焼夷弾が日本列島に降りそそいでいた    宙平氏  平成19年4月22日投稿

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 この写真は私の住んでいた西宮の1945年8月5日〜6日の大空襲により消失した部分(赤い部分)を示しています。右の六角形は甲子園球場です。左の下方は夙川です。当時はこの消失部分が住宅の密集地であり、中心でした。
 

 下は当時の婦人の一般的な服装です。西宮市平和資料館で撮影しました。
その足元にあるのが、焼夷弾の残骸です。焼夷弾といっても意味の通らない時代となっていますので、記録として焼夷弾のことを書いてみました。
 


 

    焼夷弾が日本列島に降りそそいでいた 

 

               

 今から六十二年前、日本の多くの都市は、アメリカのB―二九爆撃機による、連日焼夷弾の爆撃を受けていた。「昨夜、また焼夷弾の洗礼を受けましたよ」など、当時、よく洗礼という言葉を使った会話があったことを、当時中学生だった私は覚えている。

 

 焼夷弾爆撃の歴史の中で、黄燐焼夷弾を使ったのは、一九四三年のアメリカとイギリス軍によるハンブルグ空襲、一九四五年のドレスデンの空襲などがある。そして日本軍による重慶の空襲でも一部黄燐焼夷弾が使われたとされている。この黄燐弾は、燃える時間が長く臭気が強く、黄燐の蒸気により人や動物に化学火傷を引きおこすこともあるとされる。

 

 私が直接焼夷弾(不発弾)を手にして見たのは、一九四五年の六月のエレクトロン焼夷弾とその年の八月の油脂焼夷弾爆撃の時である。この年の日本への焼夷弾爆撃はほとんどが、この二種類であった。そして、戦争末期には油脂弾にナパームが使われていたとされている。私はこの焼夷弾という兵器は、無差別に非戦闘員である住民の住居を焼き尽くし殺傷するための、最有力なものだったと思っている。もっとも当時の私も住民の大半も、非戦闘員であることは事実だが、竹槍を持ってでも戦闘には参加しなければならないと思い込んでいた。

 

 日本本土への初空襲は一九四二年の空母発進のドウリットル中佐の率いる東京の爆撃だが、一九四五年に入って、三月の東京大空襲以後八月十五日までの間は、日本列島は正に空襲列島であった。特に大阪・名古屋・神戸などの大都市への何回かの大空襲が終わった後、六月頃からは、アメリカ軍により、一八〇の中小都市が、住宅の密集性、延焼性などの高いことを基準に、焼夷弾爆撃指定都市になり、ほとんど毎夜のように、三ヵ所から四ヵ所は焼夷弾の雨が降り注いでいた。例えば私の体験した西宮空襲は、八月五日夜から六日未明の一三〇機による本格的な住宅地帯に対する大空襲であったが、この同じ日の同じ時刻に、別のグループで芦屋・御影の空襲をはじめ、佐賀・前橋・今冶を同じように空襲していた。

 

 私はこの終戦前四ヶ月の期間に、大規模なものだけでも六十カ所を越える日本各地の中小都市の住宅密集地が、徹底した焼夷弾爆撃により全くの焦土となってしまったことは、戦争の歴史の中でも大いに着目すべきことではないかと思っている。

 

 さて、私とエレクトロン焼夷弾との出会いは、尼崎の阪神大物駅の南西に当たる、阪神電車の車庫工場であった。当時私は中学二年生であったが、勤労動員のため「甲陽学徒隊」という腕章をつけ、ゲートルを巻いて出勤していた。工場では電工小隊に配属され、作業服に着替え、アーマチャ(モーターの回転子)の接触部分を磨いていた。

 

 尼崎は大阪に隣接した工業地帯として、何度も爆弾による空襲を受けていた。六月のこの日は、前日に空襲があり、工場には被害がなかったが、工場の裏の空き地には、銀色に光る数発の不発焼夷弾がころがっていた。形は六角形で直径五p、長さ三五pあった。明らかにエレクトロン弾であった。この焼夷弾は、マグネシュウムとテルミットと呼ばれているアルミニュウムと酸化鉄の混合物とで出来ており、点火して熱せられると高熱を出して白く激しく輝いて燃焼し、一瞬のうちに溶解してしまう。貫通力があり温度は高いが、反面、影響範囲は狭く、短時間で燃え尽きるというところもあった。

 

 昼の休みの時間に、私と電工小隊の仲間三人で不発弾を一発ずつ抱いて広場の横にある変電所の建物の階段を登っていった。(この建物は平成になっても残っていたが、三年前に取り壊されている)階段のテラスの一五メートル位の上空から下の広場をめがけて、順番に投げ下ろした。その内二発が破裂した。マグネシュウムがまばゆいばかりの光を発し、炎が広がった。ところがその炎が広場に積んであった材木に燃え移った。

