フライング・タイガース |
日中戦争時、アメリカ人義勇兵達による中国空軍を支援するフライング・タイガースという航空部隊がありました。
左の写真はフライング・タイガースです。そして次の写真は当時最新鋭といわれた、p−51ムスタングです。
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井上俊夫先生の晩年の戦争詩に『青い麦畑』というのがある。支那事変と呼ばれた日中戦争にあしかけ五年従軍、詩集『野にかかる虹』でH氏賞受賞。また、作家としても知られ、私が一四年にわたり、エッセー教室での指導を受けた先生である。昨年(平成二〇年)一〇月一六日に亡くなられた。
青い麦畑 まだ熟していない青い麦畑が 果てしなく続く曠野の一本道 中国軍を追って作戦行動中の歩兵一個中隊が行く。 後ろの方で爆音が聞こえてきた。 そして友軍の直協機(九八式直接協同偵察機)かと思いきや、翼には大きな星印がくっきり描かれていた。二二〇名からの兵士たちはわれがちに麦畑に飛び込んだ。P51(ムスタング戦闘機)は急降下すると、機関砲をぶっ放し、飛び去っていった。
いつもなら、P51は三、四機の編隊でやってきて、繰り返して執拗な銃撃を加えてくるのだが、このときは一機で一度しか撃ってこなかった。この一機は在中国・アメリカ飛行義勇軍の基地に引き返す途中、行きがけの駄賃のような攻撃を仕掛けてきたものに相違ない。
その時、隊列の中から悲痛な叫び声があがった。「分隊長殿、尾崎上等兵と渡辺一等兵と須崎一等兵がやられています」畑のまだまだ青い麦の穂波が三人の鮮血で真っ赤に染め上げられていた。
早々と遺体の措置を済ますと、中隊は何事も無かったかのように再び行軍を開始した。 (以上は一部を省略させて頂いた)
何処まで行っても青い麦畑 何処まで行っても青く連なる麦畑 敵味方いずれの兵士たちが流した血潮なり とも 赤赤と染まってみせる青い麦畑が 何処までも何処までも……。 (『八十六歳の戦争論』より) 私はこの詩から、中国の戦場でも日本軍がアメリカの戦闘機の攻撃を受けていた事を初めて知った。戦時中映画好きの少年だった私は、中国での戦争映画を良く見た。映画の前には必ず戦争の状況を伝えるニュース映画があった。しかし、中国での国民党軍や八路軍との戦争に、アメリカの飛行機が出てくる事は見たことが無かったし、知らなかった
そこで、インターネットで井上先生の詩の中にある「アメリカ飛行義勇軍」というのを検索したところ、アメリカとの開戦以前から、すでにアメリカ人の義勇飛行兵による、フライング・タイガースという中国軍支援飛行隊があることを知った。
すでに昭和一二年には、アメリカの陸軍航空大尉であったクレア・L・シェンノートが国民党軍の航空参謀長として国民党政府に招き入れられている。そしてルーズベルト大統領の後ろ盾を受け、一〇〇機の戦闘機と一〇〇名のパイロット、二〇〇名の地上要員をアメリカ軍内から集めている。彼らはイギリス軍から借りたラングーンの北にあるキエダウ基地を本拠とし、昆明・重慶の基地も利用して、ビルマから重慶を結ぶ蒋介石国民党軍を支援する物資の補給線の制空権を確保するのが、最初の目的であった。昭和一六年にはカーチスPー40戦闘機を揃 えた三つの部隊を持つようになる。この年の十二月にはタイの基地を飛び立った日本の爆撃機一〇機との最初の戦闘を交えている。彼らの記録では日本の五機が撃墜、日本の記録では三機が撃墜、残りの七機は被弾して二名が戦死、p-―40は一機撃墜とある。その後中国の戦線でも新鋭機P―51が使われるようになっていった。 昨年〔平成二〇年〕一二月七日、私は偶々テレビ朝日で放映された特別番組『幻の米国日本先制爆撃計画67年目の真実』を見ていて、その実行部隊にフライング・タイガース航空隊が出てきて驚いた。そして、その内容は戦闘機三五〇機、爆撃機一五〇機を用意し、中国から飛び立ち日本本土に焼夷弾攻撃をする。そのスローガンは「竹で出来た蟻塚を焼き尽くせ」というもので、目標の都市長崎・神戸・大阪・東京の木造家屋を焼き尽くす計画であった。しかも、日米双方の宣戦布告の前に実行するものとした。
このことはアメリカ人アラン・アームストロング氏の著書『幻の日本爆撃計画、真珠湾に隠された真実』という本に書かれているらしいが、特別番組ではその真実を確認するためキャスターが渡米して、国立公文書館で秘密文書ファイル「JB355」というのを見つける。JBというのは軍上層部の統合本部をさす。その文書には日本先制爆撃計画と共に、ルーズベルト大統領の直筆サイン「FDR」が入っていた。このような超極秘文書も近頃は漸次公開されるようになってきたのであろう。そして、フライング・タイガースを率いた、L・シェンノートの中国人妻はアメリカで存命中だった。その遺族の証言などにより、計画の存在が裏付けされる。
この攻撃は昭和一六年一一月一日には実行出来るように計画されていたが、ルーズベルト大統領の「少し待て」という言葉と、爆撃機をイギリス支援のため欧州戦線に先に回す必要が生じ、日本の真珠湾攻撃前の先制攻撃として、実行できなかったので中止となった。
本の著者アームストロング氏は「あの時、アメリカ義勇軍が先制攻撃をしなかったから、真珠湾攻撃が起きてしまった。もし攻撃していたら、日本は本土防衛を固め、アメリカとの直接の戦いを避けて、甚大な被害を招かなかったかもしれない」と言っているらしい。が、これは果たしてどうであろうか?
