この写真は現在の東京都硫黄島です。航空自衛隊の飛行場が見えます。
61年前、この島の周りをアメリカの艦艇がぎっしり取り囲み、地形が
変わるような砲爆撃の後、上陸作戦が行われました。
クリントン・イーストウッド監督はこの硫黄島の戦いについて2部の
映画を作りました。私はそのうちの「硫黄島からの手紙」について
映画エッセーを書きました。
映画「硫黄島からの手紙」
硫黄島は東京より一二五〇`南、東京とグアムのほぼ中間地点にある。東西八・五キロ南北四・五キロの火山島で、最高点は島の南部にある摺鉢山の一六九メートルである。昭和二十年当時は東京都品川区に所属していた。
その昭和二十年二月、海を覆い尽くすほどのアメリカの艦船がこの島を取り囲んだ。そして連日地形が全く変貌するような砲爆撃のあと、十九日アメリカ海兵隊が一斉に上陸を開始したのである。上陸部隊六万一千人、火力・補給サポート二十二万人と言われている。
アメリカ側が当初五日で終わるとされたこの戦いを、三十六日間戦い抜いたのは、栗林忠道中将の指揮する日本の守備隊二万九百三十三人であった。戦争の末期の激戦といわれ、米軍の死傷者数二万八千六百八十六人が、日本軍の守備隊員数(日本軍戦死者二万百二十九人)を上回る唯一の戦場であった。
この硫黄島の戦いを舞台に、アメリカのイーストウッド監督は、今回二本の映画を作った。第一作は『父親たちの星条旗』であり、摺鉢山に星条旗が翻る有名な写真をめぐって、英雄に祭り上げられる兵士達と英雄を作り上げようとする軍、そして国家との相克を描いた作品である。
続いて作られたのが『硫黄島からの手紙』であり、日本の側からの硫黄島戦を描いたとされている。私は両方の映画を見たが、『硫黄島からの手紙』は、アメリカ映画でありながら、ほとんど日本人俳優が日本語で演じ、その服装や背景の考証などが全く日本映画と変わりなかった。ドラマ的な要素も少なく、戦闘場面も、それほど大規模ではないが、私は真実の硫黄島戦の実態を、坦々とリアルに描くことにより、戦争のむなしさを訴えている映画だと思った。
映画は平成十八年、硫黄島の地中から数百通もの手紙が発見されるところから始まる。これは六十一年前、この島で戦った男達が家族に宛てて書き残したものだった。(内地に送る手紙が集められていたが、交通が遮断され送れなかったものである)映画では回想の場面でこの手紙の内容が出てくる。
昭和十九年六月、司令官栗林中将(渡辺謙)が硫黄島に着任する。彼はアメリカとカナダの駐在武官の経験があり、アメリカの軍事力をよく知っていたので、アメリカとの戦争には反対していたと言われている。
彼の作戦は、硫黄島の地下に要塞を掘りめぐらし、その中に立てこもり、一日でも長くこの島を守り抜くと言うものであった。(地下壕は実際には二十四`の計画が十八`掘られた)従って敵上陸の水際で敵を殲滅するという作戦や、玉砕覚悟の「バンザイ突撃」は強く禁止した。
従来の常識にとらわれないこのやり方に、古参の将校達の反発も呼んだが、しかし反面、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技金メタリストの西竹一中佐(伊原剛志)の様な頼もしい理解者もいた。また硫黄島での日々の過酷なトンネル堀り作業で絶望を感じていた西郷(二宮和也)ら兵士達にも新たな希望を抱かせた。
圧倒的な兵力と火力で上陸して来た米軍を大いに苦しませ、激戦を長引かせたのは、この栗林司令官の方針が貫かれたことが大きかった。この硫黄島に米軍による日本への本土爆撃の中継基地が出来るのを少しでも遅らせるためという、この方針はそれなりの効果を挙げたのである。しかし、そのため日米双方多くの兵士が結果として死んだ。
その中にあって、司令官の方針に反発し「軍人は潔く散るべし」として見通しの無い鉢伏山奪還攻撃に向かおうとする海軍の伊藤中尉(中村獅童)や、「誇りある軍人として、自決すべきだ」と言いながら、最後に元の憲兵隊を放逐された本当の経緯を語る清水(加瀬亮)、そして、国に残してきた妊娠中の妻花子(裕木奈江)に対して「花子、この手紙が届くことは無いだろう。でもお前と赤ん坊のことだけが気がかりだ」などと手紙を書き続ける元パン屋の西郷などのことが、回想を交えて描かれていく。栗林司令官も戦地から家族にあてた手紙で、妻のために台所のすきま風を心配したり、幼い娘に今の様子を書き送ったりと、よき家庭人としての一面を覗かせる。
そのような栗林司令官にも、いよいよ最後の時が迫ってきた。昭和二十年三月十七日、将兵の最後の姿を伝え「国のため重きつとめを果たし得で 矢玉尽き果て散るぞ悲しき」と言う歌を付して決別電報を打ち、部下と共に最後の戦いのために指令壕を出て行くのである。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」葉隠れのこの言葉は、戦時中よく用いられた。軍人は死を覚悟して戦地に向かった。そして「大和男ノ子ト生マレナバ散兵戦の華ト散レ」「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍」と歌った。当時中学生であった私でさえ「国のためには死なねばならぬ」と本気で思っていた。
硫黄島があのアメリカ軍の艦船に、ぎっしり取り囲まれた時点では、日本軍の守備隊のすべての将兵は、いよいよ硫黄島で死ぬ時が来たことを実感したに違いない。
しかし、硫黄島の戦いでは、潔い死は許されなかった。命令として生きられるだけ生きて最後の最後まで戦いぬけと言うものであった。食料も乏しく、水も雨水しかなく、硫黄の湯の沸くところもある蒸し熱い壕にこもり、一日長く生きれば、一日苦しみが延びるという状況であった。このような極限の戦場では、生きることより、ひと思いに突撃して果てた方がよほど楽であった。
映画はこの状況の中で、命令に反し手榴弾を自分で爆発させ自殺する兵士達や、伊藤中尉のように一人で突撃する場面。また投降しようとする兵士を、同じ日本兵が撃つ場面。そして投降した二人の日本兵が、アメリカ軍の小隊の行動の手足まといになるとして、見張り役の米兵に簡単に射殺される場面もあった。このような実際にもあったであろう場面で、私は死よりも恐ろしい軍隊組織そのものの本当の怖さを実感した。
この映画は、どのような場面でも、センチメンタルな描き方はしていない。そのせいか、例えば日本映画『男たちの大和』を見ながら、私の眼から涙がとめどなく流れ出た、と言うことはこの映画ではなかった。それだけに、硫黄島のこの極限の戦闘をリアルに感じ取ることが出来たと私は思っている。
六十一年前日本領土の硫黄島でなにがあったのか、この映画上映の機会に多くの人々に知ってほしいと切に願って私は映画館を後にした。
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∨ 宙 平Cosmic
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