少年-大空への憧れ   宙平氏  平成20年6月5日投稿


From Chuhei
 
西宮北口に「西宮航空園」という日本最初の総合航空施設があった
のはご存知ですか? その施設によく通った事のある少年の話です。
 
   
 
下の写真は当時としては大記録をたてた神風号と日本号です。
 
  
 

 

少年―大空への憧れ   

 

 

 昭和一四年、少年が八歳になった年でした。父親に連れられて甲子園球場で行われた

「ニツポン号世界一周親善飛行の祝賀大会」に行ったのです。

 

 広い外野席に向けて大きな舞台が作られていて、そこにあのニツポン号の搭乗員の人

達が並んで、飛行中のときのエピソードなどを語り、また回った各国の音楽などが演奏

されていました。なにしろ、その年の八月二六日に羽田を発って札幌からアラスカのノ

ーム、さらにカナダからシャトル、そしてニューヨーク、ワシントン、ブラジル、スペ

イン、ローマ、バスラ、カラチ、カルカッタ、バンコク、台北と回って羽田に着いたの

は一〇月二〇日ということでした。全行程、五二、八六〇キロの空を飛ぶというのは、

当時としてはすばらしい世界記録であったのです。しかも、その機体は純国産のもので

した。これには日本中が沸き立ちました。そして「世界一周大飛行の歌」が四谷文子な

どの歌手によって熱烈に歌われました。

広い海原 雲の峰

越えつつめぐる 五大洲

わがニッポンは たくましい

つばさで強く抱くのだ 抱くのだ

すさぶ吹雪と 熱風の

大洋ふたつ 飛び越えて

わがニッポンの 行くかなた

大空晴れて虹を呼ぶ 虹を呼ぶ

 この時の甲子園球場でも、全員で大きな声で歌ったと思います。このニッポン号の大飛

行は大毎東日(現毎日)新聞社により、企画実行されたものなのですが、二年前の昭和一

二年には、朝日新聞社の神風号によって、東京―ロンドン間を九四時間一七分五六秒で飛

行すると言う、国際記録を樹立していました。これも、国産機での外国の機種を凌ぐ記録

に全世界から驚異の目で注目されたものでした。

 

 このような時代、少年の夢は将来大空を飛ぶ事に向けられました。そして当時多くの少

年達の夢は空や海に向けられていたのです。

  

 僕が大空翔るとき

 君は海から手を振れよ

 行くぞ! 行こうぞ!

 きっと行くぞ

 僕は空へ君は海へ

 しかし、中国大陸での戦闘が続き、日本が世界大戦の参入に向かって準備を進めていた

時代でしたから、少年が早く憧れの空を飛ぶには、陸軍の少年飛行兵か海軍の飛行予科練

習生に志願する以外には方法がないように思われました。当時は陸軍士官学校とか海軍兵

学校が最高の志望先でしたが飛行機に乗るには回りくどくて待っていられない思いでした。

 

 昭和一六年一二月八日、日本はアメリカ・イギリスへの宣戦布告をしました。そして、

その緒戦に行われた日本の攻撃機による戦闘の映像が映画『ハワイ・マレー沖海戦』とな

って、丁度一年後の開戦記念日に公開されました。少年はこの映画の真珠湾のアメリカ艦

隊への攻撃場面もさることながら、海軍の九七式三号艦上攻撃機の飛行の映像に胸を躍ら

せました。特にオアフ島の高い峰を攻撃機の編隊が巻き込むように、真珠湾を目指して突

き進む場面には、身ぶるいをしたほどでした。後で知った事ですが、この映画の特殊撮影

はあの円谷英二が担当していました。円谷は小学生の頃から飛行機の発動機を作るほどの、

飛行機少年で民間の日本飛行学校初代の入学生ですから、この映画の攻撃機の飛行場面に

は、並々ならぬ思い入れがあったものと思われます。

 

 少年の空への憧れをさらに高めたのは、昭和一七年に開設された日本最初の総合航空施

設である「西宮航空園」でした。

 

 この航空園は阪急西宮北口駅の西南一帯に広い場所を占めていました。丁度今のバスタ

ーミナルの前の大和證券や銀行のある建物から、南に県立芸術劇場の南端までの線を、東

の縁とすると、そこから西へ高層の住宅群のすべてを含む範囲がその園内でした。

 

 園内の南側はグライダーの練習場で、一人乗りの初級グライダーを、大勢で掛け声をか

けて索を引っ張って飛ばしていました。西南の端には落下傘塔がありました。ここでは落

下傘を開いたまま塔の上まで引き上げて、希望者に降下訓練をしていました。西の奥の大

きな建物は航空映画館、図書館、科学館、などがあり、そこでは、操縦模擬訓練、爆撃模

擬実験、成層圏飛行減圧実験、飛行士適性検査などをしていました。適正検査は丁度今の、

自動車試験のシュミレーターの様なのがありましたが、特に視力に重点が置かれていまし

た。文字を書いた板が落ちてくるのを、瞬間に読み取るというのもありました。少年は適

正ありという判定をもらって益々大空への夢をふくらませて行ったものです。

 

 そして園の北側には、当時の軍用機などがそのまま展示されていました。

 