 

 たちまち、工場中で大騒ぎなり、大勢の人が集まってきて防火砂をかけ、運んだ水を何度もかけて、ようやく火は静まった。

 

 二年生各小隊は全員集合となり、三五名が整列すると、拳骨で殴ることで有名な前野先生が「やったものは前へ出ろ」といった。全員が一歩前に出た。先生は思い切り一人ずつ殴った。その場にいた上級生のリーダーも「私の責任であります」と自ら申し出て殴られた。こんな時はやった者も、やらなかった者も連帯責任で殴られることになっていた。

 

 油脂焼夷弾は、西宮空襲で洗礼を受けた。

 

 このときの、焼夷弾はM六九と言われているもので、一発当たりの大きさは、直径八センチ、長さ五〇センチ、そして重さは二・四キログラムであった。そして、これが三八発毎にまとめて一つの集束弾に詰め込まれていた。この集束弾を一機のB‐二九に四〇発搭載し、一三〇機が編隊を組んで全部を住宅地に投下していったのである。投下されると地上七〇〇メートルの上空で一集束弾が三八発に分離して降り注いだ。その分離に使用される火薬によって、各焼夷弾の上部に取り付けてあるひらひらした細長い布に着火し、火の雨のようになる。この布は垂直に落下させる目的のためであるとされていた。

 

 私は地上から見ていて、無数の打ち上げ花火が真上に広がって、大きな火の雨となって落ちてくるようだと思った。そして、大量に落下するときに出す「ゴー」と鳴る響きが実に無気味で大きかったのに驚いたものだった。

 

 火の雨の下の家屋群は完全に焼失した。家の外では、直撃を受ける可能性も高かった。また、路上に落ちて破裂すると、中に入っているナフサとパーム油などを混合したナパーム剤が炎となって飛び散り、それを浴びるとたちまち火達磨となった。この爆撃の下で生きる道は、住宅密集地から素早く逃げること以外になかった。

 

 家は焼失し、街は一面の焼け野原となったので、吹田市千里山の親類の家に家族と共に身を寄せた。その二日後、私は、尼崎の工場に出勤し、そこから甲子園球場に仲間と共に、西宮空襲の後片付けに行くことになった。

 

 この球場の上でも、何発かの収束弾が分離して油脂焼夷弾の雨を降らしていた。グランドの上には、まるで針ねずみのように弾筒が突き刺っていた。観客席の木製の椅子はところどころ焼けただれていた。やはり、ここでも不発弾がころがっていた。

 

 休みのときに、グランドの片隅に生徒が輪になって集まっていた。私もその集まりに加わった。一人の生徒がドライバーで、不発だった油脂焼夷弾の先端部分の横にあるネジを回して信管を取り外そうとしていた。その生徒は阪神の車庫工場でなく、球場の中にあった別の工場に出動していたので、尼崎で不発弾を破裂させたことは知らない。器用な手付きで周りのネジを上手く外すと、中から銀色の信管を取り出して、「もう大丈夫だ」といった。そして六角形の筒の中に手をつっこんで、透明の袋に入った、茶色のドロッとした液体を引っぱり出した。これがナパーム入り油脂焼夷弾の正体だった。

 

「これはええ燃料になる。家で風呂が沸かせるで……」

 

 その生徒はそう言ったが、家にもって帰る者はいなかったように思う。

今、思うとこれが、後の朝鮮戦争で、改めて使い始められ、ベトナム戦争では、一発で直径一・五キロメートルの地上を一挙に八〇〇℃の焦熱の荒野と化けさせていたナパーム爆弾の原型であったのだ。燃えるナパームに対しては、ほとんど消火が不可能であり、焼死をまぬかれてもケロイド等深刻な後遺症が残ることから、惨たらしい非人道兵器とされているが、未だに一部使われている疑いがある。

 

 また多くの焼夷弾を収束して、落下後分離させる収束弾は、その後クラスター爆弾となり、湾岸戦争・ユーゴ・コソボ・アフガンそして、イラクでも使われているとされている。今では一発のクラスター爆弾から二〇〇個の小爆弾がばらまかれ、約五%程度の不発弾が残り、戦争後もこの不発弾によって多くの人々が各地で犠牲になり続けている。

 

 あの一九四五年に、そして八月一五日までに、日本の各都市の住宅密集地を焼き尽くした徹底的で無差別な焼夷弾攻撃は、さらに形を変えて、非人道兵器といわれるナパーム爆弾やクラスター爆弾となり、今でも活用され続けていると私は思っている。

 

 


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