From
Chuhei
私の今、手元にある井上俊夫先生の著作本と先生の『戦死させてもらえる顔』
の一部です。
|
講演される井上先生と、8月15日靖国神社で取材される先生です。
下の白黒写真は大阪護国神社での先生です。
|
体験を書き続けなさい
夢を見た。私は徴兵された初年兵で中国の駐屯地で、厳しい訓練を受けている。 教育担当の上等兵は、こちらの動作がもたもたしていると、すぐに殴りつける。 飯盒のふたを盗まれたときなど、「盗られたら何処かで、盗ってこい! それが 軍隊だ。ばか者め!」と鼻血を出して,昏倒するまでピンタを受け、顔が腫れ上 がった。
そんな時、夜中に非常呼集がかかった。急いで編み上げ靴を履き、略帽と鉄帽 をかぶり薬盒と帯剣をつけ、三八式歩兵銃を手に持って駆けつけ整列する。そし て行進して兵舎から出て、一本の木の下まで来たとき、飯炊きを手伝わせていた 一人の中国人捕虜が,その木に縛りつけられる。東の空が白んできた。そのとき、
「気をつけ! 付け剣!」と号令がかかり、一斉に銃剣を歩兵銃の先に取り付けた。 捕虜は「ワタシコロス、イケナイ! イケナイ!」と、必死で抵抗している。 「今から刺殺を行う! よし! 順番に突っ込め!」と、命令がかかる。
「ぎゃぁぁっ!」という捕虜の悲鳴が上がった。
私も順番に従い銃剣を構えて突き刺した。なにか豆腐の様なやわらかいものを突 いたという感触しか残らなかった。
「そんなところで、寝ていては、いけません。起きたらどうですか?」
「あっ! 先生! 井上俊夫先生ではありませんか。お久しゅうございます。今、 先生が『初めて人を殺すー老日本兵の戦争論―』に書かれた場面そっくりの夢を 見ていました。 その夢の刺激が、私の脳のレビー小体に影響して、先生がここ においでになったものと、思います。あっ! そうだ! 先生は平成20年10 月16日にお亡くなりになりました。が、『詩集・八十六歳の戦争論』をその年 の12月8日には出版したいと、最後の最後まで戦争体験の文や詩を書き続けて おられましたね」
「そう、詩集製作中、私は病気で倒れてしまいました。出版希望日12月8日と いうのは米英蘭に宣戦布告した運命の日ですね。その日に出版するために、かも がわ出版の湯浅俊彦氏がわざわざ自宅まで来て親切に相談してくださいました。 湯浅さんには前に出版した『従軍慰安婦だったあなたへ』、『八十歳の戦争論』 など戦争関係の本を出していただいていました。残念ながら、本の完成を見るこ となく、私は冥界へ行ってしまったのですね」
「先生! 先生のお亡くなりになった後、最後の『詩集・八十六歳の戦争論』は 12月8日に見事に、最終校正も終え出版されましたよ! それに先生は献本先 の宛名シールまで自ら用意されていました。その後、私のところまで、ご遺族の 方から「謹呈」と書かれた本が贈られてきました。お礼を申し上げるのは、正に 今となりました」
「私はその本を平成14年刊行のエッセー・ルポルタージュを中心にした『八十 歳の戦争論』の後を継ぐものとしたかったのです。『八十歳……』には、先ほど 貴方が夢に見た『初めて人を殺す』や日本軍専用の慰安所、武昌の青楼のクーニ ヤンとのことを書いた「なみだ『涙』」などもあります」
「先生が文筆活動をされた最初の頃は、『野にかかる虹』の詩で、最高の賞とい われる、H氏賞を受賞され、『淀川』『わが淀川』を書かれたり、『農民文学論』 や巷説浪花八景『葦を刈る女』などの作品を発表されていましたが、 私が朝日カルチャーセンターで、エッセーの指導を受けるようになった平成4年頃 以降は、先生の詩も文章も、また講演もほとんどが、先生のご体験にもとづいた、 戦争、軍隊のことでしたね」
「かつて、戦争に従軍した兵士達はみんな沈黙してしまっているのです。沈黙の闇 は限りなく広く深いのです。しゃべらないから、しゃべらないままに次々と死んで いっているから、戦後生まれの日本人は戦争の実態が分からぬまま、今日まで来て しまっているのです」
