From Chuhei
海辺の生と死

映画『海辺の生と死』を神戸のシネルーブルで、8月24日に見た。この映画は壮絶な までの夫婦愛を描いた小説『死の棘』で有名な作家、島尾敏雄(1917~1986)が、 先の大戦の末期、特攻艇隊の第18震洋隊の隊長として、奄美群島の加計呂麻島に赴任し、 そこで島育ちの女性ミホと愛し合うようになり、特攻出撃の直前に自分も死を覚悟して駆 けつけたミホと海辺の砂浜で会うという、伝説的夫婦の実際にあった話をもとにしている。

そして、作家でもあった妻ミホ(1919~2007)の作品『海辺の生と死』の中の 「特攻隊長の頃」「その夜」などを原作として、その舞台となった加計呂麻島にロケーショ ンを行っている。また、奄美の島の野生の景観と豊かな時間の流れを映画に取り組みなが ら大戦末期、神の島といわれた異次元な空気の漂うこの地の様子も表現している。

昭和19年12月、島の国民学校教員として働く大平トエ(映画ではミホはこの名前とな っている)は、新しく駐屯してきた海軍特攻艇隊の隊長朔(さく、映画では島尾はこの名前 となっている)中尉と出会う。朔隊長が本を借りたいといってきたことから、お互いに知り 合い、やがて好意を抱き合うようになる。朔隊長は今までの軍人の態度の尊大なところなど は全くなく、島の人たちや子供たちにも慕われ、また隊員たちも折り目正しく親切であった ので、島の人たちは若い隊長を「ワーキャジュウ(我々の慈父)」と呼んで心を寄せていった。 トエも軍歌よりも島唄を歌いたがる軍人らしくない朔隊長に惹かれてゆき、やがて、二人は 逢瀬を重ねるようになる。

しかし、戦局は厳しくなり、すぐ近くの沖縄は陥落し、広島には新型爆弾(原子爆弾)が 落とされる。島は夜も昼も敵の空襲にさらされるようになる。朔隊長はいう。「僕は時が来た ら敵艦に体当りするためにここにいる。もうすぐ死ぬだろう。もう会わないほうが良いかもし れない」トエは激しく応える。「トエは、ただ貴方を愛したいのです」

そしてその時が来た。昭和20年8月13日夕刻、(水上艇の特攻攻撃は夜に行われる)トエ のところに隊長付き大坪兵曹が駆け込んできて、「隊長が征かれます」と叫んだ。「もう征って おしまいになりましたの」「これからです」「大坪さん、手紙を書きますからとにかくお持ちに なってください」トエは「ついては征けないでしょうか。お目にかからせて下さい。なんとか してお目にかからせて下さい。決して取り乱したり致しません」との手紙を大坪兵曹に託した。

そして、トエは急いで裏庭の井戸に行き、身につけていたものを全部脱ぎ、冷たい水で何回 も体を浄めた。映画のこの場面は古井戸とそれを囲む森の木々と相まって、私は息を飲んだ。 そしてかねて用意してあった死出の装束を取り出した。真新しい白の肌着と襦袢、その上に母 の形見の喪服をつけて、朔隊長からの形見として渡されていた短剣を抱くと、足袋はだしのま ま基地近くの浜辺目指して小走りに駆けた。

敵の艦艇が島に近づき、最後の発進命令が出れば特攻艇52艘は一斉に出撃する。残った隊員 と村の青年団員は最後の玉砕攻撃をして、集落の人々は一箇所に集まって集団自決する手筈であ った。集落を出るとき、トエの耳にも「皆さんいよいよ最後の時が参りました。自決にゆく時が 来ました。家族全員揃って集合場所に集まってください」と触れ歩いている人の悲しげな声が聞 こえた。

特攻基地は機密基地でもあるので、普通の道は通れない。トエは暗闇のなか海岸の磯伝いによ うやくたどり着いた基地近くの浜辺の砂浜の上に坐って、特攻艇の出撃を見届けたあと、短剣を 突き立てて死ぬつもりであった。その時、足音に振り仰ぐと、白いマフラー、半長靴の搭乗姿の 朔隊長が立っていた。トエは半長靴を抱いて頬をつけて泣いた。トエの死の決意を察した朔隊長 は「これは演習をしているのだよ。心配しなくていい。さあ、立ちなさい」とすぐ帰るように諭 して自分も戻っていった。トエは出撃の音に耳を澄ませ、そのまま夜の浜辺に坐り続けた。この 時、トエは生と死の間にいた。朔隊長はすでに神であり、その死出の旅のお供が出来る。そして この場所は奇しくも一年前に潮干狩りに出た母が不慮の死を遂げた所だ。ここで死ぬことは定め られた運命のように、懐かしくさえ思われた。

