夢の街の舞台で剣が舞った 宙平氏 平成20年3月20日投稿From
Chuhei
写真は、フェンシング世界選手権での女子のサーブル競技です。
私は大学生の時、このフェンシング競技をしていました。
夢の街の舞台で剣が舞った
戦争が終わった。家は焼かれ、食べ物も無かったが、家族共々間借りした親類の家から 私は中学校に通った。昭和二一年の四月だったと思う、大きな戦いに敗れて以来、始めて のさくらが何事も無かったように一斉に咲いた。
私は友人と宝塚に遊びに来ていた。この街には、ようやく浮き立つような活気がよみが えりつつあった。長く中止されていた歌劇が大劇場で再開されようとしていたからである。 演目は『カルメン』で、春日野八千代がドンホセ、そして深緑夏代がカルメン役を演じる ということだった。
私たちは歌劇を観るつもりはなかったが、阪急宝塚駅から、劇場へと向かう花の道を遊 園地に向かって歩いた。まさにこの時、この道は、上から積み重なるように満開のさくら が覆いつくしていた。別世界のようなその中で、私は空爆も、機銃掃射も考えなくてよく 壕に身を隠す事もなく、花の世界に埋没できる平和の喜びをかみしめていた。その中から 花の精のように、明らかに宝塚歌劇のスターらしい二人が並んで現れた。少し微笑んで何 かを語り合いながら、きりっとした姿で歩いていった。美しい夢のような道だとそのとき 思った。この情景が、記憶の中にいつまでも残り、宝塚という言葉を聞くと私はこの時の 花の道を思い出す。
このイメージがいつまでもあって、その後、阪急宝塚線曽根駅の近くに住んでいた私が、 今津線甲東園または仁川駅を降りて関西学院大学に通学するのに、十三駅から西宮北口回 りでなく宝塚を回っていた。宝塚駅で乗り換える度、いつも「ここは夢の街」だという想 いでいた。私は大学ではスポーツとしてフェンシングを始めた。当時は占領軍により剣道 をする事は禁止されていた。剣道が出来ないのでフェンシングに転向した人も多かった。
私が始めた当初は同好会であったが、やがて部員も増え、申し出て大学の体育会の正式 の部となり、大学から援助金をもらえるようになった。そして、関西の各大学と連携して 関西学生連盟を設立して、関東の連盟と共に学生の全国選手権大会に出場するようになっ た。また国民体育大会の主要な種目となっていたので、兵庫県の代表として出場もした。 私は二年間キャプテンを務め、決闘の型に近いといわれる、エッペの種目では全国学生ベ ストランキング十位までに数えられるようになっていった。
大学を卒業して、社会人になってまだ間が無い昭和三十年の六月のことだった。フェン シング界の長老である大先輩の三島さんから「明日から二日間、宝塚歌劇団へフェンシン グを教えに行ってくれ」という電話がかかってきた。大学の四年間はフェンシングばかり に明け暮れていた私の血が騒いだ。会社には休暇届けを出し、現役のキャプテンの古本君 に道具を持ってくるように頼んで、二人で夢の街に出かけていった。
出し物は、星組の『ミランの恋人たち』というミュージカルで、その中の決闘場面にフ ェンシングが出てくるのである。七月からの大劇場公演が迫っており、今は総仕上げの特 訓中だということであった。主役は星組のトップスター寿美花代さんで、勿論決闘場面で は、彼女が中心となって剣を振るうのである。
最初の日、大劇場の裏の建物の三階にあった稽古場に行ったところ、この日は肝心の寿 美さんはいなかった。そして演出を担当する有名な白井鉄造氏もいなかったのである。二 人とも今東京にいて明日帰ってくるらしい。
歌舞伎の殺陣師の小金吾さんが指導に来ていて、生徒を三〇人位並ばせて「フェンシン グのレッスンをして下さい」と私に言った。
私と古本君が実際に剣を構えて見本を示した。そのあとで、並んでいる生徒達に「マル セ」(前進)「トッシェ」(突き)などと私が号令をかけると、タイツ姿の若々しい女性 の群像が一斉に動き始めた。
さすがにみんな、のみこみは早いし対応も敏感で形も美しい。それに動く女性の熱気が 伝わってくる。私は気持ちを昂ぶらせて、夢中で型を示し号令をかけ続けた。
二日目は白井鉄造氏が、早くから来てじっと私が号令をかけているレッスンを見ていた が、「もっと面白い派手にみえる型はないのか?」と聞かれた。それではと、私は剣が舞 うサーブル(突くだけでなく斬ることも出来る剣)の型に切り替えた。確かにフルーレ (主として胸部を突く剣)やエッペ(全身どこでも突ける決闘に近い剣)の型では、舞台 ではよくわからないので面白くないのかもしれない。
昼頃、ようやく大柄で瞳の大きな寿美花代さんがやってきて、「よろしくお願いします」 と私に言った。もう集団のレッスンは終わっていた。私は又、初めから「剣の持ち方はち ょうど小鳥を掴んでいるようにします。ゆるく持つと飛び去ってしまいます。しかしきつ く持つと死んで動かなくなります」などと寿美さんだけを相手に、剣を持って話し始めた。 その時「寿美さん急用ですよ」と誰かが呼びに来て、彼女は急いで出かけていった。それ きりその日は、もう稽古場には戻ってこなかった。「忙しい寿美さんですが、決闘場面は 大丈夫ですか?」私は小金吾さんに聞いた。「心配しないで、後は私がやりますから、い ろいろ有難うございました」こうして、フェンシングのレッスンは終わった。
その一ヵ月後、私は満席の大劇場の観客として決闘場面を興味深く見ていた。寿美さん のフェンシング・フォームは颯爽としていた。私が彼女がいなかった時にレッスンした筈 の型を、知らぬ間にマスターして見事に剣を使いこなしていた。そして舞台では、集団で 私が号令をかけた一人一人の生徒がすごく引き立って見え、美しく剣が舞っていた。私は 思わず一人で拍手をしていた。
この日の観劇は私にとってかけがえのない思い出となった。舞台を見ながらも学生時代 通学で毎日眺めていた夢の街宝塚の情景が重なり、その夢をさらにふくらませるのがこの 歌劇だ! との想いがこの時、私の頭を駆けめぐった。そしてささやかではあるがフェン シングでその夢の創造に参加できた喜びが湧き上がってきたのである。
私は今でも、乗った阪急電車今津線が宝塚駅の手前で大きくカーブして、大劇場の建物 の見える付近を通りすぎる時、いつも剣の舞ったあの日の舞台が、頭の中にはっきり浮か び上がってくるのである。
■■◆ 宙 平 |