「私が夢を見ていた場面、『始めて人を殺す』では、初年兵の刺殺訓練に常時生き ている中国人捕虜をその対象に使っていたということですが、当たり前のように平 然と行われていたのですか?」
「いや、当たり前というわけでもありません。私も書いていますが、初年兵の中に は『かんにんしとくなはれ!』と哀願して刺殺を嫌がる者もいました。その兵は革 帯ピンタで激しく殴られた上、上官2人が無理やり銃剣を構えさせ、捕虜を突かさ せました。なにがなんでも突かせないと、教育係りの責任問題になるからでした。 私はこんなとき、いつも、《これも俺が男らしい男になるための、試練に違いない。 こんな経験を積む機会はめったにあるものでない》と自分に言い聞かしていました。
隣の班の古参兵たちは、私達が帰ってきたとき、『おい、お前さんらは無抵抗の チャンコロを殺してきたんやろ』『悪い奴やなあ。ほんまに、いげつない奴ばかり やなあ。いったいお前さんらはどこの出身の兵隊や。お前らみたいな質の悪い兵隊 はみたこともないわ』とふざけた口調で呼びかけてきました。何もかも知った上で 私達をからかっていたのです。それを聞いて、『ちぇっ、隣のひねくれ古参兵ども め、おのれら自身は作戦に出る度に、面白半分に支那人の首をはねたり、クーニヤ ンを探し回って強姦をしてきているくせに……』と、こちらの上官は苦々しげに言 っていました」
「先生は戦争を語り、4年間の軍隊体験に基づいた詩や文章を書きながら、私達に エッセーを教えておられたのですね。私はもう22年も朝日カルチャーセンターの エッセー教室の受講生をやっていますが、そのうち先生には14年間お世話になり ました」
「貴方が教室に入られた頃は、一学級30人ということもあり、入会希望者を定員 オーバーでお断りすることもありましたね」
「先生は大阪朝日カルチャーでは、午前と午後の2学級、同じく京都でも2学級、 それに奈良、NHK大阪文化センターでもエッセー教室を開いておられ、帝塚山学 院大学、同短期大学の講師もしておられ、それは大変だったと思います」
「あの頃は、エッセーを400字詰原稿用紙に手書きで 書いて提出される方も多 かったですね」
「私も最初は手書きでした。しかし、先生は、ワープロにも、パソコンにも精通さ れておられたので、すぐにワープロを買い、やがて、WINDOWS98が出たころか らパソコンに切り替えました。私がパソコンを覚えたのは、先生のエッセー教室の お蔭です」
「私が中心になって作った、エッセー教室の受講者を集めたメーリングリスト『窮 鼠村』にも、貴方はいち早く参加されましたね」
「先生はじめ多くの方々と、インターネットでエッセーやメールの交換が出来たお 蔭で、大変勉強になりました。そして、カルチャーセンターでの先生のエッセー教 室は私にとって厳しく、しかし充実したものがありました。
先生は月に2回、3ヶ月のカリキュラムで、最初の第一日は必ず読む本2冊を提 示されました。本は価格を配慮されて文庫本が多かったですが、多くの受講者が買 いに行くと、直ぐ売り切れるものですから、先生は予め部数を調べて、本屋に注文 をしておられ買いに行く本屋を指定されました。そしてその日は本の解説をプリン トして説明されました。私達はその日には作品を提出しました。
次回は提出した作品のプリントされたものを読んできて、一人一篇ずつ感想を述 べるのですが、誰が誰の作品の感想を述べるかは前回のときに指名されていました。 指名されていたのに休むと、先生は『敵前逃亡』だとおっしゃっていました。
3回目の日は、提示された本の感想をこれも前回に指名されたメンバーの半数以 上の受講者が発表しなければなりませんでした。本はその日までに買って読み終わ っていなくてはならないし、その日には次の作品を提出しなければならないので、 受講者も大変でした。
