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Chuhei
昭和17年、この有名な「山下・パーシバル両司令官会見図」を描いたのは宮本三郎画伯
です。右はその時のシンガポールのイギリス軍降伏会談の報道写真です。
写真クリックで拡大します。 下の写真は同じ宮本三郎画伯の「飢渇」、昭和18年の作品です。
夜汽車の復員兵
敗戦後、中学生の私は初めて一人で旅をした。宇和島の近くの吉田という処に疎開していた 私と同い年の従兄弟から、戦争が終わったので戻るまでに一度来ないかと便りをくれたからで ある。
西宮の私の家は空襲で焼かれ、千里山の伯母の家に寄寓していたが、神戸から汽船で四国の 高浜まで行って汽車に乗った。戦争が終わって10ヶ月経っていたが、瀬戸内海のあちこちには まだ沈没した船がそのままになっていた。
3日ほど滞在したあと、帰りは神戸まで戻るという従兄弟と一緒だった。夕方高松から連絡 船に乗り、夜汽車で神戸に向かった。
当時の列車は、それこそ超満員、トイレも洗面所も人が乗っかっていた。私たちは早く乗車 したので、なんとか座れたが、すぐに全く乗り降りも出来ない状況になった。途中の駅では、 若い女の人が窓から必死の形相で乗り込んできた。通路もすき間がなく座席も3人かけになった。
私の前に復員服の男の人がいて、どこまで行くのかと聞いてきた。そして、自分は内地に帰っ てきたばかりだといった。まだ戦争しているような精悍な面構えをしていた。
「どちらに行っておられたのですか?」 「最初はマレー半島、そして昭南島(シンガポール)、それからフィリッピンだよ」 「山下将軍と一緒のルートですね」 「そうだよ。最初から将軍と一緒にいたのだ。あの開戦の12月8日は緊張したな」
彼によると、アメリカ・イギリスとの開戦日の午前1時過ぎマレー半島東岸沖には、日本軍 の船舶が集結していた。
「信号はまだか?」山下将軍が重々しく彼に聞いたという。やがて「ヒノデハヤマガタ」という 開戦を告げる暗号が入った。午前1時30分、マレー半島北端のコタバルへの上陸作戦が開始さ れた。
「これは『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の真珠湾攻撃より1時間20分も早かったのだよ」と彼 はいった。
砲爆撃をしないで、いきなりの上陸に激しい戦闘が続くなか、山下将軍の部隊はタイ王国のシ ンゴラとパタニに上陸し、タイ領内を通過、そしてマレーのイギリス軍国境陣地を交戦の上突破 した。
上陸から55日間、95回の戦闘の末、日本軍はイギリス軍をシンガポールに追い込み、マレー半 島南端のジョホール・パルに達した。
海峡をわたりシンガポールへ上陸後も激戦が続いたが7日目になり、あの有名な山下将軍とパー シバル司令官との会見があった。私は聞いた。
「YesかNoか? と将軍が強く降伏を迫った会見ですね」 「あれは台湾出身の通訳がいたが、意味が解りにくくて、迫ったというより将軍は相手の降伏の 意思を確かめたのだよ」
シンガポールは日本の統冶となり、昭南島と名前を変えた。イギリス軍の捕虜は10万人いたが、 このとき残された食料は美味く充分にあった。これを「チャーチルの給養」と呼んでいた。
「それからどうされました」 「マニラにわたり、やがてアメリカ軍の上陸を迎えた。山下将軍は住民を戦乱に巻き込むことをさ け、ルソン島の山中に移った。戦局が厳しくなるにつれ、地元ゲリラも蜂起して攻撃してきた。兵 站が途切れ、マラリアや飢えに苦しんだ。そして最後は地獄だった」
彼の表情が急に変わり、それからは黙り込んでしまった。満員の夜汽車は、ごとんごとんと物憂 く走っていた。車内の人いきれの中で、従兄弟は深い眠りにおちいっていた。
今年のはじめ、私は神戸市立小磯記念美術館の宮本三郎没後35年展で、戦時中最高傑作といわれ ていた『山下パーシバル両司令官会見図』の山下将軍に出会った。そして将軍の迫力ある顔つきか ら、あの夜汽車の復員兵との話を、まざまざと思い出した。
日本が敗れ、このシンガポールの会見から3年7ヶ月後、山下将軍はフィリッピン・ルソン島北 西部のバギオで現地連合軍に対する降伏文書に調印した。そのとき、パーシバル司令官もその場に 立ちあったのである。山下将軍は自刃も考えていたといわれている。しかし、未だ山中にこもり戦 っている日本兵を一人でも生かして帰すには、まず自分が正式に降伏し早く戦いを止めるべきだと 語ったとされる。日本軍の犯した住民虐殺などの罪を問われ「知らなかったが、司令官として責任 は認める」と潔く昭和21年2月23日絞首刑に処せられた。62歳であった。
彼は二・二六事件で青年将校を支持したことから、陸軍統制派の東条首相らから疎まれ、在外勤 務に追われた。
最後に「兵はまさしく凶器であり、大きな罪悪である」という言葉を残している。彼の遺言は @日本人の道義的判断力・義務履行力の向上A日本の科学教育の向上B女性の地位・教育の向上、 などを長文で訴えていることで有名である。
画家宮本三郎は従軍し傑作といわれた戦争画を残したことから、戦後「自分も戦争犯罪人だ」と 語っていたと伝えられている。そして、『死の家族』という作品で、山下将軍かまたは同時に処刑 されたマニラ憲兵隊長大田清一中佐らしいといわれている横たわる死者を描いた。その後は裸婦・ 花・舞妓などの女性の画に専念した。
宮本三郎の戦争画の中にも、戦争の鬼気迫る悲惨な情景を描いた作品もある。それは『飢渇』と 題して、負傷した左腕を包帯で下げた兵士が這いずりながら前進しようとして、その悲壮な顔が水 たまりに映し出されるという画だった。
私は美術館のその画の前に立ちすくんで、夜汽車での復員兵の「最後は地獄だった」という言葉 の意味を改めて考えていた。 (平成22年3月4日)
■■◆ 宙 平 |