、ソ連軍を撃退すべし」と現地の堤師団長に指令を出した。 その判断をよく理解した、占守島の砲兵部隊は上陸するソ連軍に一斉に砲撃を開始した。 池田大佐率いる戦車隊の戦車39両、軽戦車25両は敵陣に向かって突撃した。そして 隣の幌筵島の部隊も船舶工兵の舟艇によって占守島へ移動をして戦闘に参加した。激しい 戦闘が続いた末、昼過ぎにはソ連軍の占拠していた要所を奪還し、相手をせん滅する 有利な状況となっていたが、午後4時停戦命令により、日本軍の攻撃は中止した。しかし、 武装解除はしなかったので、部分的な自衛戦闘は続いていた。8月20日、幌筵島との 海峡を通過するソ連の艦艇との砲撃戦があり、戦闘が再開していた。一方停戦交渉は 進められ、現地で停戦条約が結ばれ8月24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は 武装解除した。

この戦いで日本軍の死傷者600人に対し、ソ連軍の死傷者は3000人と言われ、 ソ連共産党機関紙の記事にも「占守島の戦いは、満州朝鮮における戦闘よりはるかに損害 が甚大であった」と述べられている。連合国軍の日本本土占領に先んじて、千島列島を 一気に南下して樺太のソ連軍部隊とともに、北海道に上陸して占領地の確保を図ろうと したスターリンの作戦計画は、占守島の攻防戦により、出足からつまずき狂いが生じた のである。

私はこの戦いがソ連軍に大きな打撃を与え、停戦終了が8月24日まで長引いたこと により、スターリンに北海道占領を、断念させる原因になったのは間違いないと思って いる。また、すでに終戦の詔勅が下り、戦闘命令権も無くなった、樋口司令官がよく 「撃退すべし」という戦闘の指示を出したものだと感服している。樋口司令官の 『遺稿集』には占守島の戦いについて次の言葉が残されている。

「私自身はソ連が更に進んで北海道本島を進攻することがないかと言う問題に当面した。 相当長期にこの問題に悩んでおり、一個の腹案を持った。ソ連の行動如何によっては自衛 戦争が必要になろうということだ」

樋口司令官は8月18日、撃退命令と同時に、日本の大本営に打電し、大本営からマニラ のマッカーサー連合国軍最高司令長官に、ソ連軍に停戦するよう指導を要請している。 ところがソ連軍最高司令部はそのマッカーサーの停戦の要求を拒否していたのである。

マッカーサーがマニラにいたのは、今まで南西太平洋最高司令官として、フィリッピン で指揮を執っていたからであった。連合国軍最高司令長官となって、日本を占領統治する に当たり、その統治計画案について、ソ連は、千島列島、北方四島と北海道占領を主張 していた。そして、アメリカ・イギリス・ソ連・中国による連合国分割統治案も検討された。 しかし、結局は連合国軍最高司令官がいる総司令部によって日本の全本土占領統治を実施 することが決まり、最終的には日本の行政機関を利用する間接統治方式となった。

マッカーサーは日本がポッダム宣言受諾後も、日本が占領されることに徹底抗戦を叫んで、 連合国軍の日本進駐を阻止しようとする日本軍の抵抗勢力がいることもわかっていた。 そんな抵抗が予想されるので、70万人を超える兵力を日本に派遣するブラックリスト 作戦も考えていた。しかしもし戦闘がおこり、日本完全進駐が遅れるようなことがあると、 ソ連が北海道に上陸してくることは間違いないと考えていた。そこで、マッカーサーは まずマニラに、降伏文書に調印するため、降伏軍使を派遣するよう日本政府に命令してきた。 日本本土への進駐に際し、抵抗勢力との戦闘などがない無血占領を、早期に行うためには、 日本側との打ち合わせが必要と考えていたからである。そしてその際、日本から派遣する 飛行機は全体を白く塗り、機体に日の丸でなく、緑色の十字を描くように指示した。

