中 国 山 地 の 旅 (5)
静かで雰囲気の良い町並みを見て回った後、最後に1900年に建築された国登録有形文化財「豊田家」を見に入った。入ると案内する人がおられ、彼女の年齢は65才前後かと思われるがきりっとした美人である。遠慮しながら部屋に入り、写真撮ろうとすると、気配りよく扉を開けてくれ、より明るくするために電気もつけてくれる。
豪商の家であったこともあり、美しい中庭があり、廊下にはめずらしい太鼓橋が設けられ、障子にはきめ細かな細工がなされ、襖は金箔がほどこされている。
部屋を一周するように案内された後、彼女からの要望があり、私は今講談にはまっていて勉強中です。ぜひ倉吉の物語を聞いて帰ってください。時間は20分ぐらいですとの言葉がかえってきた。我々は急ぐ旅でもないので、是非聞きたいというと、二階の部屋に案内された。
部屋に入ると、30人は座れる大きな部屋で、前に舞台も設けられている。しかし、聞く客は我々二人だけである。少し待っていると、お茶とお菓子が出され、これを食べながら気楽に聞いてくださいとのことである。 
講談のタイトルは「淀屋の光と影」である。(内容はインターネットからお借りする)
大阪市北区の「淀屋橋」に名前を残す、江戸時代の天下の豪商淀屋は米市を中心とする商いで莫大な財産を築く。一方、当時の江戸幕府の財政は火の車。淀屋は諸藩に資金を用立ていた。(なんと現在の通貨に換算して100兆円をゆうに超えたといわれている)
淀屋はその財力があだとなり、「町人にしては贅沢が過ぎる」という理由で全財産を没収され、大阪からも所払い。さすがの淀屋も完全に没落したと思われたが、しかし、取り潰し騒動を予感していた淀屋辰五郎は生き残り策を講じていて、淀屋で番頭をつとめていた牧田仁右衛門をふるさとの倉吉に派遣し米屋を創業させ、密かに淀屋の暖簾を繋いだ。倉吉の地でも米穀商
の他にも手広く事業を展開。農機具の「稲扱千刃」を開発し、牧田家は着々と財を築いていきた。そして、失った大阪の地所を買い戻し、「淀屋清兵衛」として淀屋再興をはたしたという物語。
小気味のいい話し方に聞きほれてしまい、良い思い出ができましたとお礼を言って別れた。
次は観光課で勧められた関金温泉に向かう。市街から少し離れた場所にあり、温泉地であるが単んなる村のようで、つつじの時は美しいところではである。ここから少し離れたところに撮影スポットがあるという大山池に向かう。途中には梨畑が広がっているが、花は終わった後で、新芽をだしている。
大山池は水田のかんがい用として造られた溜池で、大山の姿がさかさに映ることから「大山池」と呼ばれるようになったとか、この日は雲に覆われて大山の姿が見えなかった。晴れていれば大山池に大山の姿が映ると思うと残念である。 
次は三朝温泉、私はかなり昔に行ったことがあるが、相棒は行ったことがないので、温泉街を見に行く。
雨の後であったため、川は濁った大量の水がながれ、風情を損なわしている。観光客の姿は
あまり見られず、閑散としている。寂しいかぎりである。

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