4回目は再び提出作品を指名者による感想を述べるのですが、先生は感想も勉強 だとして、感想の述べ方にも注意をされることがありました。
5回目は提示された2冊目の本の感想を指名された残りのメンバーが発表する日 でした。先生のお蔭で私は、到底読むことをしなかった本を読んだり、再読したり することが出来ました。小林多喜二『蟹工船』、ロバート・ジェームス・ウオーラ ー『マディソン郡の橋』、中河与一『天の夕顔』、柳田邦男『遠野物語』丸谷才一 『笹まくら』、三島由紀夫『愛の疾走』安部公房『砂の女』、谷崎潤一郎『陰影礼 賛』などが強く印象に残っています。この日は受講者が作品を提出しました。
6回目は受講者の提出した作品を、皆で合評しました。先生は『集中砲火』方式 と言っておられました。人数が多くても必ずこの日には完了しました。休んだ方の 作品は飛ばして、次回には回さず先生が添削して返されました。これを永年繰り返 されたのです」
「私も講座での本を選び解説し、また皆さんの提出されたエッセーからも色々知る こともあって、大変有意義な時間を過ごしたと思っています」
「先生の作られた『窮鼠村』はヤフーのメールグループを利用されていました。先 生のお亡くなりになった後、会員の数は減りました。しかし、一応私が後のオーナ ー事務を今までやってきました。が、残念ながらヤフーはメールグループサービス を今年の5月28日で停止します。あと人数も少ないことですので、個人のメール 交流で続けたいと思っています。また先生のホームページ『浪花の詩人工房』は昨 年までは存続していたのですが、今はもう見られなくなりました」
「時が経つと共に、情勢も変わってゆきます。しかし、私は貴方をはじめ、エッセ ーを学んだ皆様には、ご自分の体験は書き続けて頂きたいと思っています。これは ご自身のためでもあります。私は次の詩を書いていました。
私は誰よりも私自身のために 戦争の詩を書いているんだ。 六十有余年もの昔 二十歳のうら若さで 天皇の軍隊の制服に身をかため 手に三八式歩兵銃をひっさげ 腰に銃剣をぶらさげて 野牛のように中国大陸に乗り込んでいった 一人の無名兵士に問いかけるために 私は詩を書いているんだ。
しかし私は晩年になって、命ある限り体験した戦争の実相を伝えるために、老骨 に鞭打って書かねばならぬと思うようになりました。『八十六歳の戦争論』もそう ですが、中学3年生の孫、奈津美との対話形式で書き続けた『祖父と孫との戦争論』 もどうしてもこれだけは、語り継ぎたいことでした。『窮鼠村』には第八話まで送り ましたが、これを出版するまでには私の寿命が持ちませんでした」
「奈津美さんとの対話が第八話で終わったのは実に残念です。私はこの対話こそ先 生の戦争論の集大成だと思って、実に興味深く読ませて頂いていたのです。先生の 戦争論は、ご体験からくる戦争の麻薬性、陶酔感なども表現しながら、戦争とその 中核にある軍隊についての残酷で、不条理な実相の考察をすすめられていますので、 私も身体の中に、先生のお考えをしみ込ますことが出来ました」
「私の詩にあるように『たとえ蟷螂の斧のような書物となろうとも、今考えている 本はあくまで書かねばならぬ、自信がなくとも書かねばならぬ』と、思っていまし た。貴方もぜひ、体験して感じられたことは書き続けてください。そして、本でも、 インターネットでも、一人でも多く読んでもらってください。 これだけ言えば、私はここから離れます……」
先生が去られた後、私は直立不動の姿勢で、教練で学んだ軍隊式の敬礼を続けて いた。
(平成26年4月26日)
☆-☆-☆-☆-☆-☆-☆-☆
:★:cosmic harmony 宙 平 *−*−*−*−*−* |