私の知る限りでは、この昭和一六年の後半は、日米の外交交渉は数多くの経過を経て、すでに行き詰まり、一触即発、開戦寸前にまで追い詰められていた時期であった。
当時は情報活動も盛んで、私は街の至る所に「防牒」と書かれたポスターが貼ってあつたことを記憶している。また風景写真もうかつに撮ると、スパイに間違われる事もあった。 反対に、日本の情報員はハワイの真珠湾の見える丘の上から毎日、アメリカ艦隊の出入りを報告していたし、重慶の飛行場のアメリカ機の出入りを報告する情報員もいた。また、この日本本土爆撃計画もすでに日本側に漏れていたと言われている。アメリカ側の情報活動も中国内に張り巡らされ、当時、日本側の暗号電報はアメリカ側に大半解読されていたと言われている。爆撃計画が日本側に漏れたということも、すでにアメリカ側では知っていたとも言われている。
真珠湾攻撃の一〇日前、アメリカのスティムソン陸軍長官は、ルーズベルト大統領が「我々にあまり危険を及ぼさずにいかに日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか」と述べたと、その日記に書いているように、大統領としては、日本側の動きを読み取り、義勇軍といえども、先制攻撃するよりも、日本側に先制攻撃させたほうが、当時のアメリカの議会と国内世論を参戦に向けてまとめる事が容易だと考えたことは、間違いないと思われる。
しかし日本先制爆撃計画は、対日石油輸出の全面禁止など経済包囲網にもかかわらず、要求している中国からの即時撤兵などに日本側が全く応じなかった時の、取るべき選択肢の一つと考えて大統領は署名していたのであろうと、私は考えている。
アメリカ・イギリスの力を知り、彼らを相手とする戦争など、全く無謀と考える人は、日本の政府にも、軍人の指導層にもいたが、昭和一六年の後半の時点では、もはやその流れを止めることは出来なかった。
戦火は最初に強い意識を持って止める事に全力を尽くさないと、必ず燃え広がり最後に甚大な取り返しのつかない戦争災害をもたらす。盧溝橋事件に発した戦火は、くすぶりながらその後、暴支庸懲・対支一撃論により上海へ、一撃ではとても収まらないとなると、当初の不拡大方針を無視し、停止する予定だった保定・永定河の線を越えて、南京へと大きく燃え広がり、それが、アメリカ・イギリス等の国と日本との関係を大きく悪化させ、石油輸出の停止などの経済封鎖を迫られた。そしてアメリカに重慶の蒋介石国民党軍を、強力に軍事支援をさせることとなった。フライング・タイガースはそのような中に生まれた。そして世界大戦へと燃え移ろうとした戦火は、遂に日本本土先制爆撃計画を立てるにいたるのである。
真珠湾の奇襲が、アメリカとの戦争の原因と単純に考える人がいるが、もし、真珠湾の攻撃がなかったとしても、フライング・タイガースによる日本本土爆撃の可能性もあり、昭和一六年一一月二六日に示された、アメリカのハル国務長官の通牒(ハルノート。日本の佛印・中国からの即時撤兵などを中心に一〇項目の要求がある)を日本が受け入れない限りにおいて、世界大戦の戦火はもはや、止めようが無くなっていたことは、明らかである。
いずれにせよ、意地を張って中国からの撤兵など考えられなくなってしまった日本に対し、フライング・タイガースなどの活動が展開して行って、遂に、多くの人々が地獄を見た大きな業火へと燃え上がる要因を作ったことに、私の胸は痛むのである。
■■◆ 宙 平 |