昭和20年8月19日、早朝6時、飛行場に残っていた海軍の中型攻撃機(一式陸攻) を白で塗り固め緑十字を機体に描いた2機が、降伏軍師全権の陸軍河辺虎四郎中将、 海軍横山一郎少将、外務省岡崎勝男調査局長を含む、一行17名を乗せて、木更津航空隊 の飛行場を飛び立った。

私は今年(令和2年)の5月までこの緑十字機のことは聞いたことが無かった。新型 コロナで自宅自粛中に、今までの録画を整理中、まだ見ていないビデオ映像、テレビ朝日 で平成28年8月14日に放映された『緑十字機 決死の飛行』を見て初めて知った。

決死の飛行と言うのは、この時点ではまだ日本軍の武装解除はしていないし、アメリカ 軍も臨戦態勢は解いてはいなかった。厚木飛行場には海軍三〇二航空隊の司令官小園安名 大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりすると広言 していた。降伏軍使の搭乗機も攻撃の対象にするとして、警戒飛行を続けていたからである。

低空飛行で脱出した緑十字機は沖縄伊江島に到着し、そこからマニラまでは米軍の輸送機 で送られた。マニラでは連合国軍の日本本土進駐について、入念な打ち合わせが行われた。 日本側は抵抗勢力を抑え準備を整えるために、出来る限り先に延ばしたかったが、ソ連の 北海道上陸よりも先駆けて、連合国軍の日本本土進駐の日を決定する必要があった。8月 26日に先遣隊、8月28日にマッカーサー連合国軍最高司令長官が厚木飛行場に進駐する ことを決めた。なぜ厚木を選んだのか。B―29爆撃機を一番撃墜させていたのが、厚木 航空隊であり、最後まで進駐に抵抗している厚木航空隊を制圧して、無血で厚木に降り立 つことは、新しい日本本土の統治者マッカーサーの姿を、日本国民にも、また スターリンにも印象づける必要があると考えたからだと、私は思っている。

帰り、伊江島で緑十字機の2番機が故障し、1番機だけが夜間飛行で帰国することに なった。ところが、その1番機が紀伊半島上空で燃料切れを起こした。そして天竜川河口 の鮫島海岸に不時着を強行するのである。8月21日地元警防團に発見され、トラックに 乗って浜松飛行場へ、そこで駐機していた重爆撃機飛竜に乗り、一行は全員無事に調布飛 行場へ帰り着いた。

直ぐに、軍令部は厚木航空隊の制圧にかかり、マラリアに感染していた小園司令官に、 麻酔薬を打って、野比海軍病院に移送監禁し、抵抗する士官たちを説得した。8月21日 午後、山田航空長は自決し厚木航空隊は制圧された。徹夜の撤去作業により飛行場は整備 された。8月22日、マッカーサーの日本本土無血進駐の見通しが明確になり、スターリン は北海道の占領を中止した。が、ソ連軍は8月28日択捉島、9月1日色丹島、9月2日 国後島、9月3日歯舞群島へと、上陸占領を続けた。連合国軍の先遣隊は台風のため、2日 遅れて8月28日、マッカーサーは8月30日、厚木飛行場に降り立った。 日本がポッダム宣言を受諾しているにもかかわらず、北海道を占領したいという、スターリン の野望を打ち砕くために、占守島で犠牲者を出しながら激しく戦った人たち、そして緑十字機 の決死の飛行で、マッカーサーの無血進駐を速め、北海道占領をスターリンに諦めさせる活動 をした人たち、そんな人たちが北海道占領を防ぎぬいたのが、75年前の昭和20年の8月の 日々であった。収束油脂焼夷弾の火の雨から生き残った私にも絶対に忘れられないあの8月の 日々であった。

ソ連が崩壊しロシアに変わっても、択捉、国後 色丹 歯舞群島の島々は、いまだに返還 する気配は無い。これらは連合国軍が日本本土に無血進駐した時から後に、スターリンに より上陸占領された島々である。

(令和2年8月7日)

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宙 平
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