From Chuhei
 
 
戦時中日本に在住し、敵国人と呼ばれていた英国人宣教師ミスリーさんです。
 
右は敵性外国人第2.第3抑留所のあった不動坂、イースタンロッジや汽船会社社宅が抑留所に使われました。この坂が北野通りと交わる所に最初の松陰女子学校がありました。
 
 
      
 
 
1945年6月5日の神戸空襲です。ナパーム焼夷弾38発を内蔵したクラスター弾が密集地帯を火の海にしました。右はミスリーさんの覚え書のある松蔭女子学院史料です。
  
 
 
       

 敵国人        

 

 

 私は1998年アメリカのスポーケン市で三日間、日系2世ヒデキ・セキジマと奥さんのコリー(日系)のお宅にホームステイした。

 

 1941年の日米開戦時、彼らはアメリカ国籍にもかかわらず、母親・兄弟と共に敵国人として、かばん一つ以外持つことを許されずアイダホのキャンプに収容された。同じ敵国人であった在米のドイツやイタリア人は収容されないのになぜ日系人だけなのか? 私はその話を聞いて当時のアメリカの日本に対する偏見と憎しみを感じ取った。

 

 アメリカの場合はその後、忠誠度のテストによっては解放され、収容所で知り合ったヒデキとコリーは共に21歳の時に結婚し、花の種や苗を扱う商売を始めたのである。

 

 それでは、日本は当時敵国人であったアメリカ・イギリスの一般在留人に対してどういう扱いをしていたのかを、私は知りたいと思っていた。今年の5月2日、朝日新聞に神戸の松蔭高女で教えていた英人女性レオノラ・エディス・リーさん(18961971)の戦時中の覚え書が神戸松陰女子学院の史料に収録されたことが出ていた。そこで、私は電話で学院に問い合わせたところ、「覚え書」の載る『松陰女子学院史料第8集』を送っていただいた。

 

 リーさんは英人宣教師の娘として、カナダに生まれた。英国の大学に進学し宣教師として来日したのは1927年、神戸松陰で英語を教えていた。住んでいた家はハンター坂を異人館通りに向けて登り一つ手前を西に曲がり、細い路地の合流する角にあった。

 

 りーさんによると、英米との開戦が始まると、警察官が家に来て地図・カメラ・ピストルの提出を求められ、家中を調べた。そして持っていたエディンバラの地図などを取り上げて行った。覚悟していた抑留はされなかったが、敵国人と呼ばれ常に監視された。  

 

 神戸の敵性外国人抑留所は4ヵ所作られ抑留者も増えた。しかしなぜ抑留されるか、されないかその理由がよくわからなかった。またスパイ容疑で投獄された人もいた。

 

 教会や学校へ行くことも控えるようになった。日本人と話をすると、情報が敵国人に流れると言うことで警察や周りが警戒し相手に迷惑がかかるからである。

 

 やがて食糧配給センターが作られた。ドイツ人用・スイスなどの中立国人用・そして抑留を免れた敵国人である英米、ベルギー、オランダ人用に分けられた。敵国人用センターには150が残った。

 

 配給の量は次第に減り続けた、戦争末期には150人の2日分の食糧は、りんご100個、梨50個、人参80本、じゃがいも70個だけということも稀ではなかった。そのうちカビのはえたロールパンで貝殻の粉の混ざっているのが、1日2個だけとなった。

 

 1945年6月5日の神戸空襲のとき、リーさんは防空壕もなく、空を見ていると、爆撃機の群れが隊列を組んで飛来し、四方が炎につつまれた。その中でB29が2機、高射砲弾に当たって撃墜するのが見えた。突然家の窓から煙が噴出した。中へ入ると屋根から2階を突き抜けた爆弾が

火を吐いていた。それをやっと消し止めたが、近くの家も炎上し始めたので、友人宅へ逃げた。リーさんの家は、奇跡的に焼け残った。そして家を失った10人の外国人が避難して来ることになった。

 

 リーさんは戦後も神戸で暮らし、1951年から松陰短期大学の学長を勤めた。1971年英国へ帰国、75歳で亡くなった。

 

 戦争末期、一般の日本人の食糧事情も最悪となり、私は学徒動員で働く中学生だったが、ガリガリに痩せていた。そして、ナパーム焼夷弾38発を内蔵したクラスター爆弾の雨が、一斉に空中で破散し火の海となる中、燃える家を後に逃げまどった。全くリーさんと同じ体験ではないか。「覚え書」を読んで、私は敵国人に深い親しみを感じた。

 

 なにが敵国人なのか? もう、地上からそう呼び合う事も、そんな言葉も無くしてしまわねばならない。                                (20090627

 

 

■■◆      宙 平
■■■     Cosmic Harmony
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