しかし、夜が明けた。敵の制空権下昼間には特攻艇の出撃はない。明るい太陽に生気を取り戻 したトエは村落へ帰ると、そこで一軒の家から生まれたばかりの赤子の泣き声を聞いて、一層に 生気がよみがえった。そのまま、8月15日の終戦を迎える。そしてトエの下に大坪兵曹が「元 気でいます」という朔隊長の手紙を届けに来て、この映画は終わる。

この映画でトエを演じた満島ひかりは、昭和60年生まれ、沖縄育ちであるが、満島という姓 は奄美大島にルーツがあるとされている。彼女はそれを意識して島の言葉や歌を介して自分の役 と物語を上手く繋げて演じられたと言っている。それだけに、歌われる島唄「千鳥浜 千鳥よ なぜお前は泣くの……」「チジュラハマョ チジュラヨ ヌガウラヤ ナキルヨ……」などは、現 地ロケの風景や実際の島人や子供の出演と相まって、当時の加計呂麻島の雰囲気をかもし出すのに、 重要な役割を果たしていた。

そして、このような島にも、死の影がしのび寄ってきたあの大戦の末期、アメリカ軍の圧倒的 な猛攻が続くなか、多くの人が特別攻撃、玉砕、集団自決など、死を覚悟する場面に直面してい たことが分かった。私はこの映画を見て、自ら死を覚悟した時に起こる、悲壮なそしてどこか懐 かしいともいえる精神状態を理解できる気がしていた。しかし半面、軍人は勿論民間人の多くを も、このような気持ちにさせていった戦争の奥深い恐ろしさ、むごさ、残酷さに改めておののい たのである。

さて、このような出会いと生と死の間を過ごした、島尾敏雄とミホはその後、実際にどうであ ったのか。島尾はミホの養父の下を訪れて結婚の許しを得る。そして一旦先に特攻隊員を率いて 島を出て復員する。ミホは当時一般の航行が出来なかった米軍監視下の海を闇船で渡り、昭和2 1年3月に二人は結婚するのである。

作家となった島尾をミホは献身的に支えたがその後昭和29年、ミホは島尾の日記を読み、文 学仲間の女性との情事を知る。そこからこの夫婦のすさまじい修羅の日々が続くようになるので ある。夫を執拗に責め続ける妻、どれほどきびしく責め続けられても妻のそばを離れようとしな い夫、このような夫婦の姿を描いた作品『死の棘』は「私小説の極北」とも評され作家島尾の代 表作となった。

事実、このことで精神に異常をきたしたミホの精神科の閉鎖病棟にも付き添って、一緒に入院 するなど、島尾はなにがあってもミホに従い添い続けた。このような島尾のことを、島尾文学の研 究家でノンフィクション作家の梯(かけはし)文子さんはこの島尾の背景には「戦争中の罪悪感が あったのではないか」と指摘している。
(朝日新聞2017年8月22日、13版文化・文芸)

島尾のいた特攻基地の島の住民たちは隊長を頼りにして敵が上陸した場合の集団自決用の壕を隊 員の手を借りて掘ってもいた。もし終戦が遅れたら、島民の集団自決が起きた沖縄の渡嘉敷島と同 じことになったのではないか,という恐れは島尾の心に残り続けた。そしてミホが不倫を責める言 葉は、戦時中のことを責める言葉と重なったのではないか、とも梯さんは話されている。沖縄の渡 嘉敷島の集団自決は、元指揮官だった陸軍大尉が命令した結果ではないか、と言う抗議が戦後の沖 縄ではあったからである。

私は沖縄の渡嘉敷島での集団自決にいたったその真相の追求は別として、あの加計呂麻島では、 島人による集団自決の呼びかけがあったこと、そしてミホが死地に赴く島尾に殉じて死を決意して いた事実は、戦争に対する黒い思いとして元特攻隊長であった島尾の心を占めていたことは間違い ないと思っている。

島尾ミホは生前「島尾敏雄はただの人。でも、『隊長さま』は、神さまでした」と言って、とき には戦時中、島で歌われていた「あれみよ、島尾隊長は人情深くて豪傑で……あなたのためなら よろこんで、みんなの命をささげます」という歌を口ずさむことがあったようである。

昭和61年11月、島尾敏雄が亡くなると、その後は喪服を常に着続けて生活していた。そ して、平成19年3月、独居していた奄美市の自宅で島尾ミホは、脳内出血のため亡くなった。 満87歳であった。

(平成29年9月26日)

****** 宙 平 ******