 その中でも、九二式超重爆撃機などは、陸軍唯一の四発機でプロぺラが四つあり、六機

しか作られなかったしろものでした。そのほかにも、ドイツのユンカースK―三七を参考

にして作られた九三式双発系爆撃機、複葉機の九五式戦闘機、低翼単葉の九七式戦闘機な

どが並べられていました。少年にとって嬉しかったのは、これらの戦闘機の操縦席に座っ

たり、爆撃機の中にもぐり込んだりすることが出来たことでした。そのほかにも、複葉の

爆撃機や偵察機があり、また、軍艦のカタパルトから飛び出して発進した、浮舟付の海軍

九四式水上偵察機もありました。そして、鹵獲機として、アメリカの戦闘機カーチスP四

〇や、ロッキード一四型旅客機も途中で展示に加わりました。

 

 大日本飛行協会の運営で入場料は大人二二銭、学生子供一〇銭でしたが、大規模で内容

があり飛行機好きにとっては正に楽園でした。少年は友達と休みの日には親からもらった

一〇銭玉を握って、駆けつけたものでした。

 

 昭和十九年に入って、少年より四歳年上の従兄の昭示さんが飛行予科練習生として海軍

に入隊しました。『若い血潮の予科練の七つボタンはさくらに錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦

にゃ、でっかい希望の雲が湧く』という予科練の歌を歌って送り出しました。昭示さんは

霞ヶ浦ではなく、鳥取県の美保海軍航空隊でした。その時は、少年の住む西宮にも関西学

院高等部の建物とグランドを接収して、西宮海軍航空隊がありました。また宝塚歌劇の建

物には宝塚海軍航空隊が出来て、ここでも飛行予科練習生が訓練に励んでいたのでした。

 

 この年の後半には、戦局は日本にとって大変深刻なものとなりました。空の戦いは特攻

隊による攻撃が主体となって行きました。

 

 大空に憧れていた少年は、その憧れが死につながる事を考えました。特攻隊は志願制で

はありました。しかし当時は自ら進んで国に命を捧げる事は正に学徒の面目であると教え

られた時代です。空を飛ぶ事は確実に死に向かう事になると思われました。それでも、少

年は空への憧れを捨てませんでした。

  

空ゆかば、雲染む屍、かえりみはせじ

 

 昭和二〇年になると、少年は中学二年生になり、学徒勤労動員で尼崎の工場で働くよう

になりました。そして、アメリカ軍の空襲が一層激しくなったのです。少年は大空を悠々

と飛ぶB―二九の編隊を見上げながら、なぜ日本の戦闘機が邀撃しないのだろうと、いつ

も思いました。地上から打ち上げる高射砲弾の黒い煙が編隊の後ろにパッパッと開くだけ

でした。後で分かった事ですが、その時日本には、対応できる戦闘機の数がすでに少なく

なっていたのでした。それに航空燃料すら底をつく事が多かったのです。

 

 それに引きかえ、アメリカの艦載機グラマンF四Fワイルドキャットや、F四Uコルセ

ア、そして最新型といわれたF六Fヘルキャットが現れるようになり、その上Pー五一ム

スタングまでもが、日本の空を自由自在、我がもの顔に飛び回り、人を見つけると機銃掃

射を浴びせるようになって行ったのです。

 

 そんな時、予科練の昭示さんが休暇で帰ってきた事がありました。「七つボタンは桜に

錨」の制服を着て、きりっとして大人びて見えました。少年は色々航空隊の事を聞きたか

ったのですが、そのことは何も言いませんでした。ただ一言「飛行機ではない。機雷だ」

とだけ言いました。

 

 少年はこれですべてを悟りました。当時詳しくは分からなかったのですが、特攻兵器も

飛行機から、人間ロケット「桜花」、人間魚雷「回天」、高速突撃艇「震洋」、そして潜

航艇も「蛟竜」「海竜」などができて、終いには一人で潜水服を着て棒機雷を持って海に

もぐり敵艦艇を爆発させる「伏竜」ができ、予科練でもその訓練を行っていたのでした。

 

 少年は空を飛ぶ夢が遠ざかるのを感じました。そして、予科練に入っても、中学生のま

までいても、その先には本土決戦があり、そして自爆特攻か、または教練用の銃も軍に提

出してしまった状況では竹槍突撃玉砕という死への道を進んでいるのは間違いないと思い

ました。

 

咲いた花なら散るのは覚悟

      見事散りましょう国のため

 

 昭和二〇年八月五日の夜から六日にかけての西宮の空襲で少年の家も街も全焼しました。

八月一五日に一面の焼け跡のなかで、父と自宅跡を整理している時、近所に居た人により

終戦が伝えられました。「今日は陛下の臨時特別放送があるということだったからなぁ」

と父が言いました。

 

 その日は真っ青な夏空でした。少年は空を見上げ「もう空は飛べない」と思いました。

しかし、しかし激しかった空襲にも生き残ったのです。「これからなにがあるか分からな

いが、何とか生きていけそうだ。兎に角生き続けていってみよう!」という気持ちが次第

に湧いてくるのが分かりました。

 

 暑い日でした。焼け跡の向こうには六甲山の山並みが、青く映えていました。

 

■■◆      宙 平
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